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事はおこりて
1
時計を見た初田紡は、勤務終了時刻となったので帰宅の準備を始めた。
と言っても、今日はカウンセリングの予約がなく、更には飛び入り相談もなかった。要するに、教師との雑談以外は暇な一日を過ごしていた。
いくらカウンセラーと言っても、やはり相手がいなければ成り立たない。
一応教室回りもしてはみたが、心にダメージを受けているような生徒も見受けられなかった。例の五年二組も、今ではすっかり大人しくなっている。
机の上に広げてあった書類をファイルにしまい、ふとエクセルで作ったスケジュール表が目に入った。明日の勤務先が、十露小学校と明記されている。
明日もまた違う場所か、そう思うとつい溜息が出た。
スクールカウンセラーのスケジュールは流動的なもので、明日の出勤は午後からと遅めの出勤だ。ついでに言うと給料は基本時給制。よって明日のような日はスクールカウンセラーにとって、かなり致命的な日である。
本当にこれでいいのか、私の人生。そんなことを考えながらも、実際のところ既にその現実は受け入れていた。
世知辛い、つい頭に浮かんだ言葉が口から漏れ出た。
粗方帰宅の準備が終わると、仕事道具が詰まったバッグを片手に相談室を出た。相談室の鍵を事務室へと返却すれば、初田の今日の業務は全て終了となる。
どの学校でも定時に上がる教師は少なく、決まって校舎の玄関を訪れるのは初田が最初だ。基本的に教師は残業代がないので、案外そう言った点では羨望の的になっているのかも知れない。
無論もしそんなことを考えていたのなら、喜んでこちらも互いの立場の交換を要求する。不安定な月収に怯える日々から、逃れることができるのならば。
「早く帰ってお酒でも飲も」
もはや現実逃避をするには、アルコールの力を借りる他なかった。しかも毎晩飲んでいるせいか、最近では朝起きるのも辛くなってきていた。これではせっかく入ったシフトも、ろくにこなせなくなってしまう。言わば本末転倒である。
人の話を聞くのが得意だからと言われて、大学の先生に勧められたスクールカウンセラー。しかしそれはいざ蓋を開けてみると、近くにいる教師よりも不安定な職だった。
こんな自分でも人の助けになれるのなら。そう思って初田は、この業界を目指した。今思えばあの時もっと他の職業を選んでおけばよかったと、後悔の波が押し寄せてくる。
「つまらないこと、思い出しちゃったな」
心の靄に首を振った初田は、事務室へと向かう道筋を歩き出した。すると突然、背後から服の裾を誰かが強く引っ張った。
同時に、トタトタと足踏みをする音まで聞こえてくる。挙動からして、この学校の生徒だろうか。
「初田先生! 笛口くんが……笛口智也くんが!」
振り返るとそこには、目に大粒の涙を浮かべた少女が立っていた。胸につけている名札には『たていわくる』と記されており、その色からして学年は五年生であることがわかった。
風貌は黒縁の眼鏡に三つ編みの二つ結びと、第一印象としては優等生と言った感じだ。
この子がタテイワクルって言うのか。見覚えこそあったが、初田には彼女の名前がわからなかった。無理もない、三つの学校を掛け持ちしているカウンセラーが、相談に来たことのない者の名前をいちいち覚えているわけがなかった。
しかし彼女の口から発せられた名前には、こちらも聞き覚えがあった。
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