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「まさか……智也が」
それはある日の夜。冷蔵庫に入っていた牛乳を飲もうと、敦がキッチンに向かった時だった。麗奈は受話器を持ったまま息を荒くして、口もパクパクとさせ、体も痙攣するが如く震わしているではないか。
この光景は、今まで抱いていた活気な母のイメージを、見事に打ち砕いた。母さんはこんな表情をするんだ。中学生になってようやく、敦が母の弱さを目の当たりにした瞬間だった。
無論敦は、頭を下げながら電話を切った麗奈に問い掛けた。「どうしたん?」
すると敦の姿を見るや否や、彼女は彼の服の裾を引っ張った。そして目に涙を浮かべて敦に訴えかける。
「智也が学校でいじめをしていた。それも相手には健康状態に異常が出始めている程だ」そう彼女は聞かされたらしい。
いじめーー。その言葉がこれ程までに身近に感じられたのは、この時が初めてだった。小学校や学校、様々な場所で耳にしたいじめと言う言葉。だがどれも敦の心に留まることはなく、耳から耳へと通り抜けていた。
それはおそらく彼の学年が、ある程度纏まりのある者達ばかりだったからもあった。だからこそイジメを行なっていたと言う弟に対し、敦は軽く恐怖心を抱いていた。
ほとんどの人間にあると言われる裏の顔。その普段の生活では見せなかった智也のもう一つの顔は、兄弟の関係に深い溝を作ったのである。
別に智也のことが嫌いになったわけではない。ただ昔から彼との関係は良好なものだった為に、その話を聞かされた時は裏切られたような気分だった。もしかするとそれは、愛する弟への失望に近いものだったのかもしれない。
鞄を置いてキッチンへと向かうべく、敦は廊下を歩き出した。するとどこからともなく、女性の啜り泣く声が聴こえてきた。
それが麗奈のものであることは、すぐに理解できた。やはり過去に聞いていれば、人物を特定するのも容易い。
まだ智也のことを引きずっているのかよ、つい眉間に皺を寄せる敦。責めているつもりはないのだが、もうこれ以上母のあんな姿を見たくないと言う思いは強かった。
父の海斗は家庭に無頓着なので、こう言った役回りはいつも敦がしている。全くよくできた父親である。
しかし声のするリビングのドアを開くと、そこに広がっていた光景に敦は言葉を失った。
部屋中に散乱する、ビリビリに破かれたチラシや雑誌、新聞紙の数々。更にはその奥のソファで、麗奈が体育座りをしているではないか。
「どうしたんこれ!」
麗奈の目が、口を開けたままの敦を見つけた。そして目が合うや否や、すぐさま大人らしからぬ大きな泣き声を上げた。それはもう、思わず耳を塞ぎたくなるような奇声に近い声だった。
「うああああ!」
見るからに不安定な麗奈。そんな彼女を刺激するのは不味いと考えた敦は、とりあえず話を聞いてみることにした。麗奈の側に近寄り、肩をさすりながら何があったのかを訊ねる。
「しっかりしいな母さん。どうしたんよ一体」
「智也が、智也が……」
「智也がどうした?」また何か、彼かやらかしたのだろうか。
「智也が……殺されたの」
瞬間、血の気が引いていくのがわかった。
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