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<1>
母様からの電話はいつも急だ。
「どうしても話しておきたい事があるの。貴方の人生に係わる、とても大事な話よ。必ず8時に時計塔の下の噴水前に来て頂戴。必ずよ。もし私が来なかったのなら・・そのままお父様の別宅に向かいなさい」
それだけを告げるとすぐに電話は切れた。
恐らく盗聴を恐れての事だと思う。
今更そんな事が何の意味も持たないと解っていても、それでもやはり身構えてしまうのだろう。
最近は身辺で不審な事柄が何度も続いていた。
父が、ナチスからの再三にわたる執拗な勧誘を撥ねつけてからというもの、世間の風当たりがあからさまに厳しくなった。
真っ先に、父と共同経営する二つの診療所の患者が激減した。
往診も度々断られる様になった。
巷には、自分達に関する根も葉もない噂話が跋扈している。
先日も、父の代から何十年と付き合ってきた患者の一人が診療所を訪れ、心の底から・・・本当に申し訳無さそうに往診を止めて欲しいとお願いをして来た。
幼い頃から心臓を患って来たその女性は、孫がナチス親衛隊に入隊した為「医者を替えてくれ、そうで無ければ逆に我々が目を付けられてしまう」と身内から強く言われたのだと涙ながらに話し、名残惜しそうに何度も振り返りつつ立ち去っていった。
そしてこの数カ月は特に、何者かに診療所を荒らされたり、窓ガラスを割られたりなどと云った悪質な嫌がらせも頻繁に起こっていた。
ところが、それを警察に通報しても全く取り合ってすら貰えない。
警察組織もナチスが掌握している為に、ナチスに仇なしているとされている人間など、彼等には守る義務すらないのだ。
診療所の修繕ですら、大工たちがとばっちりを嫌がって修理をして貰えずにいる。
壁などは今も穴の開いたままの状態だ。
先日はその穴から、丸々肥えた大きなドブネズミが数匹診療所に入り込んで来て、大パニックになった。
なので今は仕方なく、割れたガラス窓や壁などに適当な板や厚紙をはめ込んで凌いでいる状態だ。
白く美しい石壁の外観と、内部全てが整然とし、多くの患者を受け容れていた筈の瀟洒な診療所は、今や見る影もない悲惨な状態となり果ててていた。
しかし、このような惨い扱いを受けるなど・・自分はともかく、幼い頃から身分の高い貴族として生きて来た父などにとっては、それこそ耐え難い屈辱なのではないだろうか。
自分の家、ミュラー家は辺境伯の爵位を頂く由緒正しいザクセンの貴族だ。
古より皇帝に仕え、代々ザクセンの辺境の地をスラブ人らから守りながら、有事の際には軍人・軍医として、平和な時代には腕の良い宮廷医師として代々の皇帝に忠実に仕えて来た。
しかし一介の医師だからとて、決して身分が低いと云う訳では無い。
辺境伯はそもそも、古より守護して来たその広大な土地を我が領地とし、その役職の為諸侯より大きな権限を与えられて来ていた。
身分も高く、称号としては侯爵とほぼ同格、時には公爵にも匹敵する程の強大な権力を保有していたのだ。
その為、各地の称号保有者はいち早く大公、選帝侯などに昇格して一国の主となってしまい、今では辺境伯を拝領する貴族は当家のみになってしまっていた。
(・・まあ、当家の主は元々権力に余り関心の無い者が代々続いたと云う事なのだろう)
末裔である自分も、その辺は妙に納得がいく。
後継者である自分も専ら、医術や薬学、生理学などの研究職や医療活動にしか興味は無い。
貴族の主催する金に飽かしたパーティーなどには碌に顔も出した事は無いし、余程の理由の無い限り、大抵の出事・交際は断って来た。
だから、貴族の知己は自分の患者以外は当然居ないし、地元の名士や政治家など、碌に顔すら覚えていない。
そもそも金や権力など、自分から一番遠い物だと思って今まで生きて来た位だ。
それでも、”変わり者の貴族”と呼ばれる程度で今までなら済まされてきたのだが。
以前なら、身分の高い貴族である筈の我等には、どんな場であれ最大限の敬意が払われた事だろう。
だが、それはもう過去の話だ。
ナチスがそれまでの貴族制度を廃止してしまったのだ。
お陰で今は、自分も当主であった父も、ただ一民間人としての立場しかない。
何の力も持たなくなった自分達から、次々人は離れて行った。
父の城の使用人も、このアウクスブルグの屋敷の使用人達も、ナチスの弾圧を恐れて次々と辞め、逃げ出してしまった。
少し前に、自分の診療所を手伝っていた者達にも皆暇を出した。
これ以上は彼等に迷惑が掛かるとの考えからだった。
それに、元来自身の出生が特殊だった為、貴族という高い身分の割に他人にかしずかれるのが大の苦手だ。
そもそも、大概の事は一人で出来る様にと幼少期から乳母に厳しく育てられた為、むしろ一人の方が何かと気が楽なのだ。
だから、普段の生活にはそれ程不自由はしてはいない。
今は遠い田舎の領地通いからも解放された事で、逆に便利になった位だ。
以前は、余り領地を空ける事が出来ず、所用が出来る度に父と二人、数日をかけて度々とんぼ返りをしていたのだが。
城は今もドイツの東、ザクセンに確かにあるが、父も自分も今の生活の基盤は既にミュンヘンとアウクスブルグにある。
父はアウクスブルグに、自分はミュンヘンにそれぞれ診療所と別邸をそれぞれ持っている。
それもまた、ナチスが貴族制度を廃止した為、わざわざ無理をして生活の基盤を城のある辺鄙な山奥に置く必要も無くなったからだ。
お陰で、些末な事情で領地に縛られる事が無くなった。
そもそも、古より主から拝領して来た領地はドイツ東部、ザクセンの山奥にある。
無論、城の周りには商人が住まい、城砦に囲まれた小さな都市が存在するが、ただでさえこじんまりとした山奥の町が、近年の若者の都市への流出で更に寂れてしまっていた。・・大して見る物も目ぼしい産業も無い山間の旧い街なぞ、何処もこんな物だろう。
幼少期をこの田舎の城で過ごす事の無かった自分にとって、幾度も足を運んだ事の無い山奥の領地に、急に愛着を感じろと云う方がなまじ酷に感じられた位だ。
途方もない時間を掛けてまで、あの山奥の城にいちいち通わなくても良くなった事は、無駄に時間を浪費する事に耐えられなかった自分にとって、幸運としか言い様の無い出来事だったのだ。
其処だけはナチスに感謝するべきだろう。
・・・だからと云って、絶対にしたくはないが。
だが、父は領地の領民に「領主様に会えないのは淋しい」と度々愚痴られていると聞いた事があった。
それだけ皆に慕われて来たと云う事だろう。
父の人柄、あの温厚さと誠実さなら頷ける話だ。
だが本来、医者が患者を診るのなら、街の方が良いに決まっているのだ。
それまでは逆に、はるばる街から重い病気をおして、山奥の城まで噂を聞き付けた患
者が命懸けで通って来ていた。
彼等は口々に、
「こんな腕の良い医者が田舎の城に引っ込んで居るのは勿体無い」
「折角の名医なのに来るのが大変過ぎる、街に診療所を作ってくれればいいのに」
「こんな辺鄙な所にいちいち通っていたら、治る物も治らない、病気が増える」
と零しながらも、皆病気をそれなりに治癒させ、すこぶる健康になり去って行った。
以前は爵位と領地、それに付帯する責務が存在した。
だから、城や領地をおいそれとは離れる事が出来なかった。
だが、晴れて一般人となった今は、そのしがらみも無い。
今は、父も自分も大きく古い田舎の城を離れ、それぞれこじんまりとした街中の別宅と診療所で患者を存分に診ながら暮らす事が出来ているのだった。
だが、この数か月で状況が一変した。
頻繁に不審な男達が、家や診療所の周囲をうろつくようになっていたのだ。
現に今も、黒いトレンチコートを羽織った二人組が10メートルほど離れて自分を監視しながら尾行している。
それが何なのか、知っている。
どういう事なのかも分かっている。
逃げ出したいが、そんな事をした所でどうにもなるものではない。
父と母からも「どうにもならない、下手に手出しをすれば掴まってしまう。だから決して相手にするな」と云われた。
口惜しいが・・・その通りなのだ。
諦めるしかなかった・・今は。
小高い丘の上まで、均一な大きさにカットされた美しい石畳が、なだらかな坂道のずっと向こうまで続いている。
沢山の商店が軒を連ねる繁華街からさほど離れてはいないのに、辺りはひっそりと静まり返っていた。
時折、クリスマスパーティーの歓声が聞こえてくる。
子供達の楽しそうな笑い声が、今日はどうにも切なく感じてしまう。
雪はその石畳に、屋根に静かにうっすらと白いベールを掛け続けている。
今も、少女にゆっくりと覆い被さる様に・・雪は降り続けていた。
が、彼女には雪をじっと眺める様な余裕は無かった。
彼女の数十メートル後ろには・・黒いトレンチコートに黒いハット、全身黒づくめの男が二人、時折物陰に隠れつつ後ろから少女を付けて来ていた。
まるで漆黒の闇という名の魔物が、隙あらば自分に矢を射かけようと、手ぐすねを引きながら追いかけて来ているかの様だ。
少女はまるで急かされるように、足早に坂道を駆け上がって行く。
針金のような、少女の白いほっそりとした足をを包み込むブーツのかかとが、コツコツと硬い音を静寂の中に放ちながら、足跡を刻む。
この街には、父の別宅と診療所がある。
この、父の別宅まで続く道をもう何度往来しただろうか。
少し感傷に浸りながらも急ぎ歩いていると、その静寂を突き破るかのように、突然ドオンと大きな爆発音が夜空に轟いた。
その方角から、それが自分の向かっていた場所だと解る。
ざわざわと、激しい胸騒ぎがした。
大きな火柱とどす黒い黒煙が天高く吹き上がり、曇った夜空に吸い込まれていく。
少女は小さく舌打ちをすると、火柱の上がる建物の方へ小走りに駆け出した。
数分後、その場に辿り着いた時には既に、大きな爆音に慌てた付近の住人たちが夜具のまま飛び出して来て、幾重にも人垣を作っていた。
「すみません、通して下さい。お願いします・・通して!!」
その野次馬を必死にかき分け、黒煙吹き上がる家のドアの前に辿り着くと、少女はためらう事なくドアノブを掴もうと手を差し出した。
しかし、咄嗟にお婆さんが少女の肩を強く掴んで叫んだ。
「駄目だよ、こんなに激しく燃えているのに!入ったら焼け死んでしまうよ!」
お婆さんの必死の形相に、少女ははたと我に返った様だ。
そのお婆さんを優しく見つめ、その手をそっと握り、腕から手を離すと少女は優しく微笑みかけた。
「ありがとうございます、優しいお婆さん。でも、私はどうしても行かなければなら ないのです。・・後ろに下がって居て下さい。ドアを開けます」
優しく微笑みながらそう告げると、頭に被っていたスカーフを外し、掌にぐるぐると巻き付け、ドアに駆け寄り一気にドアノブを引き、扉を開けた。
途端、凄まじい熱風とどす黒い黒煙、パチパチと火花を散らす火の粉が少女を包みこんだ。
「きゃあああ!」
「熱い、熱い!」
後ろにいた人々から、熱風の余りの熱さに悲鳴が上がった。
少女が必死に手で顔を覆おうとすると、手に巻き付けていたスカーフが更なる爆風と共に飛び去って行った。
「・・・くっ・・」
あおられて、2・3歩よろけたが、すぐ身体を起こしてポケットから出したハンカチで口元を押さえると、躊躇う事無く一気に黒煙の中に飛び込んで行った。
背後から、人々のざわめき、怒号が飛び交っている。
「大変だ、女の子が入って行ってしまった・・・」
「だれかバケツを持ってこい!」
「中に人が!憲兵を呼んで来るんだ!」
「誰か火を、火を消してちょうだい!このままじゃ隣の私の家が燃えてしまうわ!」
更に見物客が集まり、いよいよ付近が騒がしくなって来た。
しかしその外の喧騒も、少女には聞こえる筈は無かった。
彼女の耳に聞こえてくるのは、館の奥から聞こえる火炎の轟轟とうねる激しい音と鈍い地響き。
時折、館の柱がギイギイと軋む音も聞こえて来る。
耳元で、自分の髪が焼けるチリチリと云う音がずっと聞こえていた。
少女が、煙と熱風にむせながら火の粉の舞う階段を駆け上がると、上の階からパン!
と一発の銃声が聞こえた。
言い知れぬ不安がよぎる。
「・・・・・・ッ」
体が震えた。
でも足は止めなかった。
止められなかった。
何故なら・・・・
「・・父様!!」
父を呼びながら書斎のある二階へ駆け込んだ。
火は二階から出たのであろう。
床の絨毯や壁にも延焼しており、余りの熱さに目が開けられない。
部屋の奥で机にもたれる様に立った紳士のの足元には、油が入っていたと思しき缶が幾つも転がっていた。
恐らく・・・それを部屋中に撒き散らして火を付けたのだ。
壁一面に造り付けられた書架と蔵書からも、激しい火煙か上がり、灼熱の地獄と化した部屋の真ん中に、その父と思しき紳士と女が立っていた。
男の方は金髪碧眼、丸眼鏡に無精髭を生やした、一見気難しそうな初老の紳士。
顔立ちはその見た目と相反するように、恐ろしく整っている。
かなり痩せてはいるが整った顔に白い肌、明るく癖の強い金髪。
眉はやや太くくっきりと、少したれ目の大きめの目に、コバルトブルーの瞳。
鼻は大きくも低くも無く、唇は厚いが大きすぎず綺麗に整っている。
その整った容姿と身なり、さりげなく身に着けた仕立ての良い衣服や生地の素材、小物などからも男性の高い身分が見て取れる。
女の方は、神話や壁画からそのまま抜出したかのような、神々しい程の美しさを持った・・深紅のコートを纏った、長い銀の髪にトルマリンの大きな瞳、白絹の肌の美女。
彼女が少女の母親だというのなら、頷ける程の美貌だ。
「アルフレヒド!こっちに来るんじゃない!」
父と呼ばれたその男が、叫んだ。
しかし少女は、首を強く横に振った。
「嫌です!・・母様!何で父様に銃なんて・・ゲホッ・・お止め下さい!」
少女に呼ばれ、ゆっくりと振り向いたその女は・・はらはらと涙を流していた。
「・・早く行きなさい、カタリナ。・・・行くんだ、アルフレヒドを頼む」
父が母に促す。
だが、女は激しく首を横に振った。
彼女の頬から呼び散った幾粒もの涙が、頬を伝い落ちた瞬間に水蒸気になって、一瞬で消え去ってしまった。
「嫌よ、嫌・・カール、貴方を置いて行くなんて・・!やっぱり出来ない、嫌!・・愛してるの、愛しているの貴方・・・」
父は涙を流し、首を横に振る妻の腕を掴み、引き寄せた。
「愛している・・君を純粋に、心から。・・君への想いは、永遠だ」
父は母にそう告げると、頬を両手で優しく包みながら口づけをした。
その僅かな抱擁の間にも炎は勢いを増し、徐々に三人に近づいて来る。
少女の髪がチリチリと音を立て始めた。
喉の奥が酷く熱い。
此処にこれ以上留まる事は、死を意味していた。
少しの抱擁の後、父は母をゆっくりと離すと優しく微笑んだ。
「・・もう行くんだ、これ以上は君も危ない。私達だから、どうにかこの熱に皮膚や体組織が耐えられているだけだ。・・・・いいね、アルフレヒドを頼む」
母は俯いたまま黙って頷いた。
そして銃を素早くコートの中のホルダーににしまい込み、涙を拭うと少女の腕を掴んだ。
母は低い声で
「行くわよ」
そう一言呟くと素早く部屋を飛び出した。
先程少女が登って来た階段の逆の方向、廊下の奥の小窓まで少女の腕を掴んで走り、
家の裏手の窓ガラスをハイヒールの踵で蹴破ると、素早く窓に残ったガラスをよけつつ窓の外に躍り出た。
そのまま彼女は手慣れた様子でするすると雨どいを伝って、家の外に降り立った。
周囲の野次馬が、急に降り立った紅いトレンチコートの美女に驚き、後ずさった。
そんな野次馬を意に介さずに、母は叫ぶ。
「表は見張りがいる。貴方も早く来なさい!」
放心状態だった少女ははっと我に返り、急いで窓から母に倣って階下に降り立った。
着地に失敗し、雪の積もる道に尻から落ちてしまい、それでも急いで立ち上がろうと
した娘に、母が素早く指示を出す。
「あの奥に停めてある車に早く乗りなさい!急いで!」
しかし少女は後ろを振り返り、
「でも、父様が未だ・・」
言いかけた瞬間、頬を平手で思い切り叩かれて、薄く雪の積もった石畳の上に吹き飛び、再び倒れ込んだ。
母は哀し気な、それでいて強い口調で吐き捨てる様に、言った。
「・・ごめんなさい、説明している暇はないの」
少女は頬を押さえながら、よろよろと立ち上がった。
その唇からは、紅い血が一筋二筋と滴り落ちた。
その瞳は未だ迷ってはいたが、もう後ろを振り返る事は無かった。
更に火の手が激しくなり、彼女達のいる裏手にも次々と人々が集まりだした。
彼女達が脱出に使った裏手の小窓からも既に、激しく燃え盛る火柱が上がり始めている。
と、人混みの中から複数の男の怒鳴り声がして来た。
「どけ、どくんだ!」
「我々はゲシュタポだ、その二人の女に用が有る。さっさと道を開けろ!」
火事に群がる人々を掻き分ける様に、先程まで少女を付けて来ていた黒服達と思しき男達が突如、なだれ込んで来た。
「居たぞ、こっちだ!」
母の顔色が変わった。
「早く乗って!」
二人は素早く車に乗り込んだ。
運転席に乗り込んだ母親はエンジンキーを差し込み、点火するとアクセルを思い切り踏み込んだ。
瞬間、エンジン全開で車は坂道を急発進した。
「くそ・・待て!」
黒服も、ただ二人を行かせる事は無かった。
咄嗟に車の前に躍り出て、車を停めようと両手を広げて立ちはだかった。
しかし回り込もうとし、前に立ち塞がったその黒服一人をそのまま女は跳ね飛ばし、車は猛スピードで走り去った。
少女が後ろを振り返ると、車の後部の窓から、跳ね飛ばされて道路に倒れ込んだ黒服を野次馬が介抱するのが見えた。
だが、黒服達はよもや逃げられる事は想定していなかったのだろう。
もう一人の黒服が、大慌てで車に向けて銃を撃ち込みながら必死に追いかけて来る。
男は数発撃って追い付かない事を悟ると、更に10mほど向こうの一団に合図をし、
駆け付けた車三台と合流し、更に二人の乗った車を追いかけ始めた。
しかし時既に遅く、二人の乗ったクーペ激しいは轟音と共にその場から消え失せていた。
少女の母は慣れたハンドルさばきで暫く車を走らせると、予め調べておいたらしい、人目につかなそうな路地裏に車を止め、ポケットから二枚の切符とハンカチを取り出し、少女にそっと差し出した。
「あなたの為に手配したものよ、受け取りなさい。このまま駅まではどうにか送るつ もりよ。・・・さっきは殴ってごめんなさい。あの時あそこで立ち止まる訳にはいか なかった」
「・・・わかっています、有難う母様」
苦笑しながら、受け取ったハンカチで先程まで少しだけ赤く腫れていた口元を拭った。
ところが・・不思議な事に、腫れは既に引いているようにも見える。
それでも彼女は母の厚意を無駄にせず、ハンカチを受け取り、頬を拭ったのだった。
その後少女は、先程頬にあてがった部分をじっと見つめていた。
・・だが、何も付いてはいない。
「・・・汚してしまいました」
「気にしなくていいわ。それにしても・・・速いのね、相変わらず」
「・・・・・ええ」
二人とも、それが”何か”を話題の先には載せなかった。
切符は、イタリアの港から中華民国の上海、そして満州国の大連から東の果ての国、大日本帝国の神戸に渡る定期船のものだった。
「貴方はユダヤ人の移民と一緒に日本に渡るのよ。上海から大連までは船も鉄道もあるわ、現地でどうにかしなさい。後ろにある鞄の中に、着替えと当座の分のお金も用意しておいたわ。・・貴方は女装の方が逃げ易いだろうと思って、服は女物にしておいたから」
”女物”、と云う事は彼女は男性なのだろうか?
どこからどう見ても、その華奢で美しい容姿は少女にしか見えない。
だが・・”アルフレヒド”という名前は、どう考えても男の名前である。
母は彼をじっと見つめると、大きな溜息をついた。
「・・この先貴方は行く先々でずっと”ヘヴンズゲイト”という名前で・・世界中のスパイや研究機関から付け狙われる事になるわ。覚えているかしら、あの十一年前の出来事を・・」
忘れる筈は無い・・何故なら・・・
「・・覚えています。と云う事は・・”ヘヴンズゲイト”とは・・私は・・・そして、母様も・・まさか、父様も・・!」
彼は目を見開き、母をじっと見つめた。
「・・カールは、貴方のお父様は、その研究資料をこの世から消し去る為にあの別邸ごと火を放ちました。恐らく・・生きてお父様に出逢う事はもう無いでしょう。・・今迄何も貴方に伝えずにいて御免なさい、でもこれは・・貴方のお祖父様とお父様と
の約束なの・・・許してアルフレヒド・・・・」
母は目頭を押さえ、ハンドルに顔をうずめた。
取り乱した事など決して無い、気丈な母の肩が小刻みに震えている。
・・恐らく泣いているのだろう。
「そんな・・・・」
アルフレヒドは絶句した。
(あれが・・あんなのが、父様との別離だなんて!・・そして、私は・・・私達は・・・・!)
アルフレヒドは、無言でじっと切符を見つめながら父の最期の瞬間を思い出していた。
「父様!」
愛する父を置いて自分だけ逃げることができず、後ろ髪を引かれる思いで振り返ると・・父が火の粉の中で、哀しそうな・・そして何とも辛そうな、やりきれないと云った表情でアルフレヒドを見つめて叫んだ。
「早く行くんだ、お前まで燃えてしまう!」
「・・でも、父様・・・・」
アルフレヒドの足は未だ躊躇っていた。
既に父の髪と服には炎が取り付き、燃え始めている。
それでもなお、気丈に父は笑顔で息子を送り出そうと、精一杯の笑顔で微笑んでいた。
「こんなことになってすまない。生きろ!お前達だけでも・・。・・永遠にお前達を
愛しているよ、カタリナ、アルフレヒド・・すまない・・・」
その言葉を最後まで聞き終わる前に、母が強い力でアルフレヒドを引っ張り、部屋の外へ連れ出した。
耳を凝らして聞いた最期の言葉は、崩れ落ちた屋根と噴き出した炎にかき消されていった。
父が、涙を流していた気がした。
何故だろう、その時の自分にはそう思えたのだ。
迷いと追憶を断ち切るように、後方からの銃弾がリヤガラスを突き破り、そのままフロントガラスを突き抜けて行った。
激しい破裂音と共に、前後のガラスが粉砕されて弾け飛び、シート後部から凶器となって襲い掛かって来た。
「・・うわあっ!」
アルフレヒドは反射的に身を伏せながら絶叫した。
二人の頬に幾筋も、破片によって傷付けられた傷が出来ていた。
頬を血が幾筋も伝った。
母は舌打ちすると素早く車を発進させた。
その顔から、既に悲しみは消え去っていた。
そして・・傷跡も綺麗に消えていた。
「見つかるのが早い。追手は何台いる?」
弾と追手を躱す為に速度を上げ蛇行し、激しく右に左に揺れる車内から何とかアルフレヒドが後ろを覗くと、狙い澄ました様に銃弾が何発も二人のシートの間をすり抜けて
いった。
直後、リヤガラスの破裂音と破片が、追い打ちを掛けて背後から何度も襲って来る。
二人の肌は何度も傷つき、そして幾らも経たぬ内に、何度も傷は消え去って行った。
・・・まるで、手の込んだ手品の様に。
そんな中、先程の切符とハンカチをコートのポケットにねじ込み、アルフレヒドは必
死に母からの要求に応えようと、車外に視線を向けた。
だが。
「母様、追手は・・二台・・多分三台・・・」
その間も、銃撃は執拗に続いていた。
そのうちの一発がアルフレヒドの金の髪を切り裂き、車の中を突き抜けて行った。
「うっ・・・わぁぁっ!」
大口径の銃弾のもたらす風圧と、蛇行する車の所為で、アルフレヒドの身体が運転席
と助手席の間に挟まる形で激しくのけ反った。
未だ自動車産業は黎明期、当然シートベルトなどの安全装置など付いてはいない。
それがフロントガラスの破損によって、激しい強風にさらされている時に体勢を崩してしまったのなら、車外に放り出されても文句は言えない。
それでもアルフレヒドは、シートにしがみつきながら身体を飛ばされぬ様に必死に耐えていた。
車は前と横を挟まれ、更に後方を塞がれてどうやっても逃げ場がない。
横付けした車は、壁にぶつけようとじりじり車間を詰めて来ていた。
「くっ・・・このままでは!」
母がそう叫んだ瞬間。
横に並んだ黒塗りの車から乗り出し、しつこく銃撃を加えて来た黒服の銃弾が、遂にタイヤに当たってしまった。
直後パン!と音がしてタイヤが破裂したのと同時に、二人の車は激しくスピンして、道路脇に停車してあった車に激しく激突し、街灯に乗り掛かってようやく停車した。
「うわっ・・なっ・・・ぎゃあああ!!」
たまたま傍に居たホームレスがその衝突音で目を覚ますと、眼前の光景に絶叫しながら逃げて行ってしまった。
それもその筈、大破した車がホームレスの手前5㎝ほどで停車していたのだ。
恐らくは・・急に訪れた命の危機と、ぎりぎりで命拾いした幸運が、声に出した時に絶叫にしかならなかったのだろう。
「なんだなんだ、何が起こったんだ?!」
付近の酒場で酒を飲んでいた酔いどれが数人、大きな物音に慌てて飛び出して来た。
と、後方に控えた黒塗りのセダンから一人の男がスッと降り立ち、銃を夜空に向けて
一発放った。
その男はナチス親衛隊の制服を着ていた。
茶色の髪の、少し小柄な中年のその男はうすら笑いを浮かべながら周囲を見渡した。
そして、騒ぎにつられて出て来た者達へ威圧的に言い放った。
「家に戻れ!・・死にたくないのならな。死にたい馬鹿が居るのなら、今ここで引導 を渡してやる。今すぐ出て来て私の足元に跪くがいい!」
更に続けざまに二発、空に打ち放った。
「ひいぃぃ!!!」
「助けてくれ!」
「ゆっ・・・許して下さい!ひいいっ・・・」
酔いどれ達も、つられて出てきた人々も一目散に元来た場所へ逃げ帰ってしまった。
ナチスが国の全てを掌握していたこの時代、彼等に逆らう事は死を意味していた。
その騒がしい周囲の騒音で、激突の衝撃で車内で失神していたアルフレヒドが目を覚ました。
彼は車の中でのけ反った身体を立て直そうとした瞬間、車が激しくスピンした為に後部座席の床に頭をしたたかにぶつけてしまい、そのまま気を失っていたのだった。
「う・・・・っ」
鈍痛のするこめかみに手を当てて、ゆっくりと身体を起こすと指の間から鮮血がつうっと二筋、滴り落ちた。
側頭部の頭皮がパックリ開いてしまっているのだろう。
なかなか血が止まらず、ぼたぼたと滴り落ちて来る。
他にも所々ぶつけたのだろう、あちこちが痛み身体が重い。
アルフレヒドは衝突時の衝撃で、何時の間にか後部座席に寝転がっていた。
しかし、あれだけの事故の衝撃で、寧ろ骨折や臓器の損傷が無いだけでも凄い事だ。
恐らくは、タイヤを撃ち抜かれてもハンドルを手放す事無くコントロールし続けてく
れた、母の見事なドライビングテクニックの賜物だろう。
(母様は?!)
母が心配で痛みをおして振り向くと、母は既にドアを開けて銃を構えて屈んでいた。
周囲を見回していた母は目覚めた息子に気付き、
「荷物を持って、こっちに来なさい」
小声でそう告げると、ボストンバッグを手渡しながら車のドア越しにそっと付近を見渡し、敵の出方を冷静に見計らっていた。
いつの間にか二人は、音も無く近づいて来ていた数人の黒服達にじわじわと包囲されつつあったのだ。
何とか母の元へ移動しようとアルフレヒドがシートから腰を上げた瞬間、母から驚く程強い力で引っ張られて、車外に一緒に躍り出てしまった。
「うわっ!・・・えっ、母様・・・?」
しかもそのまま身体を羽交い絞めにされ、こめかみに硬いものを押し当てられた。
直後にガチャリと撃鉄を上げる音が耳元でして、それが銃だと理解した。
「銃を下ろして!さもなければ、この子の命は無いわ!」
黒服はちらりと後方の親衛隊の男に目配せした。
親衛隊の男は大きな溜息を一つついただけで、何の指示も出しはしない。
銃は未だ二人を捉えたまま、微動だにしない。
と、親衛隊の男が黒服達の後方から2人をまじまじと見つめ、蔑むように薄ら笑った。
「ククッ・・、我が子を盾にするとは恐れ入る。・・とんだ母親だな」
「動いたら撃つ。・・・この子だけでも助けて」
母の脅しに男はさらに嗤う。
「銃を我が子に突き付けておいて何を云う。・・しかし残念だな、私はその人形には
興味は無い。何なら今すぐにでも心中させてやるぞ?”連れて来い”とは言われているが、その子の生死は問われていないんでね」
その言葉に今度は母の方が笑う。
「フウン・・貴方はそうかもしれないわね。でも、貴方の仕えるあの方達はこの子を生きたまま欲しがっている筈よ。折角親衛隊に恩を売る事が出来るこのチャンスに、彼等からご不興を被りたく無いのなら、このまま生かして届ける方が貴方の身の為では無くて?」
その一言に、親衛隊の男の顔色があからさまに曇った。
恐らくは図星だったのだろう。
親衛隊の男は深く溜息をつきながら、いかにも忌々しいと言った表情で言葉を吐き捨てた。
「まったく・・、悪趣味な話だ!」
男が額に手を当てた、その時。
その瞬間を彼女は逃さなかった。
息子の耳元で、「私を信じて」と小さく囁くと、アルフレヒドを壁に思い切り突き飛
ばし、その背後から銃で至近の黒服の急所を正確に射抜いた。
直後血飛沫が上がり、眼前の三人がうめき声を発しながらのけ反った。
その間隙を突いて、更に続けざまに両脇の黒服の急所を正確な銃さばきで次々と撃ち
倒して行く。
そのまま母親は逃げ遅れた野次馬を盾にしながら、薬莢を捨て、次弾を装填すると扉が半開きになった路地裏の酒場へ素早く逃げ込んで消えた。
そのあまりの速さに、親衛隊の男が血相を変えて黒服達に指示を出す。
「追え!少し位怪我させても構わん、絶対に逃がすな!!!」
「はっ・・はい!」
残った数人の黒服達が慌てて母を追った。
男は舌打ちすると、壁にもたれて蹲るアルフレヒドにがつがつと靴音を鳴らしながら近付き、ポニーテールの結び目を掴み上げると、思い切り地面に引きずり倒した。
「うぁ・・っ!」
髪の毛を引っ張り上げられ、更に引き倒されてアルフレヒドの顔が苦痛に歪む。
先程から頭を何度も打ち付けた為に、意識が朦朧としていて立ち上がる事すらままならない。
「・・この忌々しい人形め!こんな薄気味悪い化け物のどこが良いと云うのだ!!」
親衛隊の男が再びアルフレヒドの髪を掴み上げ、さながら汚物でも見るような目で罵声を吐き捨て、脇腹をしたたかに蹴り上げた。
アルフレヒドには、その暴言と暴力に抗う程の力が残っていなかった。
「・・うっ・・あ・・・」
ピンクの小さな唇は、小さく呻き声を紡ぐと同時にまた苦痛に歪んだ。
そこへ先程母親を追って行った黒服の一人が、息を切らせながら戻って来た。
「少尉、申し訳ありません。・・逃げられました」
「何だと・・・この無能が!」
男が怒りにわなわなと震える手で、ぐったりと横たわったアルフレヒドを三度リボンごと髪を思い切り引きずり上げた。
「ああ・・・っ!放して・・あ・・っ」
アルフレヒドが痛みにたまらず、うめき声を発しながら手を振り解こうともがいた。
少尉と呼ばれたその親衛隊の男は、アルフレヒドを血走った眼でぎろりと睨みつけながら怒鳴り付けた。
「くっ・・、この始末は貴様に払ってもらうぞ!」
怒りと共にそう吐き捨てると、アルフレヒドを力一杯石畳に叩き付けた。
直後、鈍い音と共に石畳に転がったアルフレヒドはうつ伏せのまま動かなくなった。
頭部から、ゆっくりと流れ出た鮮血が小さな血溜まりを石畳の上に作っていく。
彼の倒れた、頭部の周囲の雪がその血でゆっくりと赤く染まって行った。
男は尚も、ピクリとも動かないアルフレヒドに、軍靴の足先で激しく追打ちの足蹴りを何度も喰らわせた後、乱れた呼吸を整えて黒服に指示を出した。
「クソ、クソッ!・・フン・・薄気味悪い化け物め。こいつだけでも連れて行く。誰か車に積んでおけ、こいつの荷物もな。・・おい、貴様。あの飲んだくれ達への口止めを忘れるなよ」
「了解しました」
黒服達は素早く散り、てきぱきと言い付けられた用事をこなすと皆、素早く車に飛び乗った。
男が車に乗り込むと、三台の車は風の様に速くその場を離れた。
彼等の離れた後には、大破した車が二台、倒れ掛かった街灯が一つ、薄く積もった雪の合間に紅い血溜まりがポツンと石畳に出来ていた。
その後暫くは、ナチスへの恐怖からだろうか・・人影は翌朝まで見当たらなかった。
その一部始終を更に路地裏の、人目に付かない酒樽の陰から覗いていた男が二人。
一人は身なりの良い、品のある衣服を身に纏っている。
やや古いデザインなのだが、それがやたらに齢若いその青年には似合っていた。
まるでその青年の為だけに選び抜かれた様な、遠くからでも解る程の高級な生地と素材、高貴な者にしか似合わぬ、厳めしくも優美なデザイン。
重ねて、身に付けた貴金属や宝飾品などの小物類が、この青年が身分の高い者だと否応なしに教えてくれる。
もう一人はナチス親衛隊の制服を纏い、その上に将校用のオーバーコートを着ていた。
親衛隊員の男は、オールバックにした金髪に暗い藍の瞳、鋭い眼光、通った鼻筋。
その整った顔立ちと容姿は、親衛隊員として上層部の眼鏡に叶った者だと見ただけで
理解できる。
二人共表情こそにこにこと笑っているが、目が鋭くアルフレヒド達を射抜いていた。
「おやおや、あれはいけませんね・・・」
親衛隊員が指をくい、上げると何処からともなくスーツの男が数人現れた。
「さっき逃げた赤いコートの婦人を追え。・・彼女はあれでもとても高い身分を有する貴族です。丁重に扱う様に」
そして少し思案した後、
「先程の火災、見物客の中にアメリカ人が数人混ざっていた。・・彼等は目立たぬように始末しておく様に。この国には必要のない余所者です」
「了解致しました」
スーツの男達が数人、スッと闇に消えて行った。
「・・相変わらず目が良いな、君は。アメリカ人には流石に気付かなかったな」
「・・・恐れながら殿下、私はそれが仕事なものですから。それに彼等には西欧人の
様な品格がありません。例え群衆の中に紛れ込んだとしても、直ぐに見分けは付きます」
「・・・フウン・・」
青年はニヤリと笑うと、視線を血溜まりに移した。
「・・君の部下はなかなか野蛮な男だな。あの彼の出血・・かなりの重傷だと思うが
。あれでは彼が可哀想だ。後で彼を医者に見せる事を勧めるよ。全く・・あんなに彼の血を無駄に流させるなぞ・・本当に勿体無い。おまけにあの美しい顔を敢えて傷つけようとするとはね・・あの男・・無粋なだけでは無く、無能なのではないのかね?あれで彼の望む東の辺境まで無事到達できるのか、私は少々不安だな・・」
ニヤニヤと笑いながら小首を傾げるその青年は、まだ20代前半・・若しくは10代後半くらいだろうか。
少しだけ赤茶けた、ピンクゴールドの短く刈り込んだ、癖のある髪と白く透ける肌。
高い鼻と整った少し薄い眉、薄いピンクの唇が妖しく艶めいている。
少しだけカールしたふさふさの長い睫毛が、明るく深いエメラルドの瞳を美しく縁取る。
恐ろしく顔立ちの整った齢若い白人の青年。
容姿に”完璧”なぞ存在する筈も無いのだろうが・・もし存在すると云うのなら、正に彼の事を言うのだろう。
そう感じてしまう程の、余りに美しい青年なのだ。
その男が、親衛隊の男をちらりと見た。
それに呼応するかのように、親衛隊員が口を開く。
「・・殿下、あれは国防軍の将校で、囮です。あの男の周囲に優秀な私の部下をちゃ んと付けてあります、ご安心を。あの男がどんな失態を犯したとしても、私の部下が素早く処理致します」
親衛隊の男は、視線を外す事無くそう説明した。
「フウン・・・・」
青年は尚もにやにやと笑いながら、親衛隊員を見つめる。
「・・・・・・・」
だが、親衛隊員の男はそれを意に介しもしないばかりか、視線を外す事すらない。
青年は微笑むと、指をパチンと鳴らした。
その音に呼応するかのように、何処からともなく燕尾服を纏った男が進み出て来て一
礼をすると、また何処かへ消えて行った。
「勿論、そうであると信じているよ。・・私達もそろそろ行くとしよう」
路地の奥に、素早く車が横付けされた。
まるで主を待ち構えていたかのように。
青年は車に飛び乗ると、一足先にその場を離れた。
その場に残された親衛隊の男も、手に持った制帽を頭に被ると、ニヤリと笑いながら呟いた。
「近いうち、またお逢い致しましょう・・再会を楽しみにしておりますよ、アルフレヒド殿下」
いつの間にか、親衛隊の男の姿は闇に溶け込む様に消えた。
そしてその様子をもう少し遠い部屋の窓からじっと覗く人影があった。
「・・いいのか?今ならアルフレヒドを奪い返せるが」
「・・未だよ、あの子の敵の出方をすべて見極めてからでないと。・・・敵はナチスとオイレンベルグだけではないわ。アーダルベルト、JJ、デュケノア・・・あの男の更に奥にいる、本当の敵を燻り出すまでは、未だ・・・」
苦々しい顔で髭面の男に答えたのは・・・先程まであの場所に居た筈の、アルフレヒドの母親カタリナだった。
「・・ならば、俺達もあの子を守る為に行動するとしようか」
カタリナに話しかけるその男も、無精髭とぼさぼさの髪で誤魔化されているが、少し面長の金髪碧眼、高く通った鼻筋、普通に生活していたらまずお目にかからない、それこそ完璧な、とても美しい容姿をしていた。
そして、この男は背が高く、とても引き締まった体をしている。
何か鍛錬でもしているのか、鍛えられたその肉体は服を着こんでいても解る程だ。
髭面の男はニヤリと笑うと、荷物を持って先に部屋を出た。
アルフレヒドの母は、窓ガラスに拳を当てて身体をふるふると震わせながら、ずっと息子の連れ去られた方角を見つめていた。
雪が全てを包み隠すかのように、しんしんと静かに降り積もっていった。
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