とある男女の初めてのディナー

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とある男女の初めてのディナー

傘を打つ雨音がうるさいなぁ、と思いながら、指定された初めて降りる駅の前で待っていると、確か有名なブランドの、古いけど今でも評価の高い限定モデルのスーツを身に付け、しかしながら足元は量販店で売っているようなランニングシューズを履き潰し、水たまりも気にせず真っ直ぐにこちらに向かって大股で、自ら目印にと指定した白黒の風変わりな傘をさした男が近付いてきた。 「えぇと……君……でいいんだよね? この傘、珍しいだろ。 去年の秋頃に学会ついでにパリで買ってきた、ブランドじゃないけど一点物のまぁまぁ高級品なんだよ。 こっちじゃ絶対手に入らないんだよね。 あぁ、それで靴はね、やっぱり歩きやすいのがいちばんだろ? 靴は歩くためにあるんだから、かかとが高いとか、変に硬いとか、つま先が尖ってる必要なんか絶対に無いよね。 似合うとか服とのバランスとかじゃないんだよ、重要なのは合理性だけで充分じゃないかな。 まぁそんなことは別にいいよね。 今日はまたゼミが長引いちゃってさ。 いつものことなんだけどさ、毎日質問に来る学生が多くてさ。 少しは自分で考えろってもんだけど、そこそこの給料ももらってるし、研究室で自分の実験やる時なんかはタダで手伝ってくれる重要な人材だし、無下(むげ)にはできないからね。 何しろ心理学の実験なんて、ヤバ過ぎて学生相手ぐらいじゃないと社会的にアウト、ほんとアウトだよ、はは。 あぁ、今度来てみる? 面白いよぉ、今流行りの脳医学なんかとは違ってさ、目に見えないものを想像して操ってるっていうかね、医者はすぐ切ったり貼ったり目で見える何かにしたがるけど、うちらはそんな野蛮なことはしないで、もっと頭を使ってさ、考えてるんだよ。 あ、ここ、ここ。 前に一度来たことがあるんだよね。 ワインとかあんまり興味無いんだけど、お薦めで出されたのが美味しくてさ、つい一瓶開けちゃったぐらいなんだよ。 いや、ほんと、勝手に薦められたもんだから何てのだったか全然覚えて無いんだけど、予約の時に前と同じのって言ったらあっちはちゃんと覚えてたみたいでさ。 一度しか来たこと無いのに偉いよね、なかなかいい店だよ、うん。 あぁ、どうも、予約してたんだけど」 こっちは駅からこの店へ至るまで未だ一言も発していないが、とりあえず傘をたたみさっさと入っていく男に従って店に入る。 しかしこの黒縁眼鏡で歯並びの悪い痩せぎすの中年男は、きっとあまり外食などしないのだろう。 その店は、多くは無いが首都圏各地にいくつか出ている、高級志向のフランス料理チェーン店で、自分は何度も行ったことがあった、が、それは別に敢えて今言うことでも無いし、などと思いながら店内に入り席に案内されナフキンを膝にかけている間にも、彼は喋り続け、こちらに相槌を打つ(いとま)さえ与えてはくれなかった。 そうこうするうちにワインと料理が並び始め、いちいちすべて事細かに説明する男を尻目に、とりあえず出されたものは食べておこうと、順にゆっくりと口に運ぶ。 まぁ、高級志向なだけに味は悪くない。 やがてメインディッシュの、神戸ビーフを使用しオリジナルのデミグラスソースのかかった、やや小ぶりなハンバーグステーキが出てきた頃、男はそれに合わせて何か言おうという台詞を決めていたのか、矢継ぎ早に途切れることの無かった話が急に終わったかと思うと、それまでの流れとは全く脈絡も無く新章に突入した。 「そうそう、でも僕自身について、まだ何も話して無かったんじゃないかな。 でもそれは僕の人格というようなものだけで考えてもあんまり意味が無いだろうね。 僕は自分自身の人格に、それほど重きを置く意味が無いと思っているから。 人格なんてしょせん曖昧で不完全な作り物だしね。 そう、ちょうどこの、肉にかかっているソース、いや、肉汁、うん?こっちのスープかな? サラダのドレッシング……いや、やっぱりこの、ハンバーグから溢れ出す、肉汁だね 。 肉汁ってのは、そのすべてが肉から出てる汁、みたいな名前をしているが、こんなハンバーグみたいなもの、調理前の段階で既に考えられないほど細かく裁断された肉片の塊を元に、なんやかんや混ぜくってこね回してるわけでね、そこから出てくる汁なんてものは、もはや本当に単純に肉の汁なのかどうかもあやしい、まさしく曖昧で不完全な作り物なわけだよ」 言いながらハンバーグをフォークのみで雑に切り分けると、その内からは肉汁、すなわち彼曰くの人格なるものが溢れ出し、デミグラスソースと絡み合うその美味そうな肉の塊を頬張って、男はさらに続ける。 「人格なんて、脳の表層組織が生み出す幻想、寝てる間に見る夢みたいなもんなんだ。 統一的な連続性を保たせてるかどうかの違いだけで、原理的には同じものだからね。 つまり、そう、だから」 細かく切り分けたハンバーグの一つを口に運び、 「こうして口に入れて咀嚼(そしゃく)すれば唾液が出て」 肉の大きさからすると随分長く噛んでからやっと飲み込み、ふぅと一息つき、 「嚥下(えんげ)して胃に届くと胃液が出るだろう? それと同じような、環境や状況に反応して垂れ流される消化液みたいなものなんだよね。 わかるかな、わかるよね? だから別に世間が言うほど、人格、心、精神、アイデンティティ、それともペルソナって言った方がいいかな? そういうものはね、価値だの尊重だのと強調するような、大した現象でも無いと思うんだよね。 だから僕は、僕という人間、動物、生物、物体、つまり僕というモノは、こういう人格を内外に対して垂れ流す脳の神経回路を作り、そういうパターンを作る傾向の高かった脳を持っている、この人間という肉の物体で、この肉にはこれまでの生存の各過程で別の人格を形成する可能性もあったが、今現在はこういう状況であって、 そして今後さらにまたは、その人格が統一的な連続性を保てなくなる可能性もいくらでもあって」 皿の端に並んだプチトマトの一つを、何度も失敗しながらもフォークで突き刺し、 「例えば脳が破損したり」 同様に何度も失敗し果汁を皿中に広げながらも半分に割り、 「例えば脳の中の回路が断線したり」 その潰れた半切れを口に運び、 「例えば脳の一部を病や事故で失ったり」 皿に残されたもう半切れのプチトマトは、どろりと薄赤い種と汁を流し無残な姿で細切れのハンバーグの中に沈んでいたが、それをまた必死にハンバーグ片と共にフォークで突き刺し口に運ぶ。 「それでね、そうなった時には、おそらく人格なんていう曖昧で不完全な作り物は、一緒に一部や全部が損壊してしまうよね。 それでも全体としてまだ生存していれば、僕という肉はまだ僕自身だから、僕は僕だよね? でもおおよその人間は、人格こそが個々の肉を識別する記号だと考えるから、恐らくはもうその物体を僕だとは思えないんだろ? こないだまで僕だった、僕みたいな外見をした、僕の延長線上に現れた、僕じゃない、僕の真似ごとをする、違和感だらけの気持ちの悪い物体、って感じにさ。 あぁ、っていうかトマトの種ってよく見ると気持ち悪いよね、なんか青臭いし。 そもそもあんまり好きじゃなかったよ、生のトマト、はは。 話の流れで食べちゃったね、はは。 えぇと、なんだっけ? そう、だからまぁ、僕が何者だとかいう話をするなら、人格だけじゃなく、この容れ物の肉もひと通りひっくるめての僕だからさ、僕のことをすべて正確に知りたいなら、心理テストや逆行催眠をかけるってのもひとつ重要ではあるんだけどさ、それだけじゃなくて、一緒に人間ドックにでも行ってくれるのがいいかなぁと思うよ。 なんというかなぁ、愛するなら骨の髄まで、とかいうじゃない? まさしく、本当の骨の髄まで、ってね、はは。 やっぱり世間一般みたいに人格だけで愛を語ってる時点で、そんなの曖昧で不完全で浅はかなものだと思うんだよ。 心理学をやってると逆にそういうのが見えてくるっていうかな。 人格だけが重要なんじゃないんだよね。 人格の容れ物みたいに見えるこの変な人間型の物体そのものにだって、ちゃんと意味はあるし、僕が僕である証明として存在しているだろ? はは、でもこれ、逆に当たり前と言えば当たり前の話みたいだね。 普通の人は人格や精神、心理なんてもの、ここまで真剣に考えて無くて、むしろ体主体で生きてるみたいなとこあるわけだろ? そしたらもう普通の話かもね。 あぁ、デザートが来た。 そうそう、つまりもうこのデザートみたいにさ、愛だの恋だのって話はさ、もっと甘くさわやかで初々しいものであるべきだよね、いつまでもこんな肉や肉汁の話ばっかりしてても仕方ないんだよ、はは」 ウェイターがテーブルにそっと皿を置くやいなや、そこにおしゃれにあしらわれたミントシャーベットをすくいとって、こちらに見せるように軽く掲げてみせた。 「この、さ、嗜虐(しぎゃく)的なまでの高糖度で生成された人工的な甘味物の方が、僕にとっては肉汁なんかよりよっぽど意味のある事象じゃないかと、思うんだよね。 心だの体だの、そんな話なんかどうでもいいんだよ、うん」 結局私は名乗ることも無く男の話を聞かされるだけ聞かされ続け、ものの三十分ほどで食事を終えて店を出た。 しかし数歩進み、何かとても意を決した瞬間なのだろうか、これまでに無く言葉が途切れ、と言ってもほんの三秒にも満たない間ではあったが、その後にちらちらと目を合わせることは無くこちらを振り返りながら、 「この後何か予定あるの?」 と尋ねてきた男だったが、私が無言で何度か頷くと、 「はは、そうなんだ、じゃあね、いいよ、みんな忙しいよね。 まぁまたいつでも連絡してよ。 僕も忙しいけどその時はなんとか時間作るからさ、じゃあね」 と一気にまくしたてながら早足に駅の方角へと消えて行った。 一応その背が見えなくなってからも数秒見送ってから、鞄から取り出したスマホでハートマークのアプリを起動する。 指先で素早く操ると男のプロフィール画面に辿り着き、 「無し」 つぶやいて、一覧から削除した。 理屈ばかり言う男は、自尊心と支配欲が強いくせに世間知らずで甘ったれの、閉じこもった子ども。 自分自身がからっぽなのを、理屈で必死に埋めようとしてるだけ。 かわいそうね。 しかもたいがいは、あれで自分が賢くてかっこいいとか思ってんだから、どうしようもない。 まぁいいか、あれで割り勘だったらさすがに足でも踏みつけてやったところだけど、一応、(おご)ってくれたし、その流れでタクシー代とか言って一万くれたし、そういうのはできるみたいね、あんなんだけどけっこうこういうアプリ歴、長いのかな。 っていうか……なんか毎回こんなのばっかりだし、もうマッチングアプリなんてやめようかなぁ。 やっぱりこういう簡単な世界には、すぐヤろうだの過剰な自意識の押し売りだのみたいなイタい輩しか集まんないのかなぁ。 つっても零細企業の下っ端事務員なんて、こんなのでもしなきゃそれこそまともな出会いなんか一つも無いし。 まぁ……とりあえずこの一万でストロング的なの買って、帰ろ。 ハッピーもうちでキャンキャン言って待ってる頃だしね。 あの短い食事の間にも、雨は止んでいたらしい。 雲に満ちてはいるものの落とすべき(しずく)を失い沈黙した空を見上げてスマホを鞄にしまい、駅前のコンビニへと向かいながら、 まだ終電にもならない週末の駅前だって言うのに、本当はこんなに静かな所だったんだなぁ、 なんて気が付いた。
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