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この世には、蓋をしておくべき想いがある。誰かを慕う事、誰かに想いを寄せることは、確かに美しいのかもしれない。けれど、その裏返しに、そういった想いは時として他者との関係を修復不能なまでに破壊するだけの力を秘めているとも、俺は思う。
他人から見れば、ただの臆病風。でも。この居心地のいい環境が壊れるくらいならば、俺はいっそ――。
◇
「それは臆病者の意見だよ」
「相変わらず歯に衣着せないな」
「だって事実じゃん」
昼休み、教室にて目の前でジュースを飲みながらばっさり切り捨ててくるのは俺の幼馴染、如月絵里。幼馴染で気心が知れてるせいか、この通り遠慮という言葉を抜きにして接してくる。まあ、そもそもボーイッシュってのもあるか。ショートカットのヘアスタイルに、少々小柄だが細身の、いかにも素早さを体現したような外見からして内面の活発さがにじみ出ている。
「奏真もいい加減踏ん切り付けなよ。これ、どっちかが動かないと話進まないよ?」
「いちいち的確な」
「事実だから」
「二度も言わんでいい」
弁当をつつきながらも、嘆息する。
正直、今になって思えばコイツに頼ったときの俺は、相当参ってたんだろう。頼りない、というのではないんだが……。むしろ、俺にはないパワーに溢れすぎていて大丈夫なんだろうかと不安にさせられる。
「奏(かな)愛(え)ちゃん、かー。奏真のおかげでご縁ができてお出かけも何度かしたけど、いい子だよね」
「ただ、だからこそ踏み込めないんだよ……」
「あー、うん。言いたいことは分かる」
「それにほら、文芸部の現状、俺と彼女だけじゃん?」
「それも拍車をかけてるんだよねえ。気持ちはわかるけど、でもそれ押して乗り越えないと、お望みの展開にはならないよ?」
「それも分かってるよ。分かってるんだけどな」
「ままならないねえ」
二人して渋い顔つきになる。
そう。当然っちゃ当然なんだが、俺の想い人といえる松尾奏愛は掛け値なしに性格のいい女の子だ。いやまあわざわざ嫌なヤツを好きになるということもないだろうけど。ただ、それはそれだけレベルが高い、言ってしまえば今の俺で歯牙にもかけてもらえるか微妙というところなわけで。ぶっちゃけ、うじうじ悩んでるのもそこだ。勝算がない。
「一発間違えれば文字通り取返しが付かないからなあ」
「そもそも同じ部活内ってのがリスキーよね」
「そうですねはい」
「そう言えば頼まれてた件、当たってみたんだけど」
「お、どうだった?」
「ごめん、こっちのアテは外れちゃった」
「まあ、そうなるわなぁ。気にしないでくれ。こればっかりは仕方ない」
申し訳なさそうな絵里に声を掛ける。気遣ってるっていうのは勿論あるけど、本心でもある。
まぁ、松尾には内緒でやってることだし。中学の頃から、この癖は変わらないと痛感させられるな。
「って、今日じゃなかったっけ、活動日」
「そうだよ、放課後」
「日数重ねてるだけで、進展ないのがねえ」
「やめろ、心が死ぬ」
何せ2人でお出かけ、なんてのも未経験だ。女子同士ゆえか、絵里は既に何度か約束して出かけているみたいだが。いや、ちょっと待て。
「出かけた時って、何話してるの?」
「ん? いや、特に込み入ったことは話してないよ? 好きな服のブランドとか。学校のこととか。あとはやっぱり本のことだったね」
「まあ、そりゃそうだよな」
「分かってるとは思うけど」
「ああ。言わなくていいよ」
俺の話が俎上に上っていないことなんて承知しているとも。そりゃそうだ。俺は取り持って欲しい、とはお願いしていない。いよいよ困ったら、とは絵里から言ってくれてるが、そのカードは何となく切りたくないんだよな。自分でどうにかしたい。つっても、そうやって意地を張った結果が今の訳なんだけど。
「全くぅ。気持ちはわかるけどさ」
「だってフェアじゃないだろ。そりゃあまあ、あちらさんがどう思ってるのかってのは気になるけどさ」
「別にそのくらい、構わないと思うけどねえ」
「ま、折があれば俺から聞いてみるさ」
「はいはい、頑張れ、頑張れー、っと」
「そして今日も今日とて有効な打開策は思いつかず、と」
「こうまで指針ははっきりしてるのに、具体的な目処が立てられないってのもなかなかない話よね」
絵里のその言葉とともにチャイムが鳴る。互いにため息をついて、弁当と机を片付ける。
ほんと、ままならないよなあ。
◇
「加々美君は、恋愛って何だと思う?」
「はい?」
その日の放課後。文芸部の部室に入ってしばらくしてから発せられた、松尾の第一声だった。
「どうした、急に?」
「ちょっとね。最近恋愛系の小説ばかり読んでたせいか、ふとそういうことを考えてね。現実に、周りにいる人はどう考えてるんだろうって」
「なるほど」
読んでる本に影響を受けて、か。まあよくあるよな。太宰なんかは時々そのせいか、読んでると精神的に引っ張られて、しんどいときがある。なんてのは、俺くらいか。
「何ともいえないなあ。俺自身、経験ないし。そりゃ、小説読んでれば色んな形の恋愛があるわけで」
「お得意の近世文学はどうなの?」
「ああ、そりゃゴマンとあるよ」
ドロドロしたのもな。とは言えないので、心の中で付け足しておく。
「そうだな、有名なのなら井原西鶴の浮世草子、近松門左衛門の浄瑠璃。お夏清十郎伝説は、2人とも手掛けてるね。俳諧だって、恋句と呼ばれる類のものがかなりの量詠まれてるし。芭蕉も、式目の中で恋句は必ず一座で一句は入れろ、なんて言ってるね」
「簡単には答えを出せないから、遥か昔は平安の頃から恋愛はテーマになっているものね」
「源氏物語のこと?」
「それだけじゃないでしょう。短歌にだって、山ほど恋の歌はある。俳諧は、そもそもそういった短歌の流れを汲んでるものでしょう?」
「まあ、そうだね。俳諧の式目は、大体短歌を意識してるからね」
成熟する間には、色々すったもんだもあったけど。その話をし始めたら長くなるからやめとこう。
土台、短歌自体が男女間のやり取りの手段だからなあ。男が女に、あるいはその逆にしても歌を贈った、とあればそこら辺はお察しってやつだ。
「話が脱線したけど、結局、加々美君自身は恋愛をどう捉えてるの?」
「うーん、これといって答えられる形がないなあ。一歩引いて見る分には、面白いもんだと思うけどね」
「面白い?」
「俺たちが普段解いてるような問題みたいに確定した答えがあるわけじゃなくてさ。けれど、人それぞれに解は確かにあるわけで。そう考えたら、果たして恋愛って一口にまとめられるもんなのかなって興味はあるよ」
まあ、絶賛その渦中にいる人間としてはそこまで余裕ないんだけどね。あー、でも何だかんだ絵里との作戦会議は楽しいしな。毎回答えは出ないけど、この過程は苦しみながら楽しんでるのかもしれん。
「まあ、手探りで暗いトンネルを進むようなもんだけど」
「でも、それが良いのかしらね。でなければ、連綿と文学の題材になるはずないし」
「時代に応じて、その在り方は変わってるかもしれないけどな」
「そう? 私はそうは思わないな。きっと唯一不変のものじゃないかしら?」
「そうかなぁ。文明が進めば、やっぱ考え方は変わるもんじゃない? 実際、開国前と後の文学じゃ、毛色違うし」
「それ、加々美君が好きな近世文学を否定するような動きがあったからじゃないの?」
「あ、バレた。それだけじゃないんだけどね」
恨みっつか僻みというか、まあそこら辺の感情がないとは確かに言い切れないな。いいじゃん、南総里見八犬伝。何であれを否定して、西洋の文学こそ優秀、なんて言い出したのかね。
「そこら辺の話は、政治が絡むから置いといて。確かに近世文学の立ち位置からすればそう見えるかもしれないけれど、俯瞰してみれば、明治も江戸も、私にはそんなに大差ないと思うけれど?」
「そうかなあ。浮世草子のような話、明治や大正には書かれてないでしょ?」
「そうねえ。けれど、時代小説なら明治にだって書かれてるし、谷崎潤一郎は源氏物語の翻訳を試みてもいる。そう考えれば、恋愛に対する構え方っていうのは私には、本質的に変化ないと思うわ」
「うーん、俺には実感しにくいなあ……。恋句にざっと目を通して見たら、案外同じ日本人のはずなのに、今と江戸とでは恋愛の在り方はかなり……いや、180度違うからなあ。正直、比較してみると西洋式の恋愛ってのは、そんなにもてはやされるもんかねとも思うよ」
あれで何だかんだ江戸時代、恋愛に限らず女性優先って考えが根底にはあるからな。三行半なんかは最たる例で、あれは形式上として男性から差し出し、女性の同意を得て離婚成立とするための書類とみなされがちだけど、実際の文献を紐解いて統計を取ってみれば、案外と女性の方から男性に突きつけているケースが多い。
結局のところ、あれって武士のメンツを保つための口実なんだよな。女性から別れを切り出されるような不甲斐ない男です、ってんじゃ恰好つかないし。
「まあでも、答えが出ていないからこそ永遠のテーマにもなる、かぁ」
「そう。だから、加々美君の言った手探りで真っ暗なトンネルを歩く、っていうのは、私も何だかわかるかも」
「松尾はどうなの? そんな経験あったりするの?」
「私は……うぅん、無いわね」
「そっか」
一瞬言いよどんだのが気にはなるが、ひとまず安堵する。と、同時に焦りも抱く。確かに、恋愛の経験がないというのは、今現在彼女には気になる相手だとか恋愛対象となる異性はいないということだ。けれど、それは裏を返せば俺もまだ射程圏内にすら入っていないわけで。
ま、要するに道程の多難さを再認識させられて、若干ヘタレております。情けねえ。
「さて、じゃあ文芸部の活動、というか話し合いをそろそろ始めましょうか」
「あいよ。毎度ながら、ちょっと寂しいけどな」
「仕方ないわね、そこは……。加々美君は、やっぱり新入部員を獲得したい?」
「いざ面と向かって聞かれると、難しいね。勿論、そりゃ人数は多いに越したことはないでしょ。得意分野が違うって言っても、2人じゃ限界がある。それに、なあ?」
「何かしら?」
「いや、これ部活と言えるのかね、ってね」
傍から見ればどう映るのやら。
幸いと言うべきか、うちの高校は部活に関しては割と優しい。というのも、スクールモットーのひとつが、文武両道。部活も勉強も両立を目指すとあるからだ。だから、部活については部員が1人でもいて、かつ顧問の先生を確保できていればそれで認められる。廃部になる条件は、部員ゼロの状態が2年続いた場合。
そんなわけで、我らが文芸部も2人というごく少数ながら廃部という危機的状況にもないのでこうしてのんびりしている、っていうわけだ。いや、先輩だっていたんだよ? 去年までは。
こんな状況もよろしくないと思って、それとなくクラスの友人や、絵里を通じて文芸部の宣伝はしている。しているんだけど、やはり反応ははかばかしくない。昼休み、作戦会議中に絵里が謝って来たのもその件だ。
ま、そりゃあ高校生ならもっと派手な運動部か、同じ文化部なら吹奏楽部やチアリーダーとかいう方面に目が向くよなぁ。
「でも、談義している内容は、いつも文学に関することだし。読書会も開催している。問題はないでしょう?」
「そうだね。そうなんだけどね」
「私は、今のまま加々美君とこうして喋るのも楽しくていいなって思ってるのだけど」
それは純粋に嬉しい。冗談抜きで。
そりゃ、そこに特別な意味がないってことは分かってるんだけどさ。ここまで言われちゃ、もう何も言えないな。
「分かった。部員のことは成り行き任せ……なるようになるってことにしときますか」
「ええ。存続はできるんだから」
「それが何よりだよなあ。よし。んじゃあ切り替えるか。どうせなら、さっきの話の続きといかないかね?」
「そうね。同じことを考えてたわ」
「恋愛を真正面から見るのもいいが、ちょっと見方変えてみない?」
「どういうこと?」
「恋愛といえば、成就する場合もあれば、不成就ってこともある。で、ぱっと考えやすくてドラマチックなのが死別だと思うんだよな」
「あまり好きな展開ではないけれど、それはそうね」
「でさ。死別した後、残された側の反応ってのはどんなもんかなと思ってね」
「思い出を胸にしまって、というのがオーソドックスな気はするけれど、どうかしら?」
「そうだなぁ。例えば、さっきもちょっと挙げた南総里見八犬伝なんかだと、旅を続けるうちに信乃はかつての許嫁の浜路に外見瓜二つの浜路姫という少女と出会って、っていうのがあるな。そのうちに浜路姫には浜路としての記憶が蘇って、後に信乃と結婚して、って流れだったかな」
「ドラマチックなのは結構だけど、ちょっと現実離れしすぎじゃないかしら?」
「ま、八犬伝だからね。けれど、最愛の人の面影を追いかけて、っていうのはあることじゃない?」
「現実にあるかはともかく、文学的に見ればない話というわけじゃないわね。『源氏物語』でも、光源氏は桐壺更衣に瓜二つの藤壺更衣に想いを寄せるし、後の薫中将は大君を浮舟に見出すわね」
「面影を見出すのが現実的でないなら、お夏清十郎はどうかな。清十郎が処刑された後、お夏は狂乱して夜な夜な江戸の街を彷徨い歩くことになる。あるいは、西鶴の『好色一代男』では、藤浪という遊女が世之介に想いを寄せるも、別の大尽に身請けされる。不幸な日々の中で、ある日世之介の夢枕に藤浪が立って、自分の宝ともいえる着物を渡す。不思議なことに目を覚ましてみると世之介の枕元には本当にその着物が置かれていて、藤浪の家からは消えているっていう話」
「つまるところ、加々美君は面白いというけれど、むしろ苦しいところが多いようにも思えてくるわね」
「テーマが別離だからね。そりゃあ両想いで成就すれば、幸福なのかもしれない」
絶賛、俺は片思い中なわけですが。なんて苦笑しても仕方ないけど。
「遊廓の出現のせいか、そこら辺享楽的にはなるよね、江戸時代だと」
「それは、豪快に遊ぶからかしら?」
「どうかなぁ。むしろ、俺はそれだけ恋愛を身近に感じたかったんじゃないかな、って思うけど」
「遊廓と恋愛は、流石に無理があるんじゃない?」
「これがそうとも言えない。勿論、実際どうかは別として。遊郭っていうのはある種粋が詰め込まれた場所とも言えるんだよな。で、江戸時代のモテる条件っていうのがこの粋にあたる。だから、遊郭での作法は勿論、女性に対する距離の取り方、喋る話題、振舞方、全部高レベルで整ってないと相手にされないっていう、割とハードル高い場所だったみたいだからね」
「どうしても、近現代の感覚で見てしまうからかしら。遊郭っていうと、やっぱりマイナスなイメージが付いて回るわね、私は。粋な恋愛っていうなら、やっぱり朝廷物の恋愛ね。勿論、平安時代の貴族たちに問題がなかったわけじゃない。むしろ、政治的に見れば平民のことは全く見ていなかったから、問題しかないんだけども。でも、歌の贈答には、それこそ一定水準以上のレベルが求められていた。それを下回れば、つまらない人、という認定をされて袖にされることが多かったから、そういう意味ではこれも粋の実践と言えるんじゃないかしら?」
「といっても、平安時代の恋愛って顔見ないじゃん? 末摘花の話なんかそれの典型で、朝になって源氏ときたらドン引きしてなかったっけ」
「そこを突かれると痛いわね」
「でもなあ。ここまで考えると、結局恋愛って何なんだってなるよなあ」
「何だか、堂々巡りしているようね」
文学から離れて、リアルに考えれば。俺が松尾に対して抱いている感情が、恋愛と呼べるそれなのは間違いない。けれど、もっと具体的に言葉にすれば何になるんだろう?
そもそも、俺が松尾に惹かれた理由は何だったか。
それは、間違いなくあの時の邂逅。一枚絵のようにして、あの時の光景が思い浮かんでくる。そりゃもう、見事な構図だった。俺自身、絵に明るいわけじゃないから、こういうことを思うこと自体おこがましいとは分かっている。その上で言うなら、あれは名画だった。
夕焼けに染まる部室と、そこで本を読んでいた彼女のシルエットが完全にその現実に嵌っていた、と言うべきか。元より、松尾の顔形自体が整っているというのもある。
艶やかな黒髪、どこか儚い空気感。それら全てがあの一瞬にマッチしていた。
「加々美君? どうしたの?」
「あ、すまん。ちょっと、文芸部に入った頃を思い出してな」
「もう去年の事ね」
恐らくは先ほどまで俺がしていたような遠い目を、松尾も窓の外に投げかける。なるほどな、こういう目をされると何で声を掛けたくなるのかよく分かった。こっからじゃ、松尾が何を思い浮かべてるのか窺い知れない。それが、不安なんだな。
「まさか、ここで一年過ごすことになるとは思わなかったよ」
「そういえば、何で文芸部に最初から入らなかったの?」
「お、どうした急に?」
「いえ、本当は誘いかけたときから気になってたんだけど、改まって聞く機会がなかったから」
「なるほど。と言っても、理由らしい理由はないんだよなあ」
それに、入部を決めた理由の半分も不純な動機だしなあ。言えないよなあ、まさか松尾の姿に惚れ込みました、なんて。
本当の所、あるにはあるんだよ。ただまあ、それこそ今ここで改まって言うようなことでもないよな。あまり俺にとっても愉快な過去じゃないし、楽しい話にはならない。うん。
「そう。いえ、その理由が分かれば、どういった人を狙いに絞ればいいか分析できそうだったから」
「あ、そういうことね」
松尾はどこまでも松尾だった。部長として、部活に一途なのは間違いなくいいことだ。それにしても、この壁を俺はぶち抜かなければならないわけか。
「さっきのは何だ、忘れてよ。別に、廃部の危機っていうんでもなし」
「でも、文化祭を見据えればそうも言ってられないでしょう?」
「そう言われればそうだけど」
「良くも悪くも、文化祭が一番私たち文化部にスポットが当たる舞台。ただ、逆に言えば文化祭しか私たちがアピールできる舞台はないとも言える」
「年度初めの部活動紹介なんて、文化祭に比べればごくごく小さい所しか見せられないからなあ」
その上、部活動紹介では運動部も同じ土俵に立ってくる。そうなりゃ、文化部の中でも更にその気が無けりゃ目も向けられないようなうちの部なんかは追いやられるわけで。そういう意味じゃ、確かにはっちゃけられるのは文化祭だけとも言えるよな。
「でも、新入部員を勧誘しなくても。私としては、加々美君が文芸部に入ってくれたことは、感謝しているし、部活としても間違ってないと思ってる」
「え、何、どうした急に?」
「ううん。ただ、一生懸命なのは嬉しいんだけど、背負い過ぎる必要はないって。それだけ」
「ん、んん? 何のことかな」
「……追及はしないでおくわ」
「う……うん」
やっべ、これバレてるな。さりげなく動いていたつもりだったんだがなぁ。
「女子の情報網は広いから」
「あ……あー、そっか。噂で伝わるよな」
「だから、気にしなくても大丈夫」
うーむ、失敗したな。人の口に戸は立てられぬと言うが、なるほどな。
バレた以上はどうしようもないし。どの道、効果が無かったから打ち止めだ。こうなりゃ文化祭で呼び込みするしかなくなった。うん、ある意味シンプルでいいかもしれん。
「ふぅ。じゃあそろそろ次の課題本を設定して終わりにしましょうか」
「次は俺だったか。んじゃあ……そうだな。『阿蘭陀西鶴』で」
「確か3年くらい前に発売された小説ね?」
「そう。この際、趣味っていうことで」
「分かったわ。じゃあ当番ということで、読書会ノートもよろしくね。顧問の菊川先生には私から伝えておきます。一旦今月の活動はこのくらいで」
「おー」
しかし、終わって現実に帰ると、つくづく不思議な部活だと思う。
傍から見たらほんと、駄弁ってるようにしか見えないだろうな。部室が用意されていて、そこで活動できるってのが何よりの救いだ。といっても、一度扉を開け放していたことがあったな。そのお陰で、松尾に巡り合えたわけだけど。
「前から思ってたけど、加々美君って不思議よね」
「不思議、とは?」
帰り際、松尾から話を振られるも何のことか分からない。不思議? 俺が?
「古典が好きだって言うからてっきり、源氏物語だとか伊勢物語、ちょっと時代が下って徒然草、今昔物語くらいが返ってくると思ったら、まさか江戸時代の文学って答えるんだもの」
「それで不思議、と」
その気持ちは分からんでもない。文学と聞けば真っ先に思い浮かべるのは、太宰治、芥川龍之介、夏目漱石といった、所謂近代の文豪だろう。次に古典とくれば王道、平安文学、あるいは中世の武家物語になるか。
「聞いても仕方ないと思うけど、何で近世文学なの?」
「読んでいた本の影響だよ。八犬伝が好きなのは、前にも言った通りだし、それから落語なんかも子供向けのをよく聞いてたしな。興味を持ったのはそこからだね」
「そうなの。じゃあ、最近の小説かはあまり?」
「いや、そんなことはないさ。最近のだって読むし、明治~大正の作品だっていくつかはつまみ食いしてる。ただ、これを言うのは文芸部として失格かもしれないけど、ちょっと肌に合わないんだけどね」
「それは、仕方ないんじゃないかしら。食べ物に好き嫌いがあるのと、同じようなレベルの話だし」
「そう言ってもらえると助かるよ」
どうもなぁ、あの神意識ってヤツは好きになれない。というよりも、俺が江戸時代に馴染み過ぎているせいなんだろうな。
夕陽の橙色が、大分深くなってきた。
「夏だねぇ」
「そうね。もう少しで、この時間帯になると部屋が蜜柑色になる季節ね」
「うへ、それだけで暑くなる」
「早すぎじゃない?」
「夏はなぁ。松尾だって、大変なんじゃない? 自転車通学だろ?」
「うん、まあね」
答える松尾は、例に漏れず自転車を押している。
俺が入部してから、この奇妙な下校風景はずっと続いている。最初の方は遠慮していて、先に自転車に乗って帰っていいって言ったんだけどな。やんわりとそれは拒否されて気づけばなんかこの距離感に慣れていたっていう。いや、ほんと、俺と松尾の関係って、それこそ不思議の一言に尽きるよな。今更だけど。
「流石に1年間通えば、慣れたわよ」
「そう?」
「信用ないのかしら?」
「いや、信用ないっていうのとも違うんだが」
不躾なことを言えば、松尾は間違いなく華奢。そこに例年の暑さを考えれば、道中ぶっ倒れるんじゃないかって心配になる。まあそんなこと考えるのが失礼なのは百も承知なんだが……。
「これでも体力はある方なのよ」
「結構アクティブ?」
「どうかしら……。そこまでアウトドア派ではないと思うのだけど」
「そりゃあなあ」
それきり、会話が途切れてしまう。
松尾と帰るとそういうことがよくある。最初の頃は、意識している相手と一緒だし、何か悪い事でも言ったのか、なんて一人で悩んでアタフタしたもんだが、最近はそういう距離感なんだろうと思ってる。絵里に言わせれば、相手にそれだけ馴染んだんじゃないか、ということらしいけど、確かにそうかもしれない。
「じゃあ、ここで。また明日」
「おう。また明日な」
河原の近くにある公園で、俺たちは別れる。いつもの分岐点。俺に背を向けてから松尾は自転車に乗る。それを見送って、俺も家路に就く。
告白できるまで、何回この光景は繰り返されるやら。
◇
「ええー、結局いつも通りだったワケ?」
「だってアクション起こせる状況でもなかったからな。だからいつも通り」
「いやいやいや、上手いこと言った、みたいな顔してる場合じゃないからね?」
今日も今日とて楽しく作戦会議だ。いい加減脱却しないといけないのは分かってるんだけどな……。因みに天気がいいもんだから中庭に出ている。
「全くもー。どこかの有川浩作品に出てくる学生じゃあるまいしさあ」
「お、『夜は短し歩けよ乙女』か?」
「そうそう。って、そんな話してる場合じゃない」
「冷静だな。ていうか、ノッてくれないのか」
「んな暇無いって言ってんでしょ」
いつになくドスの利いた声出されてしまった。そんなに危機的状況か?
「分かってるとは思うけど、実感薄いみたいだからもう一回確認ね。奏真も奏愛ちゃんも、お互い恋愛事情には疎くてしかも奥手ときてる。そんな関係を進めようと思ったら、既に意識してる奏真からムーブかますしかない。そこんところ、理解してる?」
「勿論。とは言うがな……。言い方あれだけど、付け入る隙もないっていうのか」
「まあ、恋愛に疎いってことは、そういうのもないってことだもんねえ」
最大にして唯一の問題。ある意味、シンプルで最も厄介な状態だろうな。問題は明瞭、しかしその解決方法が見当たらない、というよりどうしようもない、と言った方がいいか。
「本当にないの? そういう雰囲気みたいなの」
「全く。昨日の活動も、いきなり恋愛ってどう考える? って聞かれたんだけど」
「あー、どうせ文学の話に持って行くつもりだったんだよね?」
「……いや、そういえば」
絵里の言う通り、松尾は文学方面へ話を持って行こうとしていた。でも、一瞬微妙な反応を返してなかったか、と思い出す。そうだ、彼女自身の恋愛はどうかって聞いたときだ。それを絵里に伝えると、絵里も考え込む表情になる。
「微妙、だね」
「ああ。それ以上詳しく聞けなかったから、情報も少なすぎるし」
「うーん、奏愛ちゃんの事だから、無いと言ったんならその通りだと思うけど。その反応の仕方は、ねえ」
「あの人柄と外見なら浮いた話もあって不思議じゃないわなぁ」
「言い切っちゃうには早計だけど、まあ否定はできないよねえ」
悠長に言ってる場合じゃない。そりゃ分かってるんだけど、お手上げすぎて俺も絵里もぐだぐだになるしかない。やり切れねえ。
「じゃあ、シンプルな方に話を戻そう。奏真はどうしたいの?」
「なるほど、分かりやすいな。勿論、諦めない。別に、過去にあろうがなかろうが、どっちみち過ぎた話でしょ? 今も関係が続いているっていうなら、身を引くしかないけどさ。これまで彼女と喋ってて、直感レベルだけど、そういうのはないって思ってるし」
「うんうん、良かった。それでこそ、私も頑張る甲斐があるっていうか、踏ん切りつけた甲斐があるってもんよ」
「頑張る? 踏ん切りって?」
「ああ、いや、その」
「確かに、絵里にはいつも相談に乗ってもらってるもんな。ごめんな、ずっと付き合わせて」
「あ、そっちに取ったか」
「他に何かあるの?」
「いやいやいや。その通りだよー。相談に乗るって言うのも、こう見えて頭と体力を使うからねー。奏真が半端な気持ちじゃなくて、奏愛ちゃんとあくまで恋愛関係になりたいっていうならこっちも覚悟を決めた、っていう話ですよー」
「そ、そうか。ありがとう」
苦しそうな言い訳だが、だからこそ踏み込むのは野暮だろう。それに、世話になっていることに違いない。ほんと、この一件が無事に上手く行ったら何かお返ししなきゃな。
「さて、そうなったら本格的にどうするか考えないとねえ」
「頼りにしてます」
「任せなさいって。と、言いたいけど何気に初めての経験だからねえ。とりあえずは定番で攻めますか」
「ほう。して、その定番とは?」
「そうだね。ずばり聞くけど、奏愛ちゃんと部活以外で何か行動したことは? あ、勿論2人きりでね」
「ないな」
「うーん、即答なのが辛いねえ。でもいいよ、いいよ。その方が打てる手が沢山あるってことだからね」
「で、具体的に何をするんだ?」
「2人でランチ! って言いたいとこだけど、いきなりはハードル高いから、まずはここに奏愛ちゃんを加えて3人でお昼を一緒にしよう。で、文学トーク禁止」
「結局ハードル高くないか」
「むしろそれでハードル高いなら普段どんな会話してんのよ。まあ、予想はつくんだけど」
「話が早くて何より」
「どーも。だからこその私ってわけよ。なるだけ話は振るからついてきてね。舵取りくらいしか、むしろできないから」
「ありがとう。マジで一度お礼させてもらう」
「じゃあこっちも何してもらうか考えないと。さてさて、どうしますかねえ」
「無茶苦茶は勘弁な」
「ええ、それはフラグ? 無茶振りしちゃうかもよー?」
「おいおい……」
「何てまあ冗談は置いといて。とりあえず奏真に貸し一つなのは揺るぎない事実なわけだしね」
「それ一番怖いパターンじゃねえか……」
うひひ、と奇妙な笑い声をあげた後絵里は真面目な表情に戻る。本格的に計画を詰めようってわけか。
「さて、まずは呼び出しからだねー。これは私に任せてもらおうかな」
「いいのか?」
「いいも悪いも、その方が自然でしょ? 多分今の段階で奏真からいくのは、多少なりとも相手に構えさせることになるんじゃないかなあ。不自然になるっていうのは、あまり歓迎じゃないね」
なるほど、一理どころか百理ある。改めて、松尾との距離って開いてるんだなぁ……。悲しくなってくる。
「というわけだから、初手は任せて。ちょうど、幼馴染の話聞きたいって言われてたからさ。私と奏真が揃うこと自体、おかしくないし」
「分かった。後は会話をするってことだな?」
「そうなんだけど、無策でいくとこれまた困るだろうから、奏真は作戦決行までに聞きたいことを絞っといて」
「って、明日にでも決行するんじゃないのか?」
「してもいいけど、今のままいったら多分グダグダになって終わるんじゃない?」
「む……」
「何事も準備を整えてからだよ。と言っても、今回の場合準備したところでイレギュラーはいくらでも起こるって心得た方がいいけどね」
それでも万全の準備をするに越したことはないよな。となれば、俺は1週間で松尾に聞きたい事を絞らなきゃならないんだが、そんなのすぐに思い浮かぶさ。
「いける?」
「大丈夫。恋愛関係で松尾に聞きたいことならもう殆ど決まってる」
「あ、じゃあ今晩にでもLINE送ってくれる? 一応目を通して今突っ込んでいいか、悪いかの選別しとこう」
「あー、そっか。踏み込みすぎてるのもあるかもしれないのか。了解、悪いな手間かけさせて」
「いやいや。この後奏真からの奢りが待っていると思えば、そんな手抜きなんてしませんとも」
「わー、悪い笑みだー」
なんて笑ってるうちに、例によって昼休みが終わる。
けど、なんだ。いつもよりは前進があったんじゃないかね。
「……ま、奏真が本気だって分かったら、私だって手は抜けないんだけど、ね」
「ん? 何だって?」
「何でもなーい。それより奏真は聞きたいこと送るのと私への奢り考えといてね」
「あ、ああ。考えとく、任せろ……ってのもおかしいか。とにかく、よろしく頼む」
「はいはい、任されました。じゃねー」
何か去り際に絵里が呟いたようだが聞き取れなかった。何だったんだろう……。
◇
「さて。当日なわけだけど」
「おう」
「ビビッてない?」
「問題ない。聞きたいことも確認してもらってるし、俺の方は気になることはないかな」
「OK。じゃあ奏愛ちゃんが来るまで待つだけなんだけど、基本予想通りに運ぶとは思わずに。気楽に行こうね」
「あいよ、肩の力抜いて、だな。大丈夫。心強い援護も期待してるしな」
「うんうん、そのくらいで。っと、噂をすれば。奏愛ちゃーん、こっちこっち!」
絵里が手を振る方へ向けば、ちょうど松尾が姿を見せたところだった。あー、ちょっと緊張してきた……。最近は慣れてきたせいか、動悸がしてもさほど慌てなくなってたはずなのになぁ。
因みに今日も先週と同じく中庭に出ている。基本みんな食堂が教室でお昼を食べるからあまり聞かれたくない話をするにはもってこいだったりする。
「ごめんなさい、お待たせしちゃって」
「いいの、いいの。私らも今来たばっかだし」
「そう? あ、加々美君も、ありがとう」
「お、おう。そんな気にしなくていいよ。絵里から話は聞いてるし」
いけね、なんか変にどもってしまった。何気に部活以外で松尾と接点を持つのって、これが初めてじゃね? そんなこともあって、余計に緊張してしまう。
「さ、じゃあ揃ったことだし、食べよう、食べよう」
「そうね。いただきます」
「い、いただきます」
何気ない一言すら噛んでしまう……。意識し過ぎだろう、俺よ。
「奏愛ちゃんの、それって手作り?」
「うん、お父さんもお母さんも忙しいから。大体は私が自分の分は作ってるの」
「凄いなあ。前から思ってたけど、やっぱり奏愛ちゃんってしっかりしてるよねえ」
「それは褒め過ぎよ。そこまでじゃないわよ」
なんて照れ笑いを浮かべる松尾が可愛い。じゃなくて。このままだと置いてけぼりだ。
「何かレシピ本とかあるの?」
「奏真が料理に興味を示した⁈」
「え、何で驚く?」
「いやだって、料理と奏真っていうのが結び付かなくて」
し、失礼なヤツ……!
まあ台所に立ったことあるのかって言われたら、数えるほどしかない。作れるレパートリーと言われれば、カレーとか焼きそば、後は鍋ものくらいしか作れない。
「加々美君は、普段のお弁当ってどうしてるの?」
「俺は作ってもらってる。松尾の後だと情けない話だけどさ」
「うーん、普通はそうなんじゃないかしら?」
「いやいや。ちょっとは奏愛ちゃんを見習うべきだよ、我が幼馴染は」
「もーちょっと当たり優しくならないかね、我が幼馴染の君は」
「仲良いのね」
「まあ、付き合いは長いからなぁ」
「大体考えてることも分かるもんねえ。あ、その幼馴染の話を奏愛ちゃんに聞かせるんだったよね」
「ええ。結構楽しみにしてたんだから」
「おおっと、何だかハードル上がるなあ。期待に応えられるといいんだけど」
「というか、どんな話を松尾は聞きたいんだ? そこからじゃない?」
「あ、それもそうね。じゃあ……」
その後は、松尾のリクエストに応じて俺と絵里にまつわる幼馴染トークとなった。いや、しかし。こういう機会でもないと振り返る事ってないから、案外話しててこっちも懐かしくなったりするもんだ。
「いーや、あの時仕掛けてきたのは奏真だった!」
「違うだろ、絵里の一言で喧嘩になったんじゃないか」
「何をぉ?」
「お?」
「はいはい、喧嘩は駄目。聞いた私も悪かったけれど」
「あ、すまん。つい」
「コイツ相手だと意地張る事が多くてねえ」
「それだけ距離が近いっていうことじゃないかしら?」
こんな感じで、改めて絵里との距離が近いということも思い出される。距離といえば、最初緊張していたのもどこへやら。松尾とも少し壁がなくなったように思えるから不思議だ。
それはそうと、もうぼちぼちこっちからも聞いてもいい頃合いだろうか。絵里の方を見れば、頷いてるし。よし。
「そういえば、松尾の幼馴染っていうのはどういう人なんだ?」
「あー、そういえば私もそこまで聞いたことなかったわ。今高校は別なんだっけ?」
松尾に幼馴染がいるというのも、事前に絵里情報で仕入れたことだ。というか、俺も初耳なもんだから少し驚いたが、なるほど、それで俺と絵里の話を聞きたいってことになったのかと納得した。
「あ、うん。中学までは一緒だったんだけどね。相手の方が引っ越すことになっちゃって。それで、高校は引っ越し先から近い方がいいって言うことで今通ってるところを受験したの」
「あー、てことは東ブロックにまで飛んじゃったのか」
うちの県は東西に延びているため、現実的に東から西へ、あるいはその逆のブロックに通うことはかなり厳しい。何しろ車で2時間かかるとなれば好んでブロックを越えた校区へ通おうとはなかなか思わない。勿論、東ブロックの住人が西ブロックにある高校を受験できないことはない。けれど、面接では必ず聞かれるからな。そういう意味でも現実的じゃないんだ。絵里が言ってるのはそのことだ。
「じゃあ以前みたいに気軽に会いに行ったりできないのか」
「そうねえ。やっぱり物理的に距離が開いてるから、出くわす頻度はがっくり下がったわね。そもそも、急な話だったからメールアドレスはおろか、住所すらも知らないのよ」
「それはまた……。受験直前とかの込み入った時期だったとか?」
「そうね、時期としては加々美君の言う通り。というか、受験真っ只中と言っても差支えないんじゃないかしら」
「ま、転勤するかどうかってちょうどそのくらいに分かるもんねえ。話変わるけど、その幼馴染さんとはどんな話してたの?」
「えっ?」
「あ、俺も気になる。文学とか、あとそうだなぁ。えっと、恋愛の話とかしてたの?」
わざとらしくなってないだろうか。なぜか恋愛の話を聞こうとしたとき、喉がつっかえってしまった。因みにここら辺は絵里と打ち合わせていたりする。ぶっちゃけ、俺が一番聞きたいのはこのことだから。むしろ、この一点以外にないとすらいえる。まあ、松尾の反応次第というか。そんなところだ。
「うーん、彼、あんまり本を読むタイプじゃなかったから……。でもなぜか親しかったのよねえ。話は合う、というか。恋愛の方は、そうねえ。やっぱり人並みに興味はあったから、お互い理想の恋愛とか好みの異性はっていうくらいは話したことあるかしらね」
「ありゃ、意外と踏み込んだ話してるんだ。で、お相手さんはなんて?」
「うーん、具体的には何も。ただ、本当にお互いが好きだと思える相手に出会えるといいよねって。それは、私も同意したのを覚えてるわ」
その言葉に、俺は妙にざわつきを覚えた。
いや、これを考えるの自体、お門違いってのはわかってるんだけどね。ただ、そう言う松尾の顔に、今まで見たことのないような微笑みが浮かんでいたから。もしかして、松尾の憧れの人は、なんて想像をしてしまったわけで。
「奏愛ちゃんがそこまで恋愛関係の話してるのがちょっと驚きだったなあ。あれ、じゃあその幼馴染さんとは何もなかったの?」
「何もない、っていうと言葉は悪いかもしれないけれど、そうね。仲は良かったのだけど」
松尾がそう言うのだから、確かになにもないのだろう。だけど……なんだろうな、これ。
結局、それ以上踏み込もうにも、タイムオーバーだった。昼休みって短いよね。
「聞きたいことは聞けた?」
「まあ……。ちょっと気になる事が増えたけど」
放課後。わざわざ帰り際に俺の机にやってきた絵里と少し喋る。勿論内容は言わずもがな、昼の松尾に関してだ。
「うーん、恋愛には興味ない……とまでは言わないけど。滅多にそんな話はしないイメージある奏愛ちゃんがまさかねえ」
「あー、でもよく考えたらそれ先入観しかなくて意外っていうのでもないかもしれないな」
前の活動でも、先に恋愛云々を切り出したの、松尾だったからな。浮いた噂がないからといって、本人が恋愛に興味ある、ないというのはそりゃまた別問題だわなぁ。
「で、奏真は奏愛ちゃんの幼馴染さんが気になって仕方ないと」
「……まあ、そうだな。そんなところ」
「ありゃ、これまた意外と素直に認めたねえ」
「いや意地張るものでもないし」
「そっかそっかぁ。けど、そこで素直になるならさ、文芸部の諸々を陰で請け負ってるのも奏愛ちゃんに言っちゃいないよー」
「いや、それはまた別問題というか」
「えー。勿体ないよ? 言わなきゃわかんないもんよ? まあ、奏愛ちゃんのことだから、うっすら気が付いてそうだけど」
否定はできない。宣伝の件もばれてたし。
去年の秋ごろからだったか。そんなに大したことをしているつもりはないんだけど、一部書類作成だとかを密かに肩代わりしている。と言ったって、うちはいち部活。生徒全体を総括する生徒会に比べたらどうってことはない。それでも面倒なのに代わりはない話なわけで。
ただ、それで松尾の負担を減らせてるなら、文句なんてあるはずがなかった。
「ま、その件はともかくして。奏真はどうするの?」
「あー、そうだなぁ。とりあえず帰りながら話さない?」
「お、これまた珍しい。ならそうしよっか」
珍しいといえば、絵里と俺が放課後会話で来てるのも珍しい。
何せ運動部、それもソフトテニス部所属の絵里は放課後始まるや教室を出て行ってしまう。それが俺の席まで来て立ち話っていうことは、今日は練習がないんだろう。
「とりあえずなんだけど」
「うん」
「松尾をどっか出かけるのにつれ出す、っていうのは性急かな?」
尋ねるや絵里は目を瞬かせる。そしてまじまじと俺の方を見てくる。何ですか、その本当にお前奏真なの、みたいな目は。
「着ぐるみ……とかじゃないよね」
「本人です」
「そ、そっか。いや、ごめん、びっくりしてた。多分それ私の方から提案することになるかなーって思ってたから。奏真も積極的になったねえ」
「何、その甥の成長を喜ぶ親戚の叔父さんみたいな台詞……。で、実際のとこどうかね?」
「そうだねえ。悪くはない、ていうか声掛ければ普通に乗ってくれると思うよ」
「ほんと?」
「流石にこの一件で誤魔化したりはしないて。どのみち、奏真がお望みの展開に持って行きたいなら、そのくらいはやってもらわなきゃ前に進めないしね」
おっしゃる通り。
未だに出かけた事すらないってのは流石に、なあ?
「それで、どこに行くかも考えてるの?」
「いや、まだこれから。行きたい場所ならあるから、そこら辺でっては思うけど」
「奏真、女の子と出かけたことあった? あ、私は勿論除外で」
「ないけど」
「うーん、潔い返答振り。そっかぁ、無かったかぁ……。首突っ込んじゃってるし、ここは奏真の考えたデートコースとやらも面倒見ますか」
「いや、そこまでは……」
「いいから。言葉悪いけど、純粋に奏愛ちゃんと出かけることが目的じゃないんでしょ?」
「お見通しかよ」
「そりゃ幼馴染と言う名の腐れ縁ですから」
不敵に笑う幼馴染を、不覚にも頼りになるとか思ってしまった。本当は、この辺りも自立すべきなんだけどなぁ……。ほんと、昔から面倒見がいいというか、それに甘えてしまってるな。
「大元はある程度考えてあるから、細かい部分まで詰めたら送るよ。ごめんな、こんなことまで」
「いやいや、首突っ込んだんだから最後まで付き合うのが筋ってもんでしょ。任せなさいて。それに何度も言うけど、奏真がどうしても想いを貫くって言った一言がなければ私もここまで義理立てしないよ」
「ごめん……いや、ありがとう。上手くいって欲しいな、ここまで来たら」
「ま、縁起でもない話だけど行き詰ったら私っていう手もありかもよ? ほら、面倒見とか我ながらいいと思うんだよねえ。奏真とも付き合い長いから気負わないし、結構な優良物件じゃない?」
「ほんと、良い幼馴染だよ、絵里は。でも、それはやめとこう。上手くいかなかったら、とりあえずは部活とか勉強に専念するさ。傷心したままでっていうのは、それこそ筋違いな気がする。それこそ、長年幼馴染で一緒にいてくれた絵里に失礼だ」
「真面目だねえ。まあそう言うとは思ったんだけどさ」
そう言った絵里の顔があまりに寂しそうだったもんだから、声を掛けようとした。けれど、その隙もなく、絵里はまた元の表情にコロッと戻る。
「とりあえず奏愛ちゃんだね! デートコース送ってくれたら監修するから任せなさい。話をするにも、それなりの場所と雰囲気整えなきゃね。特に奏真はそういう時程顔に出たりするし」
「分かりやすいと言って欲しいな。とりあえず、コースが決定次第、声を掛けてみるよ」「うんうん、善は急げ。ズルズル先延ばしにしてると、いくら気になる事でもまた今度でいっか、って惰性になっちゃうからね」
絵里の言う通りだろう。思い立ったが吉日とも言うしな。
「じゃあ、また。あんまり気負わないようにねー」
「おう、ありがとう」
絵里の家はうちから二軒先。よくある、家が隣同士とはいかないけど、距離が近いのは事実だ。
さて。帰ったら早速考えますかね、デートコース。
◇
「えっと、待ち合わせ時間には……まだ早いよな」
週末の日曜日、家の最寄り駅から4駅隔てたところに俺はいた。理由は勿論、松尾とのデート……と言えたらいいんだけどな。いや、デートコースを考えたから言えなくはないんだが、目的は別の所にある。彼女の幼馴染についてもう少し話を聞くこと。
実はあれから1週間経ってるんだが、その間に気になる情報も入って来た。
話は文芸部の活動日に遡る――。
「今日は西鶴だったわね」
「そうそう。まあ、厳密には西鶴の娘から見た西鶴像ってところだけど」
「とりあえず、早速の質問なのだけど、タイトルの阿蘭陀って、国のことかしら?」
「あー、それなぁ。関係はあるんだけど、タイトルについては国名のオランダじゃないんだ。江戸時代、国交があったのはオランダとポルトガルだったっていうのは歴史でも習ったでしょ?」
「ええ、中学校のときに勉強したわね」
「ということは、江戸時代でいう外国っていうのは、大概その2国になるわけで。外国から来たものって、派手で、物珍しいっていうイメージが付いて回ってた。それで、江戸時代にはそのままオランダを漢字に直した言葉が外国から来た物珍しいもの、長じて派手だとか珍しいって意味になっていったんだ」
「じゃあ、これって……」
「ま、端的に言えば変人西鶴、くらいになるのかな」
「西鶴ってそんなに変わった人だったかしら……?」
「談林派の祖ではあるけど、後年同じ一派の重鎮とソリが合わない! って言って自ら出て行った人だからねえ。そこから始めた浮世草子も、源氏物語をイメージして主人公を設定、ちょうど平安時代の宮廷にいる女性と同じ階級社会になってた遊郭を舞台に『好色一代男』を生み出してるね」
他にも井原西鶴を象徴する話といえば、大矢数俳諧があるな。三十三間堂にある寺の門前に座り込み、一日で千句もの俳諧を立て続けに一人で詠み続けたというものだ。何を思ってそんなことをしたのかは分からないが、目立ちたがり屋の西鶴だから、人の目に触れられるところで何か変わったことをしたかったのかもしれない。
そんな話をしながら、内心ではどう話を切り出そうか、と頭を回す自分がいたりする。
結局、出かける話を切り出せたのは当然と言うかなんというか、活動が終わってからのことだった。声を掛ける間にもバグバグいう心臓を何とか無視して、不自然にならないよう、普通に声を掛ける。それだけのことが、大事業のように思えた。
「えっと、さ。松尾、週末の日曜って空いてる? 良かったらお出かけしない?」
「日曜? ええ、大丈夫。空いてるわ。どこに行くの?」
よしっ。
内心でガッツポーズを決めつつ、表面上はいつも通りに。あともはや心臓が痛いが気にしてる場合じゃない。
「商店街に行って本を買いたいのと、新しい喫茶店があるらしいからそこに行こうかなって。どうかな?」
「ええ。じゃあ時間は昼から、になるのかしら?」
「うーん、どうしようかな。松尾が良かったらお昼一緒に食べてから行きたいかも」
「ええ、私は構わないわよ。家族に事前に一言入れておけばいいだけだから。じゃあ、お昼を加々美君と一緒に食べて、そこから商店街に向かいましょうか」
「うん、ありがとう。よろしくな」
「こちらこそ。何も予定がないと、休日は日がな一日家から出ない、ってこともざらだから。お誘い、嬉しいわ」
ふわっと微笑む松尾に、また胸が高鳴る。心臓、そのうち破裂するんじゃなかろうか。
それはさておき、デートコースは一通り絵里に見てもらって問題なしと太鼓判をもらってる。こっちも気負わなくても大丈夫だろう。
ただ一点、迂闊だったのは次に尋ねた事だ。
「そういやさ、前話してくれた幼馴染さんだけど」
「うん」
「東ブロックに引っ越したって言ってたけど高校どこ通ってるの?」
いや、深い意味はなかったんだよ、この時は。俺と絵里は幸いというか、同じ学校だけど、違う学校通ってるのってどんな感じなんだろうなー、とかその程度だったんだ。
「そういえば学校までは話さなかったわね。えーと、確か彼が受験したのは東第一高校、だったかしらね」
「へえ、東第一……えっ!」
「名前聞いたら驚くわよねえ」
「いやだって、あの東第一だよね⁈」
何しろ県下有数、どころかトップの進学校だ。西ブロックで比肩するとしたら、聖心学園か。勿論、俺たちが通っている学校とは別のところだ。こう言わないといけないのが悲しい。
「何が腹立たしいって、入試直前までサッカー一筋で、割と涼しい顔して受かって行ったことなのよねえ。思い出すだけで文句を言いたくなってくるわね……」
ご立腹な松尾の横で、俺はと言うと先ほどの胸の高鳴りが嘘のように萎んでいた。
こんなスーパー超人が傍にいたっていうのなら、俺なんてほんと眼中にないんじゃないか……。などと意気消沈するしかない。
けど、いつまでもそうしているわけにはいかない、と無理やり気持ちを切り替え、お出かけの誘いに乗ってくれた、ということでまだ望みが断たれたわけじゃない、とどうにか今日まで持ちこたえさせた、という次第だ。絵里にはまだ相談していない。これ以上負担を掛けるわけにはいかないしな。
そして、お出かけ当日、というわけだ。
「加々美君? お待たせ」
「あ、いや、大丈夫だよ、松尾?」
そういや私服で会うのって初めてだったな、なんてことに気づいたのは彼女の姿を確認してからだった。声を掛けられ、振り向いた先にはベージュのシャツワンピースに、ブラウンのチュールスカートといういで立ちの松尾。そんなに派手に着飾ってるわけじゃないんだけど、さりげない感じがお洒落に見える。というか、割とイメージ通りでびっくりだ。
「あの、やっぱり変かしら?」
「あ、いや、全然! ごめんな、私服姿を見たの初めてだから新鮮で。似合ってるよ」
「そ、そう? ありがとう。加々美君も、ラフなイメージがあったんだけど、似合ってるわね」
「あ、うん、ありがと」
夏だからな。とりあえず、半袖の上に開襟シャツ、下はジーンズという、動きやすさ重視の恰好で来ていた。ほんと、夏場は制服以外どんな恰好がいいのか分からん。とりあえずお気に入りのシャツだったんで褒められて内心かなり嬉しいです、はい。
「えぇと、とりあえずお昼にしましょうか。ちょっと早いかしら?」
「そうだね、時間には結構余裕あるから……。何なら決めたお店の様子だけ見て、それ以外のお店も見てみよう。混み始めてるなら、早く入ってもいいし」
「ええ、分かったわ」
駅を出てすぐ連絡橋がある。それを渡って行けば大きな百貨店に繋がるのだが、その中を突っ切れば、商店街に出ることができる。ま、言ってしまえば接続しているその百貨店自体も商店街の一角と言えるんだけども。
「あ、でも本屋さんに行くって言ってたんじゃ……」
「ああ、大丈夫。そんなに離れてるわけじゃないから。人混みで歩きにくいかもしれないけど……」
「日曜日だものねえ。あの商店街はいつ行っても賑わうのよね」
「あれ、松尾もう何度か足を運んでたり?」
「ええ。中学の頃に、例の幼馴染に連れられてね」
「そうなんだ」
あっぶねえ! 声が震えかけた……。え、それはデート的なものなのでしょうか。いやでも、それ突っ込んで聞いていいのか? だってそれ言い始めたら、目的はともかくとして、今俺がやってることだってそうなるしな。
「まあでも行ったところでお互い、興味あるものが違うから帰る時間と合流場所だけ決めて別行動を取る、っていうのがお約束のパターンだったのだけど」
「一緒にお店回ったりしたとかじゃないんだ」
「そうねえ……。何度か食事を一緒にしたことはあるけれど、結局その後別行動、ってなっちゃうのよねえ」
全くもう、とぼやく松尾。多分それだけ距離が近いという事なんだろうけどそれ以上にその、何というか……。
「なかなか難義な幼馴染さんだな……」
「本当よ。思い出すと、色々頭痛くなる話も結構あるわね」
「おぉ、あの松尾が珍しい」
「む、加々美君は私をどんな目で見てるのよ」
「いやだって、大抵の事は涼しい顔で流しそうだからさ」
「失礼ね、私だって人間よ。頭を痛めることのひとつもあるわよ」
「何というか、パワフルな幼馴染さんっぽいね」
「パワフルというか自分勝手というか、何というか……」
苦笑いを浮かべる松尾。
何だろう、でも今までないくらいに軽口叩いたりして距離が近い気がする。幼馴染さんも、完璧超人っていうのからちょっとイメージ変わったな。いや、あの松尾を振り回すとは……。まあ、もうちょっと腰据えて詳しく聞いてみないとまだ何とも分からないか。
「やっぱり混み始めてるなー」
「ええ。他のお店を見るより、ここに決めて早く席を取った方がいいわね」
「賛成」
というわけで、当初予定していた通りのお店へ。イタリアン専門のレストランだ。そんなに高級というわけでもないけど、安すぎもしない、小洒落た、という言葉がぴったりくるようなお店を選んでいた。元は洋風の民家を改装したものとのことで、そんなに広いわけじゃないけど、その分整理が行き届いていてさっぱりしている。
「商店街は何度も来てるのに、このお店は知らなかったわ」
「そうなの? 松尾、こういう雰囲気好きそうだから、てっきりもう攻略済みだと思ってた」
「攻略って、おかしい」
あれ、別にウケを狙ったわけではないんだが。松尾のツボに入ったらしい。よく分からんなあ、こういう他人のツボって。
「うん、でも来たのは初めてよ。確かに、食後に珈琲飲みながら読書をするにはピッタリの雰囲気ね。気に入ったわ、覚えておかなきゃ」
「そのまま通い詰めそうだな」
「否定はできないわね」
お互いふっと笑う。
元々お店の規模が小さいから、数名入っただけですぐ満席状態になる。だから、読書をして居座るというのは、少しお店側には迷惑になるかもしれないな。けれど、そのくらい雰囲気がいい。
「ん、パスタも本格的で美味しい!」
「良かった、気に入ってもらえたら選んだ甲斐もあったよ」
本当は、今少しだけ話を、とも考えたけど。舌鼓を打ってる松尾のいつもよりあどけない姿を見ていたら、その気は引っ込んだ。まだ時間はあるさ。
「と思ってたらあっという間に時間が過ぎている件」
「どうしたの?」
「いや、昼食べてからがあっという間だった割に濃密だったなと」
人ごみのせいもあるんだろうか。何か、あちこち歩いて色々と立ち寄ったのは覚えてるんだが、その割に時間の進みが早いっつーか。
「大袈裟じゃないかしら?」
「実際のところなんだけどな」
当初の目的だった本屋は無事周り終わって、今は雑貨店にいる。こういうお店、今まで入ろうと思ったことないから、ちょっと落ち着かないんだがよく見ると手元に置いときたいってものも結構あるもんだ。
「あ、この猫型の置物いいわね。紙を飛ばさないようにできるかも」
松尾はというと、アクセサリの中でも文具系を中心に見て回ってる。というか、活き活きしてるなぁ。
時間を確認すれば、もう15時ちょっと過ぎ。喫茶店に入るなら、そろそろいい時間かもしれないな。うん。
「ふぅ、次はどうしましょうか」
「そうだな、そろそろ喫茶店に向かわない? ずっと人混みの中練り歩いてたし」
「そうね。ずっと立ち続けだったし、そうしましょうか」
しかしまあ、蒸し暑い中よくみんな出かけるもんだ。商店街の人通りは衰えるということを知らないのかと思えてしまう。
「その割に、喫茶店に入る人は案外少ないもんなんだな」
「少ない、と言っても席自体は埋まってるわね。腰を落ち着けるより、テイクアウトで飲み物を確保してみんなお店巡りをしているんじゃないかしら」
「そういえば、このお店のロゴが入ったラテとか持ってる人いたな。なるほどなぁ」
「加々美君は、そういうことしないの?」
「俺は、こうやってお店の中でゆっくりする派だな。歩きながら飲むのは、どうも」
運ばれてきたコーヒーに口を付けながら、松尾の様子を窺う。いやまあ、素直に聞けばいいんだろうけど、このタイミングでストレートに聞くのは不自然だしなぁ……。
「どうかした?」
「あ、いや、えっと……」
いかん、急に黙り込んでしまったから怪訝そうに見られてる。ええい、腹をくくってしまえ。
「実は、松尾の幼馴染さんについてもうちょっと色々と聞いてみたくてさ」
「ああ、と言っても、そんなに面白い話はないと思うのだけど」
「いやぁ、何というかな。俺と絵里は、幸いにと言うべきか、高校まで身近にいる存在だったけどさ。でも、流石に大学生に上がってもこの距離感が続くかは分からないわけでさ。そうなったとき、どんな感覚になるのか。急に離れてしまうっていうのが、いまいちイメージできないんだ。それで、言い方が悪かったらごめんだけど、今実際距離が離れてる松尾の話を聞いてみたくてさ。もしかしたら、それでイメージくらいはつくかもしれないし」
半分は本当の事だ。
事実、高校2年になってから幾度となく考えていた。もし、今の距離感が壊れたらどうなるのか、と。そもそも、そういうのはどういう感覚なのかって。
俺の話を聞いて、松尾の方はふむふむ、と頷いている。
「そういうことなら、少し話しましょうか。えぇと、加々美君の話からして聞きたいのは、きっと私たちが別々になった辺りの話よね?」
「そうだね。勿論、無理にとは言わないけど」
「ああ、気にしないで。割り切ってるっていうのもあるのだけど、つい先日唐突にその幼馴染からLINEの登録が来たのよ」
「えっ⁈」
「電話番号で多分登録したんでしょうね。突飛な行動するのは相変わらずと言うか……」
な、なるほど。良くも悪くも、搔き乱してくれるなぁ……。お陰でこちらも唐突に落石に遭ってる気分だ。
正直、その一報で松尾の会話は断片的にしか耳に入らなかった。いや、言葉は悪いが、最低限受け答えできるくらいには聞いていたんだけどな。
結局、今のままではダメなのは確かだ。じゃあ、具体的にどうする、加々美奏真。そこが、問題なんだ――。
◇
それは突然舞い込んできた。
松尾と出かけてから3日後の水曜の朝だった。
「奏真! 聞いた⁈ 大変だよ!」
「うぉっ、何、何だ、どうした?」
登校してから荷物を下ろして一息ついたと思った途端、血相変えた絵里が机に突進する勢いで入り口から一直線に突っ込んできたので心臓止まりかけた。何だってんだ。
「奏愛ちゃんが!」
「何、松尾がどうしたって?」
絵里の一言で一瞬心臓が飛び上がったが、目の前で冷静さを失っている絵里を見て、まずは表面だけでも落ち着いて対応する。こういうとき、こっちまで焦ると地獄にしかならないからな。
「て、転校するって!」
「は……」
頭が真っ白になるとはこの事か。が、ここで押し黙ってちゃ、多分絵里が更に取り乱すだけだと言い聞かせ、何とか無理やり口をこじ開ける。
「て、転校ってどこにさ?」
まさか、これ以上ショッキングなことはないだろうと思っていた。次の一言を聞くまでは。
「それが、その、東ブロック……あの幼馴染さんがいる学校」
「あ……」
人間、無表情になるのは脳が感情を処理しきれなくなるからか、その脳自体が物事に対して考えるという機能を発揮せず、喜怒哀楽が欠落するからだという。今の絵里の一言で、前者の感覚を理解した。多分、一瞬で俺の顔からは感情が抜け落ちたことだろうな。もう、かける言葉も浮かばねえ。
「そ、奏真?」
「あ、す、すまん……。脳が処理落していたわ。待ってくれよ。えーと、そもそも絵里はそれを何処で聞いたんだ?」
覗き込んでくる幼馴染を前に、これ以上無様を晒すわけにはいかない。なけなしの矜持をフル稼働させて、会話を続かせる。それも、大分無茶だが。
「えっと、朝練を終えて部室の鍵返したとき、職員室で奏愛ちゃんの担任の先生が電話で話してるの聞いて……」
「電話……ってことは、松尾今日欠席か」
「多分。この時間に電話してたし」
絵里に限らず、運動部が朝練を引き上げるような時間になって電話してるなら、ほぼ確定だろう。と、言う事は転校の話って言うのは大分現実的だし、それも時期的にも迫ってるってことか?
「ど、どうしよう……」
「とりあえず、絵里は落ち着け。言って俺にもブーメランなんだけどな……。どうしようったって、今の俺たちにできることははっきり言って何もない。情報を待とう」
「う、うん」
「不安そうな顔をするなって。松尾のことだ、きっと俺たちに一言くらいあるはずさ。心配するな」
「奏愛ちゃんのことだから私もそうだと思いたい……けど」
「うん」
「奏真の話が本当なら、一応だけどまた繋がりはできたってことでしょ?」
「あー……。うん、そうなるな」
出かけたときの話は既に絵里にもしてある。誘い出せた上に、とにかく名目上だけでもデートできたんだから上々でしょ、なんて慰められたんだが。
「それに、奏真はこういうとき、ヤバい状態の自分を隠すからね。特に今みたいな物言いのときは要注意なんだよね」
「危険人物みたいに言わないでくれ。俺の方は大丈夫だよ。というか、思考が今まとまってない。だから、次に何をすればいいかも思い浮かばないってだけ」
「ならいいんだけど……。ほんと、無茶だけはしないでね」
「おう」
返事をした俺の方を、それでも不安げに見遣ってくる。そんなに信頼ないかなぁ……。
まあ、何にせよ、今日はどうやったって身動き取れないだろう。何を考えようが憶測にしかならない。
それに、中学の二の舞はゴメンだ。
◇
翌日も、更にそのまた翌日も松尾は欠席だった。転校の噂の信憑性は、増すばかり。
「その件ねえ……。うん、えっとねえー」
「勿体ぶるなんて珍しいな?」
「いやいや、そんな事ないでしょー」
「笑いが不自然」
「攻め込んでくるねえ。まあ、何と言いますか……」
絵里に噂を尋ねても、終始この調子だ。いよいよもって、俺の中では確信になりつつある。
「ねえ、無茶だけはしないでよ?」
「分かってる」
「どうだか。前科者だからねえ」
「犯罪者かよ、俺は」
「だって、中学の時やってるからね」
「……的確に痛い所を突くな、全く」
忘れられない記憶が一瞬蘇る。耳奥に、嫌な鼓動が響く。けれど、俺は首を振って拭い去る。過去は過去。同じことを繰り返すつもりなんて、あるはずないだろ。
「そうだなぁ。じゃあこちらでたまたま拾った情報伝えるか」
「えっ」
「なぜ、そこで俺を意外そうな目で見るんですか」
「人見知りの奏真に、そんなテクあるなんて思わなかった」
「正直だな。けど、さっき言った通り偶然だよ。松尾についてだけど」
「はいはい」
「どうやら、あの幼馴染さんと恋人関係だったっぽいね」
「ふーん」
あれ。もしかして、絵里の奴この噂知っていたのか?
と思っていた次の瞬間、さっと絵里の顔が青ざめた。
「えっ、待って、そんなの聞いてないけど?」
「反応遅くないか」
「いやだって、そんな、ええ……」
一見感情豊かで活発に見えるが、だからと言って絵里は粗忽であるわけでも、せっかちというわけでもない。むしろ、こう見えて頭の回転は早いし、そこまでオーバーリアクションを取ったりするタチでもない。そんな彼女がここまで言うのだから、やっぱり相当ショックだったみたいだな。
「え、奏真よく平然としてるよね」
「既に昨日一晩で苦悩しつくした後だからな」
「よく耐えれたね……」
我ながらそう思う。いや、昨日この噂聞いた後は本当に死ぬかと思った。
けれど、だからこそ無理やりに思考のベクトルを変えた。俺の周りに誰がいるのかを考えて。今手を差し伸べてくれている人物を思い浮かべて乗り切った、って運びだ。
「中学の時なら、このまま抱え込んで自爆したかもしれないけどな。登校拒否とか」
「あー、なまじ否定できないのが辛いね」
「でも、それしたら結局あの時の繰り返しだろ。それだけは、な?」
「うん、私も同じ気持ちだから、よく話してくれたね、って思うよ。しかし、さてはて……。噂の信憑性ねえ」
「正直に、どう思う?」
「うーん、幼馴染だからこういう噂は付いて回るものだけど、奏愛ちゃん、それに関する話は一切してなかったよね。だから、良いようにも、悪いようにも解釈できる、と思う。ごめんね、不安を払拭できなくて」
「いや、むしろそういった意見が欲しい」
「ありがと。うーん、そうだねえ。良いように考えれば、もう慣れっこになりすぎていて奏愛ちゃん自身、無意識に口にしなかったって考えられる。本人の中で常識化してることって、わざわざ口に出したりしないでしょう?」
「まあ、そうだな。そういう噂があったの? とでも聞かれない限り、俺もいちいち話したりはしないだろうな」
「でしょ? だから、これが一方。もう一方、悪い方だと、これは奏愛ちゃんに当てはまるかって言われたら凄く微妙なんだけどなぁ……」
「できれば、聞かせて欲しいな」
「うん。悪い方は、つまり都合が悪くてあえて話さなかった……。それはきっと、噂が本当で、何かしら本人としては否定したくても、現実的にできないから。ただ、これは本当に奏愛ちゃんのスタイルからは微妙なラインなんだよね。何しろ、私もこの考えは絶対違う、っていうほど奏愛ちゃんの恋愛スタイルを知らない、言ってしまえば未知数だから。本当に誰かと付き合うとなったら、奏愛ちゃんがどんな姿勢を見せるのかは、正直想像もつかないかな」
「ありがとう。しかし、微妙とは言うけど、否定は出来ないよな」
「そうだね……。断言はできないなぁ。ごめんね」
「いいって。下手に安心させようとして、考えにもないこと言われるより、よっぽど救われるよ」
正直、精神的には一杯一杯だった。
この2日間、出来たことと言えばまずは顧問の菊川先生にそれとなく松尾のことを尋ねるくらい。と言っても、菊川先生はあいにくと松尾のクラスでは国語科目を担当していない。それに、運が悪いと言うべきか、既に今月の活動は終わっていて、すぐさま松尾に関する情報は上がってきていないらしい。
「うーん、だとしたら引っ越しの件は案外差し迫ってないのかな。それなら、部員である奏真にも一報あるはずだし。何しろ、人数少ないんだからそれくらいは配慮あるんじゃないかなぁ」
なるほど、絵里の言う事にも一理ある。けど、正直今は転校よりも……。
「でもこの、新たに浮上した幼馴染さんの件の方が重要かなぁ」
「ああ。いや、転校の件がどうでもいいってわけじゃないんだけど」
「まあ、流石に高校生で恋人のいる学校に行きたいから転校、っていうのは現実的じゃないよねえ。ドラマティックだけど」
でも、もしかしたら松尾の幼馴染っていう存在は、松尾にそうさせたいだけの魅力を持ってるんじゃないか。そんな存在に近づくにはどうしたらいいんだ。
「奏真?」
「ああ、大丈夫。正直、俺たちじゃどうしようもない問題なのは確かだな」
「そうだねえ……。現実的に考えて転校ってことは、ご両親の転勤があった、って考えられるから、そこに私たちが首を突っ込める余地はない、よね」
絵里の言葉に、内心歯噛みする。
またか。また見送ることしか出来ないか。中学時代、学校を去っていくある男子生徒の後ろ姿が脳裏をよぎる。
分かってる。あの時は、直接手を出せる問題だった。でも今回は、全くそれとは別次元の問題で、外野の俺がどうこうできる問題じゃないって。
それでも。
しかし、俺の焦りと裏腹に、打てる手はやはりなく。ひとつだけ分かったのが、何やら話がまとまっていない雰囲気がある、という程度。具体的なところは、結局教えてもらえなかったが、どうやらやはり松尾の両親が転勤することになったらしい。それも、東ブロックの方へ。
「ここまで出れば、って感じだけど……。ところで」
ずいっと俺の方へ身を乗り出す絵里。対して俺は気まずくて目を逸らすが、彼女は容赦しない。
「土日、碌にご飯食べなかったな?」
「た、食べたよ……」
「ほーう。一日一食できちんと食べたって言えるの?」
ぐっ、言い返せねえ。
これまたタイミング良いというのか、両親揃って出張だったため、まともな食生活を送ってなかった。勿論、そんなことなどお見通しな我が両親と幼馴染によって俺の食生活確保作戦は展開されていたはずだったんだが……。
「確かに、朝練とかあってきちんとは見に行けなかったけど……。でも、私届けたはずだよね?」
「う、うぃ……」
「それが八割方冷蔵庫行き? どういう事かなぁ?」
あ、圧が……。どのみち、昼食で俺の弁当の中身見られたらバレることだし、逃げ場はないんだけども!
「あのねえ。中学の一件で、約束したよね。もう絶対に無理はしないって。そりゃ、一大事だし、夜も眠れないほど気になるってのは分かるよ? だけど、それが不健康な生活をする理由にはならないんじゃない?」
「お、仰る通り……」
辛うじて椅子に座ってるものの、何ならこれ土下座する勢いだ。それくらい怖いです。というか、ここまで過敏になるのも、あの一件のせいかと思えば胸も痛む。
「……まぁ、そのくらい入れ込むのは奏真のいい所なのかもしれないけどさ。だからって毎回自滅するようなことしちゃダメだよ」
「あ、ああ。すまん」
何でそんな寂しそうな顔するんだよ……。いや、それは俺に言えたことじゃないな。何せ、あの時自暴自棄になって、一番絵里を傷つけただろうから。目の前で自分を痛めつけるような真似をする幼馴染を見せられて、きっと下手な暴言を吐かれたりするよりも、辛かったと思うから。
「二度とやらない、と決めてたんだけどな……」
「と言っても、奏真の場合どうやっても片鱗見せるからねえ。正直言って文芸部絡みで大きな問題が起こらなくて良かったと思ってるよ」
これまた否定できない。部長業務をこっそり肩代わりしていたからな……。
しかし、いよいよこれでもうやれることがなくなった。どうしようか。
「そう言えば、今日奏愛ちゃん来てるみたいだよ。どうする?」
「マジか……」
タイミング本当に悪いな。何だ、そういう星の元に生まれた何とやらなのか。流石に、今の気持ちで会うのは気が引ける。そもそも覚悟決めてねえよ。きついな。
でも、いつかは向き合わなきゃならない。もしかしたら、来年を待たずに別れが来るのかもしれないのだから……。
◇
松尾に会わなければ。
そう思って、2日が過ぎてしまった。その間に焦りと苦悩だけが募る。覚悟が決まらない。結局、俺の松尾に対する想いなんてその程度なのか、っていう自責の念が止まらない。だから、きっとそれを見かねたんだろう。
「奏真、今日時間あったらみどり公園に来て」
「みどり公園……。ああ、あそこか。でも何で?」
「わけは、そこで説明するから。お願い」
金曜日の朝一で絵里からそう言われた。しかも有無を言わさない目。
何が何やらわからないが、頷くしかないと悟り、俺は放課後に会う約束をしていた。
みどり公園というのは、俺や絵里の家がある団地、そこの入り口にある公園だ。子どもの頃は、夏休みになるとここでラジオ体操があって、その後少し遊んでから帰ったもんだ。
約束通り、放課後そのみどり公園に足を踏み入れる。絵里はというと、一緒に帰るのかと思いきや、気づけば既に教室を後にしていた。多分、こちらには先に来ているはずだ。
「あ、いた」
「お、来たね」
俺に気づいた絵里がブランコから降りてこちらに向かってくる。待たせてしまっただろうか。
「ごめんな、暑い中」
「大丈夫、こっちもほんの数分前に来たばっかだよ。あー、奏真置いて先に帰っちゃったのは、ごめんね? 何をどう話そうかなーって、一人で考えたかったから」
「気にしないでくれ。それより、話って?」
「奏真は、まだ気づいてないみたいだから、面倒なのは抜きで本題から切り込むね」
「気づいてない?」
よく分からない。何のことだ?
そんな疑問を浮かべる俺をよそに、絵里は深呼吸をひとつしたと思うと、俺を見据える。
「私は、奏真、貴方のことが好きです」
「……はい?」
え、ちょっと待ってくれ。それは、一体……。脳の理解が追い付かない。俺は、今何を言われて……。
「うーん、想像した通りの展開だねえ。落ち着いてって言っても、多分落ち着けないだろうけど……」
「いやだって……。本気、なんだよな?」
「そこを疑うのは、良くないよー。青天の霹靂状態だから、仕方ないとはいえね」
「あ、じゃあまさかあの時踏ん切りをつけたっていうのは」
「おー、ようやく正解に辿り着いたね! いや、あの時は流石にずっこけそうになったわ。まさか、あっちに解釈するとは思わなくてさ。色恋に疎いとはいえ、あのレベルとは思わなくて」
まあ、口滑らせた私も悪いんだけどねー、と飄々と絵里は笑う。けれど、俺としては血の気が引く思いだ。うわ、途轍もなく恥ずかしい勘違い……いや、変な思い込みよりはマシなんだろうか? ともかく、さっきから混乱しっぱなしだ。でも、言わなければならないことが一つだけある。
「絵里、俺は……」
「あー、分かってる。正直なところ、先に返事は聞いてるみたいなもんだからね。だから、私の目的は奏真に告白することじゃない」
「いざバッサリ切られると辛いなぁ……」
「えっ、奏真私と付き合う気あるの?」
「ぐっ……」
「今のは意地悪だったね、まあ私の気持ちスルーしてたことへの仕返しってことで、この辺にしときますか。とりあえず、立ちっぱなしもなんだし、そこのベンチ行こうか。ここだと日差しが当たって、長話するには辛いし」
俺の言おうとすることは全てお見通し……いや、こればかりは仕方ないだろう。絵里からの返しにくい一言も、甘んじて受けるしかないな。気づけなかった自分を呪いたい。
「改まって、話しって何だ?」
「あれ、察しはついてると思ったんだけどな。さっきの告白、どう思った?」
「どう、って言われても……。そうだな、戸惑った。気づけなかった俺が悪いとは思うけど、唐突だったし絵里が俺にそんな気持ちを抱いてるとは知らなかったから……。でも、同時に嬉しかった。嬉しいんだけど……」
「うんうん」
「その気持ちを受け入れることができなくて。それが、苦しい」
「そっか。うん。つまり、奏真にはもう好きな人、想いを向ける人が別にいるんだよね」
「そりゃ、絵里だって知ってるはず」
「そうだね。でもあえて確認のために。考えるだけじゃなくて、それを口にするっていうのも案外大切、というかぐちゃーってなってる時は案外と有効なんだよ」
「そうなのか……」
「話を戻すけど、現状奏真には好きな人がいる。けれど、今大変なことになっていて奏真はアクションを起こせない。そうだよね?」
「そうだな。いや、具体的に何をすればいいのかは分かってるんだけど……」
「でも、足が竦んでる。じゃあさ。ちょっと遠くに目を向けてみようか。将来的に、奏真はその人とどういう関係になりたいのかな?」
そうか。俺はそれを見失っていたのかもしれない。その質問なら、答えは簡単だ。
「恋人関係になりたい。そのためには……」
「そういうこと。今奏真にできるのは、他でもない自分の想いを貫くことだけだよ」
「でも、今この状況で告白して大丈夫だろうか……」
「そこで、私という見本ですよ」
「絵里が見本?」
「私は、奏真が大変なのを知っていて、でも告白した。なーぜだ?」
「そ、れは……」
「簡単だよ、奏真と同じ。別に、あれは励ますためでも何でもない。私の本心。中学時代から、危うくて、でも人を助けようと全力な、優しい幼馴染に憧れたから。でなきゃ、この相談にも乗らなかったし、そもそも落ち込んで、無気力になってた奏真を支えたりしない」
「あ……」
「だから。行ってこい。大丈夫だって。悪い事ばっかり考えてちゃ、そりゃ足も竦むよ。私は、確かに奏真に振られたけどさ。でも、どう? 奏真はすぐにこの関係を断ち切りたい?」
「それは嫌だ」
「お、おおう。食い気味に即否定されると、嬉しいね。でも、そういうことだよ。そこは、奏愛ちゃんを信じようよ。奏真が惚れ込んだ人なんでしょ?」
「……ああ」
何だ、簡単な事じゃないか。ほんと、情けない。
「ほら。じゃあ、行ってこい」
「お、おう。その……本当にありがとう」
「いいって。ほらほら、急いだ急いだ」
絵里に送り出され、俺はひとまず公園を後にする。振り返れば、いい笑顔で手を振ってくる幼馴染。本当に、絵里が傍にいてくれて良かったと思う。そして、その想いに報いるためにも……。
「まあまずは呼び出しからっていうな……」
流石にこの時間からは厳しいだろう。なら、日を改めるのが吉か。
そうなれば、明日。場所も、いつも松尾と別れるあの公園しかないな。手早くLINEにメッセージを打ち込む。松尾からの返信は、思ったよりも早く来た。問題ない、という旨。
「はぁー……」
自分の部屋で思わずため息をついてしまう。
何にせよ、これで準備は整った。あとは、実際に告白するのみ、だ。
◇
体感でだけど、時間の進みが早いときと遅いときがある。早いときというのは、大抵楽しいことをしているとき。遅いときというのは、苦痛に思うことをこなしているとき。じゃあ、今日の場合はどうなのか。今か今かと約束の時間がくるのを気にしてソワソワしているはずなんだが、一向にその時間が来ない。1時間が、やけに長く思える。
「ま、楽しいっつーよりは緊張するよなぁ」
約束した時間の、まだ30分前。そういや、前に出かけたときもそうだったよな、などと思い出す。
「えっと、お待たせ。加々美君」
そうだ、あの時もこうして松尾も時間前に来て……。あれ?
「えっ、は、早くないか?」
「ご、ごめんなさい、つい……」
「あ、いや、責めてるわけじゃなくて……。とりあえず、座ろう」
「え、ええ」
びっくりした。こんな偶然ってあるんだなぁ……。なんて、意打ち気味の登場で驚きはしたが、別に問題ない。たった一言、それを告げるだけだ。
「ありがとな、急に呼び出したのに来てくれて」
「いえ。それに、急って言っても前日にきちんと連絡くれてるから、大丈夫よ。気にしないで。それより、私は加々美君の話っていうほうが気になるのだけど」
そりゃそうなるわな。よし。ここまで来れば、もう退路はない。覚悟を決めろ。
「あまり回りくどくは話せない。だから、上手くは言えないかもしれないけど」
そう前置きして、息を吸う。次の一言で決する。さながら気分は川中島だ。
「俺は、松尾の事が好きです。今松尾が大変な事になってるのは知ってる。だから、返事も今すぐでなくてもいい。ただ、俺が松尾に想いを寄せているっていうこと、それだけ伝えたかった」
言い切った。息をつく。口の中はもうカラカラだし、心臓は、かつてないほどに痛む。けれど、言葉にすべきことはした。意外だったのは、それだけの状態で思った以上に自分が冷静だってこと。あと、松尾の反応。
「えっ……あ……」
「あ、あれ?」
「ご、ごめんなさい、初めてだったし、まさか加々美君にそう言ってもらえるとは思わなかったからびっくりして……」
口元を手で隠すようにしながらも、目がこれまで見たことないほど大きく開いていた。それだけ衝撃が大きかったということだろう。
「あ、えっと、こういうときってどう返事すればいいのかしら……?」
「い、いや、それは俺に聞かれても……」
あれ。ちょっと待て。俺からの告白でここまで驚くってことは……。
「松尾、もしかしてこういうの初めて……?」
「え、ええ。今までになかったことね。ごめんなさい、慣れてないから、今考えまとまらなくて」
「い、いや。それはいいんだけど。じゃあ、幼馴染さんから告白……とかなかったの?」
「えっ」
再び驚きの表情を浮かべる松尾を見て確信する。
噂はやっぱり噂だった。
松尾に、噂の事を話すと「ああ」と合点がいった、という表情になり、同時にため息を吐いた。
「ごめんなさい、よくある事だし、もう加々美君や絵里さんも知ってることだと思ってあのとき話さなかったのよ。慣れ過ぎていて、いちいち話す事でもないと思ったのもあるのだけど、そのせいで何だか混乱させてしまったみたいね。多分今回の噂が立った原因は、一度だけ幼馴染がこっちに来てて、それで東ブロックに来るのかっていう話をしてたのよ。その現場を見られたから、じゃないかしらね。勿論、浮いた話はなかったのだけど」
「そうか、それで……。だけど、噂の方もあり得ない話でもないと思ったんだけど」
「仮に噂が真実だとしたら、多分私はあの場で2人に話してるわ。だから、100パーセントあり得ない、とだけ言っておきます」
「はい、すいません」
「というより、彼との噂はどうでもいいのよ。加々美君の告白に応えることが今は大事でしょうに」
「あー、いや、今大変なんじゃないの? だから、無理にとは」
「えっ?」
「ん?」
あれ? なんかまた話が噛み合ってないぞ。どうなってる。
「えーと、転校の話が持ち上がってる、んじゃないの?」
「いえ、それ断ったはずなのだけど……。それも、大分前に」
「……マジ?」
「大マジよ」
真顔で「大マジ」なんて言葉を使う松尾が可愛い。……なんて言ってる場合じゃねえ。
「じゃあ、絵里が聞いて来た、松尾の担任から転校が、っていうのは?」
「うーん、多分最終確認のことかしら。本当に大丈夫なのよ。幸いに、というのか、確かに両親は転勤で東ブロックの方に行くことになったのだけど、近くに祖父母の家があるから、私はそちらから今の学校に通う事はできるから。流石に、このタイミングでの転校、っていうのもしんどいし」
「な……」
何だそりゃあ。
思いっきり脱力しそうになった。でも、良かった。松尾はまだここに、傍にいるんだ。あ、でも、そうなると……。
「で、肝心の加々美君からの告白、なのだけど」
「は、はい……」
うっわ、やっべ。
これ、告白した時よりもドキドキする。何なんだ。相手からの返事聞く方が、身がもたないぞ。心臓が、今になって痛いほどの動悸を刻み始めた。やばい、死ぬんじゃないの。
「えっと、その、さっきも言った通り、こういうのって初めてだから……その、作法? とかも知らないのだけど……。そんな私でも、い、いいです……か?」
上目遣いに見てくる松尾が、かつてなく破壊力やばい。
いやいや、そうじゃないだろ。
「それ言ったら、俺も初めてだから気にすることじゃないよ」
「えっ、加々美君、告白、というかこういう色恋沙汰経験ないの?」
「何でそこで意外そうに目を剥かれなきゃならんのですか。ないですよ」
時々絵里も、こういう目で見てくるときあるな。何なの、そんなに俺って意外性を秘めてますか。平凡な人間ですよ、こちとら。
「そ、そうなの……。は、初めて同士、なのね。ええ」
「何か、こんな松尾も珍しいな……」
「な、慣れてないから仕方ないでしょう。で、でも加々美君も初めてなら、気負う事はなのかしらね。えぇと……。まずは、その、告白してくれて、ありがとう。というのも変かしら。でも、嬉しかったから。それで、その、こんな何もかも初めてで不出来ではあるけれど、それでもいいって言うのなら……よろしく、お願いします」
「あ、え、っと、こちらこそ……お願いします」
嬉しい……はずなんだけど、何だろう。脳がもう完全に停止していて、今何も実感がない。いっそ夢見心地というのか。
「えぇと……この後、何をしたらいいのかしら?」
「いや、告白して受け入れられたのも初めてだからよく分からん……。うーん、と、そうだな……。デート、しない?」
「へっ⁈」
「あ、いや、勿論今からは無理だろうからさ! その、日を改めて……来週、とか」
「え、ええ。い、良いわね。前は、そうね。まだ友達、だったものね。じゃあ改めて。これからも、よろしくね。加々美君」
そう言ってにこ、と微笑む松尾は、今までよりも美しく見えて。だから。
「……おう! こちらこそ、よろしくな!」
俺も、これからそれに全力で応えていかなきゃな。
◇
「はあ⁈ 勘違いだった⁈」
「いやあ、ごめんね、こんな形になっちゃって」
月曜日の昼飯時。俺の素っ頓狂な叫びもものともせず、飄々と我が幼馴染はそう宣った。え、何、こいつ、真実知ってやがったの?
「うん。本当に、ごめん。笑い事じゃないのは分かってるんだけどね。ただ、奏真はずっと奏愛ちゃんへの告白を躊躇っていたし、これはもう、正直言って劇的な何かが起こらなきゃ進展しないなって思ってたから、利用させてもらったんだ」
「いくら何でも心臓に悪いってえの……」
「ごめんってば。でも、あのままじゃ私割を食うことになってたし……」
「む、それ言われると……」
あの混乱があったからこそ、絵里も想いを告げることができた、ともいえる。
ところで、それを聞き逃さないゲストが今日は1人。
「絵里さん? どういう事かしら。割を食う、っていうのは」
「か、奏愛ちゃんの迫力がなんかいつもと違うんだけど……。まあ隠してもしょうがないか。奏真に矛先向かったらどうせもたないだろうし。あの前日になるのかな? 私も告白したんだよね、奏真に。だって、正直想っていた時間は私が一番この中で長いワケだし?」
「こ、告白……じ、じゃあ絵里さんも加々美君を……!」
「いや、いやいやいや! そんな目に力入れないで! 見ての通り、きっちり奏真は私の事断ってるから! 奏愛ちゃんに告白したのが何よりの証拠じゃん!」
「そ、それはそうだけど……でも、びっくりよ。まさかそんなことがあっただなんて」
「あ、あれ。私の態度ってそんなに分かりにくかったかな」
「正直、俺は察せなかった」
「その、私はそもそも付き合いが短いから何とも……」
「結構露骨だと思ったんだけどなぁ」
がっかり、と肩を落とす絵里。悪い事をしたな、とは思うんだが、今となってはもうどうしようもない。
「まあでも、不埒な気は起こさないから」
「え、ええ。そこは信頼してるから。私は……。ええ、絵里さんの分も含めて、全力で加々美君の想いを受け止めるだけ。だから」
その一言で、絵里は身体を震わせる。と、思った次の瞬間俺にとんでもない提案をしてくる。
「かっ……可愛い! 健気! 奏真、この子私の彼女にしていい⁈ いいよね⁈」
「待て待て待て。告白したのは俺だし、何で絵里の方に行く事になるんだ」
「だって、こんな可愛い子、そうそういないよ!」
「ま、まあ気持ちはわかる。告白した時も反応可愛かったからな」
「えっ⁈ そ、そんな反応したつもりはないのだけど⁈」
「いや、それは松尾が自覚ないだけだと思うよ」
「嘘でしょう⁈」
何だろう、いちいち本当に可愛い。口にしたらこんどは怒りそうだから言わないけど。
「あ、そういや今更だけど」
「はい?」
「うん?」
口を開けば松尾と絵里が一緒に反応する。いや、本当に今更っていうか、今となっては聞いても仕方ないことかもしれんが。
「転校するっていうのが、まあ俺たちの勘違いだったとして、松尾が3日間休んでたのは何で?」
「ああ、それは体調崩していたからよ。あんなに高熱出したのも、久しぶりだったわ」
「なるほど」
そりゃ学校に来れんわな。そうか。
「一応3日目には熱も引いていたのだけど。その間に、例の噂が広がってるっていうし、散々だわ……」
「奏愛ちゃんが幼馴染さんと会ったのって、奏真と出かけた翌日の事なんだっけ?」
「ええ、そうよ。びっくりだったけど、まあ彼のこれまでを考えればやりかねないことではあったわね。はあ……。まさか一緒にいるところを見られて、更に中学時代を知ってる友人に発火するなんて」
「まあ、かつて噂があって、更に再燃する燃料があったらこうなるよね。分かるなー」
対岸の火事というのか。でもって、そういった話には、周囲は興味津々だからな。
とまあ、松尾との関係性が変わって、一層賑やかになったひと時を噛み締めながら、俺は来週のデートのことを密かに考えていた。
◇
初デートの日まで、体感であっという間だった気がする。前に出かけたときと同じ場所に、俺はいた。待ち合わせ時間より、今日は20分前。こうやって早めに来るクセは治らないかもしれないな。
一応松尾にも、いつも待ち合わせより大分早い時間に来てるからもうちょっと遅くてもいい、とは伝えたんだけど……。
「お、お待たせ……。相変わらず早いわね?」
「やっぱこうなるよなぁ」
「もう習慣になってるわね」
駅から出て来た松尾と顔を見合わせ、互いに苦笑する。何が面白いって、2人揃って時間前集合なんだけど、その集合時間がこれで3回きっちりかち合ってるってこと。案外、思考回路似通ってるのかもしれん。
「さ、折角早く来たんだし早速行こうか」
「ええ。ところで、今更だし提案した私が聞くことではないかもしれないけれど」
「ん、何?」
「本当に、前と同じ場所で良かったの?」
「うん、大丈夫。ほら、前はこういう関係じゃなかったでしょ。それが、一歩進んだ今と何か違うところあるのか、とも思うし、その、今の関係で松尾の隣を歩きたい、って思うからさ……」
「あ、う、うん。あ、ありがとう、加々美君」
だ、ダメだ。何というか、こそばゆい! なにこれ、付き合うってこういうことなのか。恥ずかしいっていうのは勿論あるんだけど、とにかくなんか背中の辺りがすごく、こう、くすぐられてるみたいで落ち着かねえ!
「えっと、い、行こっか。ここにいても仕方ないし」
「そうね、ええ」
歩くコースは変えてあるが、一点、昼食だけは松尾たっての希望で前回と同じ。やっぱりというか、いたく気に入ってもらえたみたいで良かった。
「あら?」
「ん? 何かあった?」
昼食を終えてお店を出た松尾が足を止めている。何だ?
「こんなところに神社があったのね」
「ほんとだ。本殿はこの細い路地の後ろ側に引っ込んでるから気づかなかったんだ」
「縁結びに特化した神社ではないようね、良かった。せっかくなら詣でていきましょう」
「ん、いいね。行こう」
ナチュラルに縁結びの神様を祀っているのではないことを確認した松尾に少し笑ってしまう。同時に、松尾の一途さが垣間見えたように思える。
縁結びの神様っていうけど、俺たちの場合は既に結ばれているわけで。ここで頼ってしまうと、本当の縁を探すために今ある縁を切られることになる。そりゃまあ、真実のご縁じゃないんだ、って言われたらそこまでなんだけど。別に、それはお互い望まぬ現実だから。
鈴の緒を掴んで鰐口を鳴らし、二礼二拍手してから願いを胸中に呟く。
願わくば。より長く松尾の隣にいれることを。そして、松尾の隣を歩くに相応しい人間になれることを。
本殿を見据えて、もう一礼する。
「デートに神社、っていうのも悪くない……ううん、いつもよりお願いするのに身が入ったかもしれないわ」
「それは何より。でも、商店街の中にあるもんなんだなぁ」
「元からあったのでしょうね。その後にここができて、神社を囲むように設計された、とか」
「ちょっと追いやられてる感じはあるけどね」
「でも遷移されるよりはマシじゃないかしら」
「確かに」
これもご縁のひとつだろうな。
お参りした後、ここからはある意味松尾の本領発揮だった。
いつだったか、自転車通学なのを心配したことがあって、本人曰く体力がある、と言っていたのはやはり嘘ではないと認識させられる。まあ、前回もそうだったんだがあの時は気にかかることが別にあって、半分そっちに思考が割かれてたから実感なかったんだけども。
「そういえば、これだけ歩いてもゲームセンターには立ち寄らないのな」
「そうねえ、ちょっと苦手で……。加々美君は、よく通うのかしら?」
「いや、俺も付き合いでもない限りは。あの賑やかさが、どうも馴染まなくて」
「私も似たようなものよ。誘われたら行くのだけど。あら、あんなところにお洒落なケーキ屋さん」
「テラス席もあるみたいだな。ちょっと気になる」
「あ、じゃああそこで一服しましょうか」
「賛成。ちょっと落ち着きたかったところだ」
こう、新しいお店ってやっぱりワクワクするね。
しかし……。うむ、結構可愛い感じの内装で俺もいていいのかな、これ。
「テラス席にしましょうか」
「あ、いや、暑いから中にしよう」
「そう? どちらでもいいけれど、じゃあ加々美君の言葉に甘えて」
というわけで松尾と一緒に案内された席に座る。テラス席は、また時候のいい頃にしよう。松尾も、ここに来るまでうっすら汗かいてるし。
「うーん、このお店もいいわねえ。ただ人気店だから人が多いのは仕方ないとして」
「え、人気店なの?」
「加々美君、知らなかったの? って、私もお店の名前見て思い出したから人の事は言えないか。以前に夕方のちょっとした地域番組で紹介されていたのよ。元から人気はあったのだけど、その番組の宣伝で知名度を上げたらしくて」
「へえ、知らなかったなぁ。じゃあ、今行列が出来てないのはピークを過ぎたからかな?」
「というより、ちょっと下火になったからじゃない? それでももうこれでほとんど満席状態ね」
でも回転状態はいいのだろうか。注文したケーキセット2人分も、こうして話してる間に運ばれてくる。あるいは、そういった手際の良さが浸透しているか。
「バタバタした後だから、こう心置きなくのんびりできるのが久々に思えるなぁ」
「あ、ごめんなさい。振り回し過ぎたかしら?」
「ああ、違う違う。デートのことじゃなくて、ほら、松尾に告白するまで……ね」
「あ……えぇと」
「謝ったりとかはいいから。誰が悪いんでもないし、それにあれだけの騒動がなかったら、今俺はこうして松尾といられなかったからさ」
「それは、そうね。むしろ感謝すべきなのでしょうけど」
松尾の様子がおかしい、というかソワソワしているように見える。何かを言おうとして迷っているような……。と思っていると、意を決したようにまた口を開く。
「あの、前に聞いたときは文芸部のため、だったけれど。今回は、純粋な興味として聞かせてもらうわね。何で、加々美君は最初から文芸部に入らなかったのかしら? いえ、入る前は、何をしていたの?」
それは、確かに前々回の活動で松尾から尋ねられたことだ。でも、今回は彼女の興味だという。
そうなれば、避けては通れないよなぁ。ま、いずれ話すことになっただろうし、ちょうどいいか。
「あまり愉快な話じゃないかもしれないけど」
一応そう前置きをする。実際、これから話すことは楽しいものじゃないからな。でも、放ったらかしにしていたものを整理する時が来たのかもしれない。
◇
話は、中学時代にまで遡る。
中学2年になった時のこと。その時、クラスメートの中でいつも放課後に残っている男子生徒がいた。最初は気にならなかった。っていうのも、そいつは生徒会に入っていて、副会長だったから。きっと生徒会の仕事が忙しいんだろうな、って最初は軽く思ってたんだ。
おかしいと気付いたのは、それが2カ月も続いていたこと。流石に、4月は年度初めで忙しいのは分かる。けど、体育祭まで駆け抜けれれば、後は中間試験が控えているから生徒会も少しは落ち着くはずだ。少なくとも、放課後遅くまで残らなきゃならないっていうのは異様だと思った。
「いつも何してるんだ?」
「えっ。あ、確か加々美君、だったかな?」
最初は興味半分だった。もしかしたら、中間試験が控えてるから自分の勉強かもしれない。そんな期待もあった。けど、彼の手元を覗き込んで、その期待は消え去った。
「ずっと生徒会の仕事してるんだよな?」
「あ、知ってたんだ。僕の仕事だからね……」
「後藤、寝てないんじゃないのか?」
実は彼とは碌に喋ったこともなかった。だから、気が付けなかった。目の下のクマが、ひどく濃くなっていて、彼の疲労を物語っていた。
「えっ、あ……」
「……ちょっと見てもいいか?」
「う、うん」
なぜか急にオドオドした挙動を見せる彼をしり目に、資料を見る程俺は怒りが溜まっていくのを感じた。そして、ここからある意味俺の過ちが始まった。
「え、か、加々美君?」
「この席借りる。あと、そっちの束もこっちに渡してくれ」
「えっ、いや、これは」
「いいから!」
つい強い口調になる。
既にこれが一人でこなせる分量じゃないのは明らかだったし、管轄も、副会長がこなすべきものじゃないっていうのも分かっていた。そこから辿れば、誰が彼に仕事を押し付けてるのかもわかってしまった。
元々、俺たちの代の生徒会長と会計にはいい噂がなかったんだ。同性なら分からないけど、男子と女子で良からぬ噂、となれば恋人関係で、っていうのしかないだろ。要するに、会計は仕事をぶん投げ、生徒会長は会長権限でそれを良しとし、かつ表沙汰にならぬよう手を回している、ってわけだ。聞けば市議会か何かの息子で、学校にも口が利くらしいしな。もう色々、突けば怪しい話のオンパレードってわけさ。
「ほんっと、胸糞悪くなる話だよな」
「えっ……あ、ああ……」
「断らなかったの?」
「断らない、というか断れない、というか。僕が断ったら、他の人が押し付けられてしまうからね。それだけは、防ぎたかった」
「だからって後藤一人が頑張らなくたって……協力を仰いだっていいだろ。生徒会、他にも人がいただろうに」
記憶が確かなら、まだ書記が2人いたはずだ。性格の程は知らないが、でも声を掛ければ力にはなってくれるだろう。でも、後藤は頑なに首を横に振っていた。
「それは、ダメだよ。僕が引き受けたことだから……」
「……そうか」
言いたい事は山ほど頭の中にあった。でも、それを彼にぶつけても仕方がないし、きっと何を言ったところで同じ答えしか返ってこないと思ったから。
だから、俺は自分で動くことにした。
申し訳ないと思いながら、翌日、俺は後藤が休憩時間に席を外した隙に、昨日の資料一式を写真に撮っていた。
一から万事、ごっちゃにして後藤に押し付けてくれたのは、そういう意味じゃ助かった。これが周到に、例えば会計のうち部活動予算を後藤に、とか学生活動費のうち予算案のみ、という風に部署分けされていたら何とでも言い訳されるところだった。いやまあ、結論から言ってこれは失敗したわけだけど。情けないとか言うなよ。
ともかく、副会長の机から会計が責を負うべき書類一式が出てくるのは如何と訴えようと考えたわけなんだが。
「知らないね。後藤副会長が勝手に請け負っただけの話だ。俺は強要したわけじゃない。それなら強要したって証拠を見せろ」
会長は傲然とそう言い放ちやがった。あまつさえ、生徒会に歯向かったらどうなるか分かってるな、と脅しまでかけてくる始末。とりあえず、絵里に頼んで書記のうち、片割れに渡りを付けてもらったんだが……。
「ご、ごめんなさい、よく知らないので」
まああの会長の息がかかってりゃそりゃそうなるわな。
さてじゃあ、よりこれを効果的に広めるにはどうしたもんか、と策を練ったんだが。ひとつそれで思いついたのが、書類を会計の女に渡すときの瞬間をどうにか撮影する、というものだった。手渡している書類、副会長が会計にその書類を渡している、という点が証明できれば勝てると思った。
その目論見は途中までは成功した。わざとフラッシュを焚いて会計にバレるように仕組んでいた。当然カメラなんぞを持ち込んでいた俺は教師陣のお縄になるわけだが、どうにか会計も一緒に事情聴取の場に引きずり出せた。元々の狙いはそこにあった。つまり、後ろ盾がない状態の会計を尋問の場に叩きだす。けど、そのためには誰かが一緒に引きずり出されなければならない。苦肉の策だった。目論見通り、会計は全てを話した。俺も写真のデータは引き渡し、内容の確認が行われていた。
でも、失敗した。
結局、会長の親父が介入してきて、全ては不問にされた。俺のカメラの件もなかったことにすると同時に、会長と会計が癒着して仕事を他人に押し付けていたという事実も消滅された、というわけだ。
「あの会長、卒業前に絶対痛い目遭わせる」
「無茶だよ。奏真、もう懲りたでしょ?」
「だからって、あんなの……。どうせ会長に当選したのだって、裏からあの糞親父が手を回したんじゃないのか」
「あー、それはもう公然の秘密ってやつだよ。それ以外にあのボケ会長が票を取れるわけないでしょ?」
「ふーん。やっぱあの澄ました顔に泥を塗らないと気が済まないな」
「奏真ってば、やめときなよ。ホント、どんなしっぺ返しが来るか分かんないよ。今回、両成敗……じゃないな。両方ともお咎めなしに持ち込んだっていうだけでも、相手は相当後ろ暗いことしたって自覚した証拠なんだしさ」
「んなんで満足できるか。いっそ両成敗にしてくれりゃ、俺も気が済んだ」
「なんで相手諸共刺し違えようとするの……」
呆れた顔をしつつも、心配そうに見てくるのは幼馴染の絵里。思えばほんと、この頃から苦労かけっぱなしだよな……。
だけど、絵里の言う通りだったかもしれない。なおも後藤に押し付けられる仕事を、俺は密かに半分肩代わりしていた。その中で、何とかあの会長を黙らせる決定打がないか、探し回っていた。
「粉飾決済とかあれば、一発なのになぁ」
「残念だけど、目の前に全ての資料と書類があるからね」
「俺たちが噛んでいる限り、ないよなぁ……」
毎日のように、そんなことをぼやいていた。結局、決定打は見つからないまま、無事会長は新会長へとバトンを回し。報われぬまま、後藤も副会長の座を下の代に譲って行った。
「これで終わっていいはずないだろ」
諦められないバカが一人。
事は、3年になって起こった。卒業式の答辞は、勿論3年生の代表生徒が行う。そこに選ばれるのは当然のように元会長のはずだった。が、幸か不幸か同じクラスになった俺は、当選間近のところでストップを掛けて。あの悪行を暴露した。例の画像とともに。
そこからが、俺の転落だった。またしても会長の父親に介入され、俺は当時所属していた科学部を人質に取られることになった。その時俺たちの科学部では、中学生化学コンクールで優秀賞を収め、次は全国大会への出場が決定したところだった。それを、校長権限でフイにできる、というのだ。それが嫌ならば黙っていろ、と。
俺1人の我侭で、科学部のみんなを巻き添えにできるはずもなく。嫌々ながらも頷くしかなかった。
結局、後藤の為に報いることは何も出来ないまま、卒業を迎え、俺と後藤は勿論、副会長や、会計の奴とも別々の高校に通うことになった。そこから、俺は無気力に成り下がってしまった。勉強もほどほどに、適当に。そうやって、残りの人生を過ごすんだろう。勝手にそんな妄想を抱いて、高校に上がってからは、生徒会は勿論、部活にも近づきすらしなかった。
あの日、松尾に出会うまでは。
◇
「まあ、そんなわけで、最初は文芸部にも近づかなかったわけ。というか、文芸部だけじゃなくて部活動全般だけど」
「そう……。それが、絵里さんも言ってた、加々美君の過去、なのね」
「え、あいつこの話してたの?」
「あ、いえ。ただ、加々美君は抱え込むクセがあって、それが時にとんでもない方向に出るから付き合うなら、そんな加々美君をどうか包み込んであげて、ってお願いされていたから」
「あ、アイツ……」
少々恥ずかしい。俺は手のかかる息子か。
何てここにいない絵里にツッコミを入れる俺を余所に、松尾は言葉を選ぶようにポツリポツリと喋る。
「私は……加々美君の過去を知らない。だから、今話に出て来たその時の生徒会の会長のことや副会長のことも知らない。そんな門外漢だけど、でもきっと……何も出来なかった、って加々美君は言うけれど、そんなことはないと思う。だって、誰も頼れなかった副会長のために、そこまで行動を起こせたのなら。それだけできっと彼は十分報われたんじゃないかしら。確かに、結果に結びつかなかったかもしれない。けれど、無かったことにされたその事実を、加々美君に知っている数少ない人物だから。それだけで、報いにはなったんじゃないかしら」
「あ……いや、その……て、照れくさいな。俺は、最後の方はあの会長の鼻を明かしてやりたい、って思いに憑りつかれてたから……」
「でも、その発端は副会長に報いたい、という思いからでしょう? それは決して非難されることではない、と私は思うわ。確かに、やられてやり返す、というのは褒められたことではないのかもしれない。でも、誰かの為に尽くしたい、という思いは決して間違いじゃないと思う。ただ、背負い込み過ぎ、というのは否めないかもね」
「ま、松尾まで……」
いや、今にしたら思うさ。あの時絵里に相談して、絵里とか俺の友人だとかを捲き込み、連合を組めばもっと大きなこともできたんじゃないか、とは。少なくとも、あそこまで俺が暴走することはなかったかもしれない。
「でも、そんな加々美君を、私は支えていきたい」
「へっ」
「駄目、かしら?」
「そ、そんなことない! でも、迷惑は……」
「迷惑ではないわ。私がやりたいこと。加々美君が気負う事じゃない。その代り、私の事も、支えてくれると嬉しい」
「そりゃ勿論。まあ、支えるというか、一緒に隣を歩いて行けるような人間にはなりたいな、って」
「なら、それでいいじゃない。お互い、望む形で今の関係を続かせていければいいのだから」
「……それもそうか。ありがとな。あー……」
「ん? どうかした?」
「その、下の名前……呼びたいなって。あと呼んで欲しいな、って」
「下の名前……? あっ。そ、そうね。付き合ってるんだものね、私たち」
「だろ。だから、俺から……。え、っと、これからもよろしくな、か、奏愛」
「あ……う……。こ、こちらこそ。そ、奏真」
やれやれ。
名前ひとつ呼び合うのも、まだまだぎこちない俺たちだけど。
でも、この歩みは、もっとずっと遠くへ続いていく。そんな気がする。
過去は過去。今は、俺の周りには支えてくれる幼馴染と、愛しの恋人がいる。見失わなければ、きっと大丈夫。
「さっ。行きましょ、そ、奏真」
「お、おう。奏愛」
これから彼女のどんな一面を見ることが出来るのか。楽しみと、希望は尽きない。
そんな道を、歩んでいく。彼女と2人で。
〈完〉
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