開戦と天気予報の休止

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開戦と天気予報の休止

 戦時中は、天気予報がなかった。  正確に言えば、あっても「軍極秘」とされ、国民に公開されることはほとんど無かった。それは何故か?  1941年12月8日、現地時間早朝に行われた真珠湾攻撃に際し、日本海軍第一攻撃隊の淵田隊長は、オアフ島から米国の放送局が流すラジオの電波を機内で受信。攻撃目標の天候は良好であるとの情報を得た。  これは最大の戦果を得られる可能性が高いと思い、彼らの隊はそのまま真珠湾に向かい、結果として攻撃を成功させている。  晴天ならば目標に対して確実に攻撃をし、大ダメージを与えることができる。だから軍事作戦を取るためには天候は重要な情報なのだ。  そのため戦闘状態となれば天気予報は「極秘情報」とされるのである。  同日日本時間午前8時、当時の中央気象台の藤原台長は、陸海軍両大臣より、口頭によって気象報道管制実施を命令された。  この命令は直ちに全国の気象台に伝達され、当時のある気象観測官は上司から「知り合いの漁師にも気象情報を漏らすんじゃ無いぞ」と厳命されたと言う。  これは、仮に観測官が海上が時化(シケ)ることが分かっていたとしても、漁に出て行く漁師を止めることは出来ないということを意味する。  仕方なく彼らは、天気が崩れそうになると漁師たちに「今日は天気が良いけど、明日はどうですかね」と、それとなく話すしかなかった。果たしてそれはどれほど伝わったのだろうか、もし伝わらなければ……。  観測官たちにとっては、やるせないではすまされない状況になってしまった。  かくして真珠湾攻撃の翌日、新聞各紙は真珠湾攻撃の成功と、米英との開戦を高らかに宣言した。  しかしその紙面のどこを見ても、昨日まであった天気予報が無くなっていた。これは戦争が終わるまで続くことになる。  このことは特に農作業に影響することになった。春霜や夏の雨は? 秋の台風は? 気象情報の一切が消え、これがわからない状態では農業を手探りでやるしか無く、大きな打撃となった。
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