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だいたい三日おきくらいの幽鬱
◇ ◇ ◇
「どんなに辛いことがあっても、私は笑ってやりすごします——
「物覚えがついてから、泣いたことなんて一度もありません——
「それが私の長所です——
◇ ◇ ◇
1
「うぅ……うぅ……」
私は泣いていた。
名も知らない、東京の公園で。
夕暮れが差し迫り、そこかしこから夕ご飯のにおいが漂ってくる。何だか妙に懐かしくて、私の涙を喚起する。
私が最後に泣いたのは、いつだったっけ。覚えてない。それほど私は泣かない子だったのだ。「結葵はほんとに泣かない子だねぇ」と言われて育った。
逆に言えば、私は泣き慣れていない。
泣くのがとんでもなく下手くそだと、私は今しがた知った。
「うげ、へぇ、へぼ、うえぇい……」
と、嗚咽が私の口をついて出てくる。泣いたらもっとスッキリするもんだと思っていたのに、苦しくなる一方だった。
「うはっ、はっ、はーん……!」
と、西城秀樹のモノマネ——ではなく、悲痛な泣き声が木霊する。入り組んだ細い小道を適当に歩いて、突如ぽっかりと私の目の前に現れた公園は、だから人の往来など皆無だった。
私の不幸は、いったい何が遠因して始まったのだろう。別に、お供えものを勝手に取って食べたりだとか、神社の鈴紐でターザンごっこをしたわけじゃない。そんな不徳は致してない。それなのに、まるでドミノが倒れるように次々と私は不幸に見舞われた。
大学受験で大爆死した。彼氏にフラレた。親友とケンカした。愛しの青森を離れ、東京で浪人することになった。
そこまではまだいいよ。いやよくないけどさ。
四日前に上京した私は、東京駅で迷子——いやもはやあれは立派な遭難だった——になった。右往左往している間にスマホを落とし、拾おうとした際に蹴ってしまい、それは意思を持ったように東京駅のタイルを滑り、挙句、踏んで壊してしまった。この騒動の間にサイフも落とした。セルフ追い剥ぎ状態だった。
そこまではまだいい。いやよくはないけど。
一番の問題はそのあと。
サイフどころか、私はとんでもないものまで失くしていた。
影——だ。
十八年間、私の真似っこに従事してきた影が、失くなっていた。気づいたときにはぱったりと。
どこで落としたかなんてわからない。そもそも失くすものでも、失くせるものでもないから、探し方もわからない。
そこまではまだいい。
このときの私は、たしかにまだ笑っていた。「不思議なもんがあるもんだー」とか「青森さ帰ったら、おっ母に話してやらねばなー」とか。『影のないびっくり人間』として私は一躍有名になったりして!?……とか、浮かれてさえいた。私は根暗ならぬ、根明な人間なのだった。
しかしそんな悠長なことを言っていられなくなったのは、公衆電話から実家に電話をかけたときに端を発する。
——すみませんけど、どちら様でしょうか?
母は私を、どういうわけか忘れてしまっていた。母だけでなく父も。お姉ちゃんまでも。
「うへぇ、ふごぉ、ひぐ、うぃ」
と相変わらず下手くそな嗚咽を撒き散らしていると、私の足元を影が覆った。奇妙な影だった。雪だるまのように頭が大きくて、脚が極端に短い。
顔を上げると、一つ目の妖怪が私を見下ろしていた。
「おろおろ、どうしてそんなに泣いとるんじゃろな」
妖怪は稾の合羽に身を包んでいた。前歯が麻雀牌みたいに大きくて、つるつるしていた。
私は影を失ってから、『人に非ざるもの』が見えるようになった。最初のうちは声をかけられるたびに腰を抜かして、生まれたての子鹿状態になっていた私だったけど、今は驚く気力さえない。
こんな状況になって初めてわかったのだけど、世の中には人の目に見えない存在——いわゆる妖怪、それに準ずる存在が、当たり前のように跋扈している。もしかしたら東京だけかもしれないけど、人ごみに紛れている妖怪たちを、私はこの目で何度となく目撃したし、彼らは私が見えている側の人間だと気づくと、あまりにも気さくに声をかけてくるのだった。
「……ちょっと、色々あって」
と私が答えると、妖怪は大きな目をさらに大きく見開いた。
「おろおろ、お前さん、ワシの姿が見えるのか」
「……はい。はっきりと」
「ちょっと隣に座ってもええか?」
「……どうぞ」
と私が答えると、一つ目の妖怪は緩慢な動きで私の隣に腰かけた。
遠くの空は茜色が染み出して、漂う雲の端っこは、ちりちりと赤く燃えている。競うように屹立するビル群は、白いものから順に黄昏て、次第に夜の気配を強めてゆく。
「おろおろ、お前さん、影がないようじゃな」
「……家出中なんです」
「ケンカしたんか?」
「……してません。黙っていなくなったんです」
「そうか……」一つ目の妖怪は、嘆息混じりにつぶやいた。「お前さん、名はなんと申す?」
「……萌乃結葵です。えっと、あなたは?」
「儂に名前なんてありゃせんよ」
「……私も同じようなものですよ。どうせ三日後には忘れられますから」
「おろおろ、それはどういう意味じゃろ」
「……ちょっと話が長くなってもいいですか?」
「構わんよ。儂はお前さんに、何も与えてやることはできんけどな、時間だけはたっぷりあるんじゃ」
一つ目の妖怪は、少し照れたように笑った。
この妖怪さんは優しいな、と私は思った。
「私、数週間前に上京してきたんですけど……」
スマホは壊れて財布も落として、おまけに家族に忘れられた私は、茫然自失で東京の街を彷徨い歩いていた。なるべく人が多いところにいたいと思った私は、東京駅から新宿を目指した。
——ねぇねぇ、今ちょっといい?
私に声をかけて来たのは、ホストのような見た目をしたスーツ姿の男だった。鼻筋は通っているのに、目が蛇みたいに尖っていて怖かった。でも私は、この状況で私に声をかけてきてくれた人を、無碍にすることなんてできなかった。
——簡単に日給二万円稼げるって感じなんだけど、どうかなーって。いやマジ、ちょー簡単だから! キミ何もしないで座ってるだけ。いやそれがマジなんだわ。で、どう?
やるやるやる、と私は三回続けて答えた。座るだけで二万円ももらえる仕事が、いったいどういうものか想像なんてつかなかったけど、蛇目の男性に縋るしかなかった。
でも、住所不定のうえに、身分証明さえできない私が、働けれるとは思えなかった。
——いやいや全然大丈夫なんだけど! ウチ寮あるし! なんだったら今日から入っていいからさ!
神かと思った。きっとこの人は蛇の神様なのだと。
蛇の神様の後ろにくっついて歩き始めたところで、
——ちょっと待ちなよ。
と女の人の声が聞こえた。
——一部始終見てたけど、アンタ自分が今から何するかわかってる?
そう私に声をかけたのは、パンツスーツのお姉さんだった。後にわかる彼女の名前は紅美さんは、元レディースの総長という肩書を持つ女性で、十八歳から二十二歳までキャバ嬢でひと財産築いたあと、二十六歳にして自分の店を持つとんでもない人だった。
——ミジックミラー越しに、男たちからいやらしい目で見られるんだよ。脚を広げてってリクエストがあったら、アンタはそれに応じなきゃいけない。その覚悟があるのかい?
とんでもない話だった。私が首を激しく振ると、紅美さんは私の手をとった。大きな声で悪態を吐く蛇目の男を無視して、紅美さんは私を彼女の店『竜宮』に連れていってくれた。
——働き口がないなら、ウチで働きなよ。
私はキャストとしてではなく、雑用担当として雇われることになった。私の住居は、キャストたちが使う待機ルームに決まった。
影を失くして、この世界から忘れ去られてしまった事実を、私は紅美さんに正直に打ち明けた。紅美さんは驚きながらも、その事実を寛大に、ありのまま受け入れて、『見つかるまでここにいなよ』と言ってくれた。『大丈夫。なんとかなるさ。私だって、何回も死にかけたんだよ? 死ぬ以外のことだったらさ、人間なんとかなるもんだよ』
紅美さんの言葉はまるで魔法のようだった。紅美さんが言うと、本当になんとかなるような気がして。
紅美さんもかつては田舎から出てきて、東京に吹きすさぶ悪意の風の中を一人で歩き、だからこそ人に助けられたとき、本当の善意を知ったという。
私のつたない語彙で、紅美さんの魅力を完結に言い表すことなどできないけど、なんといえばいいか、彼女は私に、『本物っぽいな』と思わせるものがあった。彼女からは、人生が透けて見えていた。
私は紅美さんを信用して、がむしゃらに働いた。町中で、幽霊や妖怪に出会って腰を抜かしながらも必死に。
だけど私が紅美さんに出会ってから三日後に、事件は起こった。
——おいお前! ウチの店にどうやって入ったんだ!
店を開けに来た顔なじみのスタッフに、出し抜けに私は罵倒され、追い出された。何が何だかわからず混乱する私は、とりあえず店の外で紅美さんが来るのを待っていた。その間、入店するキャストたちが私に目も合わせなかったから、イヤな予感はしていた。というか、ほとんど確信していた。
——悪いけど、私はアンタのことなんて知らないよ。
紅美さんの言い方や、目つきは他人へのそれ。恐ろしく冷たかった。
新たに知り合っても、私はだいたい三日で忘れ去られてしまうのだと悟ってしまった。
でも、と私は思った。紅美さんは私を忘れてしまっただけで、紅美さん自体が変わったわけではない。だからきっと紅美さんにお願いすれば、私はまた竜宮でまた雑用係として働かせてもらえる——と、そう思った。だけど。
——知り合いのフリをして、私に近づいてくるような卑怯な人間なんて、私は大嫌いだよ。
紅美さんはそう吐き捨てると、一度も振り向かずに店内へと姿を消してしまった。
「……それから私、ずっと放浪してたんです」
竜宮で稼いだ三日分の給料を頼りに、私は二週間東京をさまよった。日中は無料で利用できる施設で時間を潰したり、勝手に某大学のトレーニングルームに入って、シャワーを借りたりして。夜はもっぱら、ファミレスで浅い睡眠をとっていた。
この期間、影を失くしてしまった東京駅へと戻ってみたり、実家に電話をかけてみたりもしたけれど、何一つとして状況は好転しなかった。
それでも私は泣かなかった。だって泣かないことが私のアイデンティティだと思って生きてきたから。
でも、ついにお金も底をついてしまって——だから私は再び、紅美さんに会いに行った。彼女だけが、東京で私を救ってくれる唯一の存在だと思って。
「……紅美さんは私を再び忘れていました」
「そいつは、結葵にとっては良いことのように思えるがのう」
「……私も最初はそう思いました。けど、どうしてなんでしょうね。最初に出会ったときのように、紅美さんは私を助けてくれませんでした」
私は紅美さんに、竜宮で雑用として働かせてほしいとお願いした。土下座も辞さない覚悟だった。
「……だけど紅美さんは私を蔑むような視線で見て、『ウチの店で働きたいなら、まずは身なりくらいきちんとしろ』って。それだけ行って、すぐに背を向けてしまいました」
東京をさまよう間に、私はずいぶんと小汚くなっていた。瀟洒な建物のガラス窓に映る私は、ドブネズミのようだった。
「……それで私は、この公園で泣いていたんです」
「……そうじゃったのか」
一つ目の妖怪はゆっくりとまばたきをして、ため息をついた。
いつの間にか空は深い藍色が蓋をしていた。星はひと欠片も見当たらない。辺りには、人工的な光だけが点在していた。
「……あまり期待を持たせるようなことはできんがな」と一つ目の妖怪は静かに切り出した。「もしかしたら結葵のことを助けられるかもしれん人間に、儂は心当たりがあるんじゃ」
「え!? 本当ですか!?」
「ここからそう遠くはない神楽坂に、骨董品屋の男がおる。妙な男でな、『曰く付き』の呪われた品々を安く買い取っては、自分で修繕して売っておるらしい。『生霊憑き』、『呪い憑き』の品物でもな、その男は直せるという話じゃよ」
「……その人に会えば、私の影は直してもらえるのでしょうか?」
「……もしかしたらな。性格には難があるが、腕は確かじゃと思う」
性格に難がある——という言葉には少し引っかかるけど、今の私はその人に会いにいくしかなかった。
「私、その骨董品屋さんに会いに行ってみます」
「それがええ。店の名前は灯屋で、男の名前は灯倫太郎じゃ」
灯屋の、灯倫太郎さんか。忘れずに覚えておこう。
「ご親切に、ありがとうございました」
「いいんじゃよ」
「私、あなたのこと……一つ目さんのこと、絶対に忘れません」
「同じ言葉を返せぬ儂を、どうか許しておくれ。結葵の前途に幸あれ、と祈っておるよ」
私は最後、一つ目さんに軽くハグをしてから、東京の夜を一人で歩き始めた。
「気をつけて行くんじゃぞ」
振り返って手を振ると、一つ目さんの姿が闇夜に紛れて、もう見えなかった。
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