水槽

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水槽

 その日は雨だった。そろそろ初夏だというのに少し肌寒い。しとしとと降る雨の音がかえって静寂を感じさせる、そんな日だった。  私は料理屋を営む主人に頼まれて軽自動車に料理を乗せそのお屋敷へと向かっていた。屋敷の(あるじ)は今年で七十歳を迎える男性で、店の上得意客である。なんでも元は有名な医者だったらしい。一度店を訪れてから主人の料理を気に入り、時々料理の配達を頼まれるようになった。いつもは主人が届けに行くのだが、その日はどうしても店を離れられず私にお鉢が回ってきた。 「やれやれ、雨の日の運転は好きじゃないのよね。ま、いいか。今日の誕生日は腕によりをかけておいしい料理を作ってくれるって言ってたし」  今日は私の二十九歳の誕生日だった。 「あー、ついに来年は三十路(みそじ)かあ」  そんなことを(つぶや)きながら車を走らせた。主人とは十歳差である。一応まだまだ若い奥さんで通るだろう。  ラジオから流れてくるのも何だか暗いニュースばかりである。 ――ザザッ……行方不明となっている女性は……ザザッ……首に特徴的なアザが……  私はラジオを切りせめて明るい曲を聞くことにした。車の運転をしながら大声で歌っていると少しは気が晴れる。  しばらくすると大きな洋館が見えてきた。壁を()(つた)が陰鬱な印象を与えている。車を止め料理の入った発泡スチロールの箱を持ち館へと向かう。そして扉のインターホンを鳴らした。 「はい……」  年老いた女のしわがれた声が聞こえてくる。 「若鈴屋でございます。お料理をお届けに参りました」  そう告げると声の(ぬし)はしばしの沈黙の後扉を開けた。現れたのは七十代ぐらいの痩せぎすな老女であった。彼女は私を一瞥すると、 「どうぞ」  とだけ告げて屋敷に引っ込んだ。玄関先で料理を渡して帰るつもりだった私は少々面食らったが、立派なお屋敷の中がどうなっているのか見てみたい、という好奇心も働き、老女の後を追った。  屋敷の扉か閉まるギィィという音が、何とはなしに人の悲鳴に似ている気がしてギクリとした。ミステリー小説の読みすぎだ、と主人に笑われそうだ。  屋敷の中はシンと静まりかえっている。なんだか空気が妙にひんやりとしており、気付くと腕に鳥肌が立っていた。  さほど華美な装飾が施されているわけでもないが妙に幅の広い廊下を進むと、オーク材でできた左右合わせて幅五メートルはあろうかという巨大な扉が現れる。それは一種異様な存在感を放っていた。
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