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1941年(昭和18年)3月 満州国新京(長春)の外れ
初春の肌を切り裂くような冷たい風が吹き荒れると、まだ碌に舗装もされていない路地の砂が巻き上げられて、視界が一気に茶色に変わる。
今はただでさえ早朝の、未だ日が登って間も無い時刻なのだ。
新京は日本で云えば札幌と緯度が同じ位、未だ三月は雪も降るし積もりもする。
それこそ外套でも羽織らなければ、身を切る様なこの厳しい寒さはとても凌げない。
満州(中国東北部)は、日本が日露戦争終結の際に締結されたポーツマス条約で、大日本帝国の租借地となっていた。
その後、柳条湖事件、満州事変を経て1932年、半植民地だった満州は清朝最後の皇帝溥儀を祭り上げ、中華民国からの独立を宣言した。
新京(長春)では、その満州国の首都として今、大日本帝国主導で急遽都市が建造・整備されている。
乾いた土がむき出しの、未だ開発の手の行き届かない郊外では、強い風が吹くと砂埃で視界が覆われて、数歩前の障害物すら見えなくなってしまう。
そんな数分続いた激しい突風と砂埃の中から、軍装の男達の一団が突如現れた。
15人程居るだろうか。
隊長と思しき男性は、馬に跨って後方で指揮を取っている。
馬上の指揮官の纏う軍衣は昭5式、襟に憲兵徽章、肩の階級章は”大尉”を示している。
隣には黒い布を纏った軍人が付いている。
階級章と兵科章は布に隠れて確認できない。
しかし軍衣が昭5式だと云う事だけは辛うじて解る。
その軍人、背は日本人にしてはとても高い。
恐らく180㎝以上は有るだろう。
黒い布を纏った軍人とその一団は、その身なりから彼等が日本兵だと解る。
満州に駐留している日本兵と云う事は、その兵達の所属は関東軍という事になる。
元々日満議定書により、満州の国防は日本軍と満州国の共同で行う事となっていたのだが、急ごしらえの国家である満州では、同じく軍も急ごしらえだった。
その軍は当初、当時の軍閥の率いていた民兵に毛の生えた程度の、かなり練度の低い軍に日本軍から顧問を招いただけの物で、その軍を満州国軍としていた。
しかし、彼等を”軍隊”と呼称するには、流石に不足している物が多過ぎた。
であるから、実際の国防は日本軍から派遣された関東軍が担っていたのだ。
そして、その新京郊外に姿を現した関東軍の兵士達の腕章には”憲兵”の文字、彼等は全員が武装しており、銃剣のついた三八式歩兵銃を携行していた。
憲兵の一団はその後、村外れの粗末な一軒家の前でその歩みを止めた。
村外れの・・とは云うが、実際隣家まで数十メートルは離れた一軒家だ。
その周囲、塀に囲まれた小さな平屋の建つ一角が、四方を憲兵にぐるりと囲まれて異様な空気を醸し出している。
彼等が此処に踏み込もうとしているのにはやはり訳がある。
一昨日捕らえられた馬賊の中の一人が、ついにこのアジトの存在を吐いたのだ。
それがこの、新京郊外の一軒の古びた民家だった。
彼等は皆一様に、この村外れの塀に囲まれた小さな民家に向けて銃剣を構えている。
囲い込み、逃げられぬ様にした後、武装した憲兵によって一気に摘発しようと云う作戦なのだろうか。
門の中からもピリピリとした殺気が、沈黙を伴い、周囲にじわりと漂って来ている。
恐らく中の連中は、このアジトが日本軍の憲兵に囲まれている事が分かっているのだろう。
壁のレンガの僅かな隙間から、外の様子を窺う為に覗いていた目を、黒い布の軍人は見逃さなかった。
それにしても・・民家の周囲を彼等憲兵が囲んでから、既に10分程は経過している。
ところが一向に突入の気配が無い。
「あ~・・寒いなあ・・」
「・・・おい、一体いつ突入すんだよ?」
「知らねえよ、隊長に直接聞いてくれ」
「全く・・・ウチの隊長は気が小さくてビビりのお坊ちゃまだからなぁ・・」
「毎度毎度、万事がこの調子で、本当にコッチが堪んないよな・・・」
兵達が遂に痺れを切らせて、ひそひそ声で会話をし出した。
副官が大きな咳払いで、部下たちに私語を慎むように促したが、そんなものでは到底収まりはしない。
「・・大尉、そろそろ・・・」
流石に参ったのか、馬上の上官に向けて、副官と思しき人物が申し訳無さそうに小さく呟いた。
と、門前中央に居た、騎馬に跨ったロイド眼鏡の隊長と思しき人物が一つ頷き、騎馬からゆっくりと降り立った。
馬を降りた将校は、腰に差していた軍刀をスラリと抜いた。
そして抜き終えた自身の軍刀を、背後に控えていた黒い布を纏った軍人に差し出した。
黒い布を纏った軍人は、無言で頷くと素早く布を身体に巻き付ける様に纏った。
彼はそのまま黒い布で、上半身を綺麗にすっぽりと覆ってしまった。
その姿は・・・さながら死神を彷彿とさせる物だ。
なまじ上背がある為に、威圧感が半端ない。
黒装束となった軍人は軍刀を構えるや否や、間髪入れずに素早く門扉を駆け上がり、
躊躇う事無く敵地である門の中へ勢いよく飛び降りた。
(全部で、八人か)
勢いよく飛び降りた瞬間、奥の住居らしい小屋の中から泣き叫ぶ子供の声と、必死にあやそうとしている女の声が聞こえた。
馬賊の首領は妻帯者だと聞いていた。
であるのなら、この小屋が恐らく住まい、声の主は首領の妻と子だろう。
(・・小屋に少なくとも二人、小さな子をあやしながら武装している可能性は低い)
門の中では、今か今かと突入を待ち構えていた、武装した男達が急に現れた全身黒ずくめの刺客に一斉に目を奪われ、門の上を驚きの眼差しで見上げた。
だが、それはすべて一瞬の事で、その後彼等には逃げる暇も武器を構える暇も与えら
れなかった。
それ程までに、黒装束の動きは余りに素早かった。
黒装束は勢いよく飛び降りて来る際に、門前に居た男二人の頭を鷲掴みにしそのまま
背後の地面に叩き付け、頭を割った。
着地の際、左の男の鳩尾に左の膝で全体重を乗せて更に心臓を潰し、殺害した。
男は心臓を潰され、大量の血を穴という穴から吐き出しつつ絶命した。
男は動きを止めない。
素早く立ち上がりながら、預かった軍刀を間髪入れずに更に、襲い掛かる為に身構えようとした右側の男の鳩尾に素早く突き立て、それを一気に引き抜いた。
かなり勢いが付いていたからなのか、それとも男の力が凄まじいからなのか、突き立てた軍刀は男の背を突き破る勢いで、柄の部分まで一気に突き刺さり、素早く引き抜かれた。
絶叫し、がくがくと身を震わす男の腹から、シャワーの様に鮮血が沸き上がって飛び散り、そのまま男はゆっくりと仰向けに倒れながら絶命した。
その凄惨な様子に男達が、一瞬怯んだ。
しかしそれすらも、黒装束にとっては計算の内だった。
黒装束は、躊躇う事無く引き抜いた軍刀で今度は左脇の男の腹を深々と切り裂き、振り払うように刀を薙いで、更に右奥に居た男の腹に思い切り突き立てた。
軍刀を柄の手前まで深々と腹に食らった男が、絶叫しながらのけ反って仰向けに倒れ込んだ。
黒装束が降り立ってから今迄、全てがものの10秒ほどの出来事である。
門の中にいた、武装し待ち構えていた筈の男達は、あっという間に五人が倒されてしまった事になる。
彼等とて、腕に幾らかの覚えのある者達なのだろうが・・・。
黒装束の攻撃が余りに的確な上に素速過ぎて、回避も攻撃もままならぬまま男達は次
々倒されていく。
先程腹を割かれた左側の若い男が、腸を大量の血と共にぶちまけ乍ら前のめりに倒れ込む。
男の腹から勢いよく飛び出した腸が、まるで大蛇の様にうねりながら地を這ってゆく。
「哇,我还是不能死 - 一屎哦哦!!!」
(うわぁーーー、未だ俺は死ねないんだぁーーくそおおおぁ!!!)
しかし男も、倒れ込みながらなお、果敢にナイフで切り付けてきた。
その短刀、刃渡りは15センチ程は有るだろうか。
すかさず黒装束はナイフを持った男の右わき腹を思い切り強く蹴飛ばし、180度回転しながらナイフを高く蹴り上げた。
その動きには一切そつが無く、さながら完成度の高い曲芸でも見ているかのようだ。
更に後ろ、左の壁に置かれた二つの大きな水瓶の横から別の男が銃を構えて撃って来た。
だが、撃った弾は腹を切り裂かれ、飛び出た臓器と共に倒れ込んで来た味方の男にこ
とごとく当たってしまった。
しかも倒れ込んで来た男と共に、思い切り弾き飛ばされてしまい、手に持っていた筈
の銃を見失ってしまった。
そこへ、黒装束の真上に蹴り上げたナイフが、まるで計算でもされたかの様に落ちてきた。
先程仲間と共に弾き飛ばされた男が、仲間の身体と臓器を必死に掻き分けて起き上が
ろうと、血だまりの中から身をどうにか起こした瞬間。
じっと自分を見つめる黒装束と、視線を合わせてしまった。
「哇...哇!!」
(う・・うわぁーー!!)
黒装束はナイフを、逃げ出そうと身を捩りながら狼狽するその男のこめかみに力一杯投げつけた。
ナイフは男の左の眼球に深々と刺さった。
刃先が見えなくなるほど深く刺さったのだ、確実に脳に到達して居る筈なのだが。
男は我を忘れ、無我夢中で必死にナイフを力一杯引き抜いた。
しかし・・絶叫と脳漿、血飛沫を撒き散らし、がくがくと身を痙攣させ、崩れ落ちる
様に倒れ込みながら絶命した。
男の手離してしまった拳銃は、そのまま地面を激しく回転しつつ滑り、家の前に陣取っていた少年の足元に当たって止まっていた。
少年はがくがくと激しく身を震わせながら、その拳銃をじっと見つめていた。
黒装束が侵入して来てから僅か3分足らず、この時点ですでに六人が惨たらしい最期を遂げていた。
少年は余りに凄惨なその光景に、いつしか失禁してしまっていた。
顔面は蒼白、身体ががたがたと震え、足元すらおぼつかない程だ。
それを住居の前に陣取ったふてぶてしい面持ちの中年の男が、隣に立つまだ幼さの残るその少年に、先程の男が落とした銃を構える様に何度も怒鳴りつけている。
恐らくこの男が馬賊の首領なのだろう。
そして、少年は・・年齢からして、この首領の息子と思われる。
そうで無ければ、まだ10歳前後と思しき少年がこんな場に居合わせる筈は無い。
「打,打不过那个可恶的日本人!」
(戦え、憎い日本人をやっつけろ!)
だが、少年は泣きながら首を横に振った。
「我不想,不想还没有死!」
(嫌だ、未だ死にたくない!)
男は云う事を聞かない少年を何度も拳で殴りつけた。
黒装束はそれを静かに静観している。
更に男が強い口調で少年を恫喝する。
「拿起,我如果不接杀了你!」
(拾え、拾わないと俺がお前を殺す!)
血も涙もない、父親らしからぬその言葉に命を諦めた少年は、恐怖に震える手で銃を拾い上げ、黒装束に銃口を向けた。
ところが、その手はがくがくと震えて、とても照準を合わせるどころでは無い。 黒装束はつかつかとその少年の前に歩み寄り、少年の震える手を握った銃ごと掴み、軽々と持ち上げた。
そして自分の目線の高さまで持ち上げると、口元を覆っていた黒衣を引き下げて顔を
出して、少年に流暢な中国語で問うた。
「谁是你们的佼佼者。还是那个人?」
(君たちのリーダーは誰だ。そいつか?)
黒装束の男を気丈に睨みつけながらも、少年の震えは止まらない。
暫くの後、・・唾をゴクンと飲み込み、何かを覚悟し、口から絞り出すように言葉を発しようとした、その時。
背後から鋭い蛮刀の切っ先で心臓を一突きされ、少年は絶命した。
「日本鬼子我,不要舔!」
(日本鬼子(日本人への蔑称)め、舐めるな!)
男は素早く蛮刀を少年から引き抜くと、刀を一振りして血糊を払った。
そして身を低くして刀を構え、黒装束を睨みつけた。
黒装束は少年を地面にそっと下ろし横たえ、少年から取り上げた拳銃のリボルバーから弾を抜くと、その両方を壁の端に向かって乱雑に放り投げた。
中年男は黒装束を睨みつけたまま、微動だにしない。
男の背後で、銃弾がたてた金属音がチリチリンと響き渡る。
素早く立ち上がった黒装束は、隣で絶命している男の腹に突き立ててあった軍刀を一気に引き抜いた。
未だ絶命して幾らも経たない死体から、生温かい血飛沫がどくどくと吹き出し、辺りを更に真っ赤に染めた。
普通の神経だったのなら、この凄惨な光景に表情位は変えるだろう。
しかしそれでも、黒装束には全く動じる様子が無い。
恐らく黒装束を剥ぎ取ったとしても、表情は一切変化していない筈だ。
それが証拠に、声の抑揚に一切の変化が見られない。
黒装束は刀を一振りして血糊を薙ぎ払うと、抑揚のない声で男に問うた。
「你是领导任家伙?」
(お前はこいつらのリーダーか?)
しばしの沈黙とにらみ合いが続いた。
「关于如果是这样的话?」
(だとしたらどうなんだ?)
黒装束が口を開いた。
「我已下令向你杀的。你不能帮助,但在小屋母亲和孩子的保修规格的生活两个人」
(私はお前の抹殺を命じられている。お前は助けられないが、その小屋の中の母子二人の命の保証はしよう)
黒装束の問いかけに、男は鋭い蛮刀の一振りで答えた。
男は刀を構えて、全力で黒装束に身体ごとぶつかって行った。
黒装束はその一撃を、素早く身を翻して軽やかにかわした。
その二人の実力差は火を見るより明らかだったのだが・・が、だからとて止める訳にはいかないのだろう。
どうにか一太刀を浴びせたい男が、振り返りざまに黒装束の黒い布の端を、刀で力一杯切り裂いた。
「你可以相信,如如型动物!俏皮的待办事项!」
(貴様等など信用出来ん!ふざけるな!!)
尚も男は当たる筈も無い刀を構え、無我夢中で突っ込んで来た。
しかし、更に斬りかかって来ようとする男の剣を受ける事無く、黒装束が間合いに素早く入り込み、腹を横薙ぎに一太刀で切り捨てた。
腹を真っ二つに切り裂かれた男は血飛沫を上げながら、ゆっくりと崩れ落ちて行った。
男が床に転がり絶命したのを目視で確認すると、もう一度血糊を払い、黒装束は奧の小屋に足を向けた。
黒装束が小屋の中にゆっくりと入ると、がたがたと震えながら抱き合う中年の女と幼い少女が小上がりに敷かれたむしろの上に居た。
土間には二人が自衛のために持たされていた、蛮刀とナイフが無造作に転がっていた。
それが二人からの降伏の合図、と黒装束は受け取った様だ。
黒装束は蛮刀とナイフを拾い上げ、母子がまかり間違って武器を手にし、襲い掛かって来る事の無い様に土間に力強く突き立てると、小屋を出て家の門扉を開けて一旦出て来て、馬上の士官に手を挙げ、合図を出した。
5分程で付いた呆気ない決着に、兵達からは大きなどよめきが起こった。
普通に考えたのなら、絶対に有り得ない程の速さだったからだ。
何故なら・・武器を構えた馬賊の待ち構えるアジトへ、黒装束はたった一人で向かったのだ。
しかも何人が塀の中で待ち構えているのか、一切解らない状態でだ。
馬賊たちの激しい抵抗に遭い、ヒーロー気取りで恰好を付けて黒装束などを着込み、塀を乗り越え飛び込んで行った黒装束の事なぞ、真っ先に野垂れ死んだだろう位にしか彼等の中では思われていなかったのだ。
しかし・・・僅か数分の間に、大した抵抗を受けた気配も無いまま、黒装束が門を開けて生還し、何事も無かったかのように出て来た。
おまけに黒装束は・・黒衣で分かりづらいものの、どうやら全くの無傷の様だ。
代わりに、身に纏った黒い布から濃厚な血の匂いがして来る。
「・・・一体どう云うからくりだよ、こりゃ」
「嘘だろ、あいつピンピンしてるぜ・・・?」
呆気に取られる兵達を他所に副官と思しき士官が手を上げると、憲兵達が一斉に家の敷地の中へなだれ込んだ。
ところが。
「・・・何だ、これは・・・!」
憲兵たちの足が止まる。
そのあまりに凄惨な光景に、老練な兵士ですらも足が竦んでいた。
それもその筈、扉の中は一面血の海だった。
戦った筈なのに・・殺された連中は、皆一様に反撃した気配がほぼ無い。
何より薄気味悪いのは、全員がたった一撃で殺されていたのだ。
しかもすべて、急所に一撃。
重ねて、その殺され方が余りに惨たらしい物だった。
門のすぐ前の二人は後頭部を叩き割られ、血と脳漿をまき散らし、ひしゃげた顔面から眼球と舌の飛び出た状態て絶命していた。
ある者は、腹を掻っ捌かれ臓物をあたりに撒き散らして。
またある者は、破裂した片方の眼球が飛び出し、そこから脳漿と血が混じった物がどくどくと流れ出る形で絶命していた。
それこそ、体中の血を吐き出したのでは・・と云う位の血溜まりの中に仰向けに転がって絶命している者も居た。
壁には一面に、飛び散った血糊がべったりと付いている。
その様に無残に殺された者達の流した血で、門の中は足の踏み場も無い状態だった。
余りの惨状に暫くは皆身動きが取れず、青ざめた顔で一様に立ち尽していた。
「・・おえっ、げほっ・・・!」
奥の方で、若い新兵が壁に向かって嘔吐している。
だが、馬上の将校は怯む事無く涼しい顔をしている。
・・まるで、こうなる事が分かっていたかの様に。
そんな中いち早く黒装束が馬上の将校に近づき、パチンと軍靴を鳴らして軍隊式の敬礼をした。
その後、身に着けた黒い布で軍刀の血糊を拭って落とし、手に握り込んだ小さな紙片と共に将校に差し出した。
「軍刀をお貸し頂き有難うございました、香東大尉」
「ご苦労」
馬上の将校は軽く頷くと、紙片ごと軍刀を受け取り刀を鞘に戻した。
手中の紙片はどこへとなく消えていた。
しかしその馬上の将校・・香東大尉は、何の考えも無く軍刀を貸した訳では無かった。
自身の軍刀に血糊が付いていれば、討伐に行き、馬賊を討伐したのは自分だという証拠になる。
今回の手柄は自分が独り占めと云う、せこい皮算用が有っての事だった。
だが、黒装束はそれが分かっていて否を唱えなかった。
香東大尉が、黒装束をちらりと見た。
黒装束は前を静かに見据えたまま、香東大尉の視線には見向きもしない。
打って変わり、香東大尉のその表情はさも忌々しいとでも、憎々しいとでも言いたげな、不遜な面持ちだ。
汚れ仕事を押し付けて、あまつさえ手柄を横取りしようと画策している割には、いささか横柄な態度に見受けられるが。
しかしそれでも、黒装束が意に介する事は一切なかった。
香東大尉が不遜な面持ちのままぶっきらぼうに口を開いた。
「フン・・・貴公は何時までその黒い装束を纏ってるつもりかね?・・・こう言っては何だが、まるで死神のようだぞ」
そう注意され、黒装束を纏った軍人ははすぐさま黒い布を脱いだ。
「失礼しました。直ぐに次の任務で発たねばならぬ為、服を汚したくありませんでした」
軍人は、礼儀正しく一礼をした。
黒衣を脱いだその軍人は、どうやら将校のようだ。
階級章から彼が中尉だというのが分かった。
だが、昭5式軍衣に長袴のみ、こんな荒れ地だと云うのに足に脚絆は巻かれていない。
まるで内地か大本営にでもいるかのような服装である。
装備も腰の拳銃一丁のみ、軍刀すら下げてはいない。
それどころか兵科徽章も連隊番号も一切付けてはいない。
さらに驚くべきは、彼の容姿にである。
高い身分の将校であるにも拘らず、長く伸ばしたくせのある藍色の髪、黄色人種には殆どいないであろう白い肌、そして蒼い瞳。
美しい容姿、高い上背は185cm程はあるだろうか。
何処から見ても、誰が見ても、見た目だけなら彼を日本人だとは決して思わないだろう。
そんな彼の容姿に更なる不快感を感じてか、香東大尉はあからさまに顔を顰めた。
「それにしても、これだけの人数をたった一人で斬殺して汗一粒、息一つ乱さぬとは
・・・いやはや恐れ入る。私にはとても真似はできない。何せ・・女の寝取り方や人の殺し方は、華族である当家では教えては貰えなんだのでな・・ハハハ」
嫌味たっぷりの賛辞を、中尉は無言で受け流した。
「・・・・・・」
その瞬間、背後から会話に割って入る者が。
「その辺になさった方がよろしいのでは?・・曲がりなりにも、草壁中尉は大尉の任務を助けた人間です。それ相応の謝辞が相応しいと小官は思いますが?それに、此処は軍隊ですからねぇ。何時何処でまた、上からの指示でガチ合うかも解りませんからね~、人間関係だけは上手い事やっといた方が良いですよ~ハハハ」
「やかましい!誰だ、この俺に説教なぞ・・・」
背後から話に割って入られ、馬上の将校が苛立ちながら声のする方へ振り向くと、眼鏡を掛けた優男風の将校が敬礼しながら立っていた。
横槍を入れてきた同じく将校姿のその男は、ニコニコと笑顔を作ってはいたが目は一切笑ってはいない。
そして草壁中尉と同じ制服、恰好である。
その男は、
「失礼、小官上官殿の階級を間違えてしまいました。・・草壁大尉、お迎えに上がり
ました!」
軍隊式の敬礼で軍靴をガチンと鳴らしながら、声高に告げた。
「・・・大尉?こいつが大尉だと?!」
言葉と同時に、馬上の将校が血相を変えて馬から飛び降りた。
「失礼、本日付で草壁中尉は大尉に昇格されました。・・これで香東大尉と同格ですな~、草壁大尉?」
男は口の端を釣り上げて、ニヤリと笑った。
「止せ、村雨中尉」
草壁大尉が静かに制した。
だが、香東大尉の方はそうではなかった。
明らかに、傍目に見ても解る位動揺している。
「くそ、義父の伝手でも使ったのか・・卑怯だぞ!士官学校では大した成績も残してはいないくせに!俺は認めない!!絶対に認めんぞ!!!」
苛立ちを体全体で表現しながら、鼻息荒く二人に詰め寄った。
そんな八つ当たりとも思える暴言には耳を貸さず、村雨中尉はポケットの懐中時計を取り出し、しらじらしくこう告げた。
「む、大尉殿。時間が余りありませんな~。あ~・・香東大尉、大変名残惜しいので
はありますが、朝食の時間も欲しいんで、これにて失礼致します。・・大尉も、我々 にばかり構っていないで、さっさとその骸の山をどうにかされた方が宜しいのでは?
ほら、貴方の副官が先程からこちらを恨めしそうにじっと見てますよ?それでは失礼~」
「・・くそ、覚えていろ・・・・」
わなわなと震える香東大尉と視線を交える事無く村雨中尉は敬礼し、草壁大尉が脇に抱えていた黒衣を預かると、乗りつけて来たクーペにさっさと乗り込んだ。
「申し訳ありません、大尉。部下が失礼な口を聞きました」
草壁は深々と頭を下げ、謝罪した。
しかしそんな風に謙虚に頭を下げられては、先程まで自分の階級を盾に取り、草壁大尉をねちねちと苛めていた自分の方がどうにも気まずい。
香東大尉は草壁大尉の態度に更に気を悪くしたらしく、
「もういい、・・今回は礼を言う。貴殿のおかげで私の部下に怪我人が出なかった訳だしな」
渋々礼を言うと、ふいと顔を背けた。
草壁は更に、
「寛大なお心に感謝いたします」
そう言うとまた深々と頭を下げた。
香東大尉は大きく溜息をつくと、
「・・時間が無いのだろう。同じ大尉なら同格だ。そんなに平身低頭で来られてはこちらもやりにくい。さあ、もう行ってくれ」
そう言い残し、部下に馬を預けると自身も門の中に足を進め、部下たちに合流して指示を出した。
草壁大尉は暫く香東を見送った後、村雨中尉の運転する車の助手席に乗り込んだ。
その後すぐ、車は砂煙を上げて走り去った。
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