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-The Snow Lord-:prologue
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◆ 序章
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蒼天は果てしなく広がっている。
太陽の光を遮ろうという雲はひとつとして浮かんでおらず、空は地上に向かうにつれ紺碧から青へ、そして水色へと徐々に薄まり、やがて瑞々しい緑色との境界に消えていく。
なだらかな稜線を描く山々の麓、広大な田園地帯に揺れているのは春に芽吹いたコムギの穂だった。その硬い外皮が膨らんで緑色から眩い黄金色になり、収穫の時期を迎えるのはまだ少し先になる。
コムギ畑に細く細く伸びた一本の道を、ひとりの女の子が足早に歩いていた。
膝丈まで伸びた穂が風の軌跡を描く様子を、いつもなら飽く事なくゆっくりと見て楽しんでいるところだが、今は脇目も振らずひたすらに前を向く。僅かに空を仰ぎ、そっと手で庇を作ると小さく息をついた。今日は日差しが強い。
ようやく田園を抜け、町の大門を潜ると建物の日陰に最後は小走りに駆け込む。小路を吹き抜けて行く緩やかな風が、わずかに汗の滲んだ肌を労うように撫でた。
「──おぉい! ***!」
名前を呼ばれた気がして顔を上げると、顔見知りの同年代の子供たちが数人、広場の噴水の周りに集まっていた。
どうしたの、と聞けば、お前も来いよ、と返される。一体何があるのか、それ以上の返答はなく、女の子は首を傾げながら少々名残惜し気に日陰から出た。
「なぁに?」
声を掛けてくれた男の子の元に辿り着いて、ふと、子供の中に一人だけ大人が混じっているのに気がついた。
石造りの噴水の囲みに腰掛けたその人は、この時期には明らかに暑そうな外套を身につけて、日除けの大きな鍔の付いた帽子を被っていた。
──見たことのない人……
そう思った。
勿論、女の子はこの町の人全てを知る訳ではないけれど。……そうではなく、服装もそうだが──纏っている空気、と言えばいいだろうか。とにかく、自分たちとは何もかもが違うと、そう感じたのだ。
「トルヴェールだよ! お前も一緒に話聞かせてもらおうぜ!」
興奮の滲んだ声が告げた単語に、ああ、と女の子は得心がいった。
町には時折、旅の吟遊詩人がやってくる。世界の歴史的な事件や、珍しい風物の話、英雄潭、神話や民話……流麗な唄にのせて紡がれる数々の物語は、いつだって子供たちの心を捕えて離さない。
吟遊詩人の中でも、ジョングルールと呼ばれる所謂『大道芸人』とは違い、トルヴェールは貴族階級お抱えの音楽の担い手であることがほとんどで、滅多に会えるものではなかった。
そんなトルヴェールとの遭遇に、女の子の頬も好奇心で桃色に染まる。しかし、腕に下げている籠の存在が目に入って、見る間にその表情が曇った。
「ごめんなさい。私、おつかいを頼まれてるの。戻らなきゃ……」
「そっかぁ。折角の機会なのに勿体ねーなぁ」
「うん……」
籠の中には、田園の一角にある農園で穫れた野菜。
太陽はようやく中天を過ぎたばかり、夕飯の支度にはまだ余裕はあるが、今日は他にも任されている手伝いが山ほどあった。家路を急いでいたのはそのためだ。
後ろ髪を引かれつつ、踵を返そうとした、その時。
ふと視線を感じた。
トルヴェール、その人からだった。
はやくはやくと催促を飛ばす子供たちから顔は逸らしていない。けれど、目深く被った帽子の奥から、確かに自分を見つめている、と女の子には判った。
『帰るのか?』と、何となく見咎められたような気がして居心地の悪さを感じていると、
「……さて、何がいいだろうか。恐ろしい怪物を倒した勇者の話か、はたまた叶わぬ恋に身を焦がした可憐な姫君の話か……」
その口が開かれたと同時に視線は途切れ、女の子は内心ほっと息を吐く。
一方で、トルヴェールの話の採択に、幼い観客達からは不遜にも不満が漏れた。
「勇者の話も、お姫様の話も聞き飽きてるよ。もっと恐くて、不思議で悲しくて、わくわくするやつがいい!」
「ふむ。なかなかに難しい」
トルヴェールはしばらく何やら思案している様子だったが、やがて苦笑する気配がして、
「……では、とっておきの話を披露するとしよう」
“とっておき”の前振りは、効果覿面だったようだ。
どんな話? と誰かが興味津々に声を上げれば、
「死してなお、女王を護ったひとりの戦士の話はどうか? ──これは本当にあった話。しかも、それほど昔の事じゃない。今から150年前かそこら、かつてこの地方の端を治めていた、小さな国の話だ」
子供たちの目が一斉に輝く。
「すっげえ!」
「……先に言っておくが、そんな輝かしいものじゃない。むしろ絶望が色濃く漂う、悲しみに満ちた話だ。それでも聞きたいか?」
聞きたい聞きたい! と、トルヴェールの周りにみな次々と腰を落ち着けていく。
そして……いつの間にか、女の子も、まるで吸い寄せられるようにトルヴェールの前まで歩み寄り、その目の前に座り込んでいた。
自分は何をしているのだろうか……頭の片隅に、母親の顔がちらついた。
帰らなければと思う。早く食材を届けなければ。手伝いが待っている。約束したのだ。怒られてしまう。──ああ、けれど。
──死してなお、女王を護った戦士……
その物語を、聞きたいと思った。……否、その表現はどこか正しくない。
──聞かなければならない、と思ったのだ。
誰かに明確に引き止められたわけでも、聞くのを強制されたわけでもないのに。
どうしてか、今、この場から去る──その選択肢が、女の子の頭からは綺麗に抜け落ちていた。
再び、トルヴェールと目が合った。
今度は真っ直ぐに。その目が微笑むように僅かに細まるのを、まるで魅入られたようにただただ見つめ返す。
大きな体躯が屈んで、足元に置かれていた荷物の中から弦楽器が姿を見せた。やや小ぶりの、リュートだ。
──ピンッ、と、音を確かめるように弦が一度指で弾かれて。
「では、この町に来て最初の小さな観客諸君。ご清聴あれ」
長い足を組み直し、その上に乗せられたリュートが奏でる静かな調べと共に。
トルヴェールは語り出す。
それは悲しい、哀しい唄──……
惹かれ合う孤独な魂は泡沫の夢に縋る
徒花の誓いを胸に抱き
戦乙女に導かれしその身をもって常世の橋を渡る
嗚呼
目を逸らすこと勿れ 耳を塞ぐこと勿れ
是は
絶望の糸で縫い閉じられた物語。
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