周防灘台風と機能しなかった警報

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周防灘台風と機能しなかった警報

 ところで戦時下でも、台風などの災害が予測される状況下においては、事前に警報を出すことが特例で許されていた。  しかし、この警報を出すためには軍事行動を行う各方面に許可を取らなければならなかった。  1942年8月27日に長崎県に上陸した「周防灘台風」の際に暴風警報が出されたのだが、これには陸海軍各大臣をはじめ、文部大臣、拓務大臣、企画院総裁、対満事務局総裁、興亜院総裁、以上7名の許可をもらって、ようやく警報を発することができたのだ。  しかも、使われる言葉は大いに制限され「〇〇地方、〇日〇時頃より暴風雨になる、警戒を要す」と、簡潔なものしか認められず、台風の位置、進行方向、速度、風速などは伝えることも許されなかった。さらには伝達されたのも役所や新聞社など限られた場所のみだった。  新聞にも警報が出たのだが……当時の記事を引用する。 ------------------------------------------------------ 特例暴風警報出る 今夕から明朝にかけ 【中央気象台廿一日(筆者注:21日)午前十時発表特例暴風警報】今夕より明朝にかけ四国、近畿地方、東海道方面及び付近海上は暴風になる惧れがありますから厳重な警戒を要します、特に海岸では満潮時の高潮や激浪に注意を要します。なほ中国地方、中部地方、関東地方、奥羽南部及びこれらの付近海上等も風雨がかなりつよくなりませう、中には暴風雨となるところもあるかもしれません、暴風雨になる見込みの時は測候所から特例暴風警報が伝達されますから御注意願ひます 出典:1942年9月22日読売新聞夕刊 ------------------------------------------------------  厳重な警戒を要するという言葉はあるものの、暴風がどれほどのものなのか、また台風がどのような進路を取るのか具体的な記述は無く、それに対する十分な準備が出来ないまま亡くなった人も多かったと言われている。  結局、この台風は山口県を中心に1,158名の犠牲者を出してしまう。警報はあって無いのと一緒であった。  さらに、敗色は強まった1943年以降は、それすらも伝達されなくなっていった。
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