事はおこりて

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 五年二組、 笛口智也ーー。クラスの中心的人物であり、成績も優秀で教師からも評判が高かった生徒だ。同時に彼は陰でイジメを行なっており、一人の生徒がカウンセリングに来ていた。  優秀な者程、他者を低く見てしまう傲慢さが現れてしまうのであろう。そんな生徒はこれまでに何度も見てきた。  だがそんな笛口智也が、一体全体どうしたのだろうか。今はもう下校時刻で、よっぽどの用がない限り生徒は残っていない。なのになぜ、クルが学校に残っているのかも、初田は不思議でならなかった。  しかし彼女を見るからに何かしらのことが起こっているのは明確だ。ひとまずカウンセリングで培ってきた会話術から、クルを落ち着かせる対処をとる。 「まずは大きく深呼吸して」  しゃっくりに合わせて嗚咽をしながらも、クルはそれに応じた。そして精神的にも少し落ち着いてきたのか、先程とはまるで違うか細い声を彼女が絞り出した。 「フエグチクンガコロサレトル」  何だって。思わず眉間に皺を寄せた。 「ごめん、うまく聞き取れなかった。もう一度言ってもらってもいいかな?」  内心、申し訳ないと懺悔(ざんげ)する。別に聞き取れなかったわけではない。初田はクルから聞き取れた言葉が、本当にそれで合っていたのかを確かめたかったのだ。  もしその言葉が真実であれば、おそらく今の問いかけは彼女の心を(えぐ)る程の威力を持つだろう。だがそれを確認しないことには、初田の疑念は晴れなかった。 「やから笛口くんが! 笛口智也くんが殺されとうねん!」  一度は冷静さを取り戻したクルだったが、再び取り乱して泣き始めた。こうなってしまえばもはや、これ以上の情報は引き出せない。であれば実際に彼女が見た現場を、初田が直接見に行く他なかった。 「クルさん。場所、案内してくれるかな?」  そう言った初田自身も、自分の声が震えていることに気が付いた。どうやら「殺されとう」という言葉を聞いて、クルと同じように動揺しているらしい。  その言葉が何を意味するのか、頭に最悪のイメージが思い浮かんだ。  正直彼女が嘘を吐いていないことぐらい、手に取るようにわかっていた。スクールカウンセラーという立場が、そのことを確信へと導いていたのである。  少し走りに近い早歩きをしながら、初田は思った。こういう時に限って職業病が出るとはな、内心そんな自分に嫌気が差した。  案内された場所は思っていたよりも近場だった。  相談室が存在する校舎の隣には、学校の給食を作る給食室がある。その給食室と校舎の間の路地に、変わり果てた彼の姿があった。 「こ、これは……」  目を開けたまま顔中に皺を寄せて、苦しみをこれでもかというくらいに表現した顔。衣服の隙間から覗かせる顔や手足には、紫色の斑点のようなものが、灰色の肌に混じって無数に現れていた。  しかしこんな醜い姿になったにも関わらず、胸の名札はしっかりと『ふえぐちともや』と書かれている。加えて小学生ながらもガッチリとした体格が、この遺体の身元が笛口智也であるということを知らしめた。 「先生、どうしよう……」両肩に交差して手を置いたクルが、しゃがみ込んで顔を見つめてくる。その目は自分の知る限り、三度目となる涙の準備をしていた。  やはりこの光景は小学生からすれば相当視覚的ダメージが大きいのであろう。ただでさえ初田も、目を瞑りたい光景だと言うのに。  こう言う時、一体どうしたらいいの。足をガクつかせて右手を口元に当てた。それは初田が深く考える時の癖である。子供の時からこの癖は治っていない。  最善の策を模索する。そして今自分ができること、しなければならないことを考える。カウンセラーとして、いいや。一人の社会人として。 「連絡」そして一筋の光が、頭の霧を貫いた。「警察に連絡しなきゃ」 「クルさんここにいて。私、他の先生達を呼んでくるから」そう言ってクルを残し、初田は元来た道を走り出した。  冗談じゃない。こんな非常識な事態に巻き込まれた以上、何かに当たらなければ気が済まなかった。
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