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そう思いつつも、僕は麦茶の入ったコップに手を伸ばす。
「最近どうだ? もう保健室登校から卒業したか?」
「おかげさまで先週にはもう教室に行けるようになりました」
僕の答えに中田さんは頷きながら麦茶を飲んだ。
「それは良かった」
二人とも会話が弾まず、押し黙ってしまう状態がしばらく続いた。テレビからは報道番組が流されており、近年話題になっているロシア人による犯罪の増加について特集が組まれていた。
上の階からどたどたと物音がし出す。中田さんはそれを聞いて「母さん、起きたみたいだな」と呟いた。
「じゃあ、僕帰ります」
「いや、別に気にしないよ。母さんには孝志君のこと話しているから」
そうは言うものの、他人の母に会うというのは気が引ける。僕は頭の中に引っかかっていた本題を切り出した。早く帰ろうと思ったのだ。
「あの、鹿島涼子って知っていますか?」
中田さんの返答は「鹿島涼子? いや、知らないな」というものだった。中田さんなら何か知っているのではないかと思っていたのだが、その考えは外れだった。ビンゴ大会であと一つでビンゴになるのに一向に呼ばれないような寂しさがあった。
「そうですか」
今度は本当に喋ることがなくなってしまい、黙ってしまった。何か言おうと思っても、それはどう頑張っても言葉にならなかった。もしその言葉を仮に思い出して言ってしまおうものなら、世界はあっという間に崩壊を起こし、僕を含めた全ての生き物が地球もろとも消えてなくなってしまうのではないか。馬鹿げたことだけど、本当にそうなりそうな気がしてならなかった。僕は仕方なく帰ることにした。
「朝早くにすいません。今日はもう帰ります」
僕がソファから立ち上がって帰ろうとすると、突然中田さんに呼び止められた。
「あ、そうだ。孝志君にこれを渡しておこうと思ったんだ」
中田さんは台所に姿を消し、しばらくごそごそしてからまた戻ってきた。彼の丸っこい手には何か劇場のチケットのようなものが握られている。
「うちの母さんが市民合唱団に所属しているんだけど、今度その演奏会があるんだ。チケットが余っているから孝志君にあげるよ。時間の都合がよかったらぜひ来てくれないかな」
中田さんはチケットを差し出した。僕はそれを受け取り、鞄の中にしまう。
「ありがとうございます」
「俺も本当は行きたかったんだけど、その日は一日中仕事なんだわ。俺の代わりに行ってくれると母さんも喜ぶと思うから、暇があったらぜひ来てほしいんだ」
僕はあいまいな返事をして中田さんに別れを告げ、外に出た。自転車の鍵を外し、サドルにまたがる。
既に日が出ていて、外は眩しすぎるくらいだった。僕は心の中に残っていたもやもやが取れそうで取れないようなもどかしさに襲われた。
結局、涼子を知っている人には出会わなかった。それはおかしいと思いながら、僕は帰路につく。
全てはあのジンニーヤーのせいなのだろうか。
僕はかぶりを振った。
誰かが、あるいは僕に関わる全員が僕に嘘をついている。涼子が消えたはずなんてない。それだけは確信している。これは、魔法なんかじゃない。現実だ。
僕は家に向かう道を無心になって自転車で漕いで進んだ。
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