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――果たして牛丸はLINEの交換を求めてくるだろうか?
「LINE交換しようぜ、なんていってきたら、あんたに脈アリよ」姉は恋の金言を教えてくれた。
夜七時半。辺りは薄暗い。
六月中旬、日曜日。梅雨がはじまり、湿気が肌身にまとわりつく。
私は電柱の影に隠れながら、ガラスから光を放つボクシングジムを遠くから眺めていた。牛丸がサンドバッグ相手に軽快にパンチを繰り出している様子が見えた。黒のタンクトップから伸びる太い腕はしなやかだった。
ジム帰りを狙って、彼に接触するつもりだ。私は人生初の、男を手玉に取るという行為に挑む。洞窟に張りつくコウモリの大群のような不安が胸にこびりついていたが、きっと大丈夫だと、意識的に拳を握った。
ポージングと感情は直結している。
姉はそう教えてくれた。
拳を力強く握るだけでやる気ホルモンのアドレナリンが放出されるらしい。ガッツポーズでもいいし、鼓舞するポーズなら何でも良いという。
それに。
今日、駅からここへ来るまでにすでに二人の男性に声をかけられた。人生初のナンパされる体験にとまどっていた。緊張してしまい、
え、あ、はい、えと、その、あの、うんと……
母国語からはみ出したような言葉の粕が口からこぼれただけであったのだが。無下に断るのも悪いと思い、とびきりの変顔をして男性を振り切り、なんとかここまでやってきた。
とにかく、綺麗になってから男性の態度が変わった。見た目が変わるだけで、人の態度は変わる。人間社会の真理を知った。
あれこれ考えていたら、牛丸がジムから出てきた。上下黒のジャージに、金色のラインが入っている。気だるそうに肩にスポーツバッグをかけて歩いて行く。
私は震えた。心臓の音が聞こえてくる。
牛丸くん――そう声をかけるだけの第一関門があまりに巨大な壁に感じる。男子としゃべるだけでも緊張するのに、ましてや相手は私をいじめてるやつだ。私は脇の下に冷たいものを感じた。
上手くいくのだろうか――いや、上手く行く。心拍数があがっていく。牛丸の背中が遠くなっていく。いかなきゃ。
私はしばし目を閉じて、姉から教わったすべてを身体に再起動させた。
小さく息を吐き目を開けると、牛丸の背後に歩を進めた。
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