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「震えがくるほどイイ男だよねぇ」
新吾の背後の連子窓を見詰めて、不意にお峰がそう言った。
清住町で瀬戸物屋を営む忠兵衛の二階家は、梯子を上がってすぐが夫婦の暮らす居間になっている。錺師の新吾はここでお女将のお峰に、仕上がった簪を見せていた時だった。
新吾も窓の外を見やると、隣の屋根に一人の大工職人が居た。
男は紺盲縞の腹掛に同色の股引を穿いた美丈夫で、引き締まった口元に釘を咥えて、玄翁を振るっている。
市松だった。
急に見知った顔を目にして、新吾は驚く。
そう言えばここ清住町は、市松の勤め先のある海辺大工町からほど近い場所だった。
「女将さん、まずは俺の簪を見とくれよ」
お峰の気を逸らしたくて、新吾が媚びた声音で咎めると、お峰は大仰に首を竦めた。
「なんだ、焼いてンの?安心しなって、アタシは新吾一筋さ」
お峰は三十過ぎの大年増だが、白く盛り上がった胸元は未だ十分な色気がある。お峰は意味深にクスリと笑うと、手元の平打ち簪を薄日に透かした。
磨き込まれた透かし菊花の簪は、真鍮製だが、銀簪に見紛う上品さと華やかさがある。
お峰は満足そうに頷くと、簪をさして上目遣いで新吾を見た。
「綺麗だぜ」
新吾がすかさず言うと、お峰の首筋が一刷毛したように赤く染まる。
こういう所は未だに可愛いな、と新吾は思う。
昔のように、旦那不在に敢えて呼ばれるのを知りつつ来てしまうのも、そんなお峰が嫌いでは無いからだ。
だがお峰が、膝を摺り寄せしなだれかかると、新吾はその肩をやんわりと押し返した。
「わりぃな女将さん。こういうの、もう辞めたンだ」
お峰は顔を上げると、落胆というより、むしろ興味深そうな眼差しを新吾に向けた。
「驚いた。今回は柄にもなく、随分長いこと一人に絞っているじゃない」
「はは、まぁね……」
新吾は喋りながら、再び外をチラリと見やる。
皐月の蒸し暑い中、市松が涼しい顔して未だ玄翁を振っていた。
「そう、ならいいわ。簪は気に入ったし、今日の所は許してあげる」
そう言いながら、この一年近く、身体の付き合い無しにお峰は簪を頼んでくれる。そんな懐の広さも、新吾にはありがたかった。
フッと笑みを浮かべた新吾を見て、お峰はとたん、恨みがましい顔付きになる。
「あ~あ、イイ男ってのは、その場に居るだけで罪作りだよ。アンタ然り、市松つぁん然り—…ほら見てごらんよ、外」
お峰が指さすので、新吾は連子窓から下を見下ろした。
隣の家の前で五人ほど束になった町娘が、一心に屋根を見上げている。そして市松の姿が垣間見えると、こぞって黄色い声をあげていた。
「だけど当の本人はどこ吹く風よ。ま、そこがまた、女心をくすぐるンだろうけどね」
屋根の上で平然と大工仕事をこなす市松にため息をこぼしながら、お峰が言う。
一方新吾は「へぇ…」と口先だけ驚いて、それからはずっと、下手くそな作り笑いをし続けるだけで精一杯になっていた。
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