水槽

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 コン、コン、と老女が巨大な扉をノックする。 「入りたまえ」  中から(あるじ)の声が聞こえてきた。老女はそっとその重厚な扉を開くと私を部屋の中へと(いざな)い、自分はさっさとどこかへ消えてしまった。  部屋の中央には本革のソファーセットが置かれ、(あるじ)は扉の正面に座していた。部屋の隅には車椅子がある。そういえば足が不自由だと聞いていた。 「いや、すまないね、何分足が悪くてかなわない」  屋敷の(あるじ)はそういうと杖をついて立ち上がった。 「あ、どうぞ、おかけになったままで。すぐにお料理を置いて……」  そう言って私はテーブルに料理を置く。そしてふと部屋の右手に目をやった。最初は姿見かと思った。キラキラとシャンデリアの光を反射していたからだ。でもそれは鏡などではなかった。水槽。それは幅二メートル程の水槽だった。 「ひぃぃぃ!」  私は声にならない声をあげてその場にへたりこんだ。幸い料理はテーブルに置いた後だったので主人が作った料理をぶちまけることはなかった。  そこにあったのはただの水槽ではなかった。 「ふぉ、ふぉ、ふぉ。すまない、すまない。驚かせてしまったかね。安心したまえ、それは人形だよ、人形」  屋敷の(あるじ)は私の反応を見て満足げにそう言った。水槽には五十センチぐらいの深さで水が張られている。底には黒い砂利石が敷かれていた。だがそこを泳ぐ魚はいない。 「す、すみません、取り乱したりして」  私はかろうじてそう言った。水槽から一刻も早く目を逸らしたいと思いながらどうしてもできなかった。足がガクガクと震える。 ――人形?  水槽の真ん中に座していたのは人の首であった。美しい女性の首。豊かな黒髪を左右に広げ、少し(うつむ)き加減にして水槽の中央に据えられている。砂利の上に置かれた“それ”はちょうど鼻のあたりまで水に浸かっていた。その肌は陶器のように白く、瞳は半ば閉じられている。本当に人形なのだろうか?そんな恐ろしい疑問が湧いてくるぐらい精巧に作られていた。  すると(あるじ)が部屋の奥に向かって声をかけた。現れたのは驚いたことに水槽の中の人形そっくりの女性であった。袖のない黒いロング丈のワンピースに、どこか血の色を連想させる深紅のストールを首に巻いていた。 「ほら、そっくりにできているだろ?僕の妻だ。僕は妻の若く美しい姿をとっておきたい、と思ってね。それで五年前に人形を作らせたってわけさ。当時二十五歳の妻の人形をね」  彼は()かれたような目をして妻を見つめていた。水槽の中の妻を。実物の妻はうつろな目のままで、 「はい、旦那さま」  と答える。機械的な、まるで人形のような受け答えであった。 「ええ、確かにお美しい奥様ですわ。あ、いけない、お食事の時間をお邪魔してしまいました。どうぞごゆっくりお召し上がりください」  私は慌ててそう言うと逃げるようにして屋敷を後にした。  何とも不気味であった。屋敷も、その住人も。 (まさかあの首、本物……)  そんな思いが湧き上がったが慌てて否定する。そんなことあるはずもない。 (でも……)  とイヤな考えが頭をよぎった。あの老人の、 「美しい姿をとっておきたい」  という言い方が妙に気になったのだ。あの首が本当の奥さんで、奥さんだと紹介されたのは奥さんに似た誰か、あるいは似せた誰か……。五年前に二十五歳ということは今年三十歳のはず。とても三十代には見えなかった。 「妄想よ、妄想。いかにもいわくありげなお屋敷だったから変なこと考えちゃっただけ。第一お金持ちですものね。きっと美容にも相当お金かけてるのよ。あー、うらやましいうらやましい!」  妄想を振り払うように車の中で一人つぶやいた。
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