第二章

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第二章

 この一週間、父の帰りがだいぶ遅くなった。  父の職業は会社員だ。チヨダ貿易という市内の中心部にある貿易会社で働いていると以前聞いたことがある。普段は定時で帰れるはずなのだが、ここ最近は仕事が立て込んでいるとかで夜の八時に帰ってきたり、時には深夜になって帰ってくることもあった。土日も仕事ということも増え、家族との会話もすっかり疎遠になっている。  僕は涼子のこともそうだが、かねてから父のことも気になっていた。  父は、僕たち家族に何か隠しているのではないか。  その疑惑が確信に変わったのは昨日の夜のことだった。  僕と母が夕食を終えたころに父が帰ってきて、父はいつものように手短に一人で食事を済ませる。父はすぐさま二階に上がり、僕は今日出された宿題をしようと思い、父の後を追うように二階の自室へと向かった。  二階には父の書斎と僕の部屋の他に物置代わりになっている小さな部屋がある。自室は二階の階段を上がり、まっすぐの廊下の一番奥にあり、父の書斎は僕の部屋の手前だった。だから、どうしても自室へ向かうときは父の書斎の扉の前を必然的に通る必要がある。  父の書斎を通り過ぎようとしたとき、僕は何気なく書斎の扉の方を向いた。父は誰かと電話をしているようで、ぼそぼそと話し声が聞こえてくる。  僕は書斎の扉に耳をぴったりくっつけ、父と誰かの電話越しでの会話を聞いた。  ヒサツ、だとか、テンケン、といった言葉が次から次へと父の口から飛び出してくる。やがて「キチョウは済んだようだな」とか、「コウカクを怠るな」といった単語も出てきて、会話の全容は完全に意味不明だった。  僕はどきどきしていた。盗み聞きをするつもりなどこれっぽっちもなかったが、傍らから見れば僕の姿勢はどうみても盗み聞きだった。会話の大半は理解できないものだったが、何か秘密の会話を聞いているみたいで同時にわくわくした。やがて電話が切られ、父がふう、とため息をつく。 「誰かいるのか」  普段の父より低く張りのある声でそう言われ、僕はどきりとした。とっさに、「僕だよ、父さん」と言った。  父は不機嫌そうに「なんだ、孝志か」と言い、「何かあったのか?」といつもの口調で聞いてきた。 「母さんが風呂の準備が出来たから父さんに知らせてきなさいって」  僕がついた嘘に、父は扉越しに「後で入るから、お前か母さんが先に入りなさいと言ってくれ」と言うと、それきり黙り込んだ。僕は安堵してそっと扉から離れ、とりあえず一階に降りた。 「母さん、お風呂入れる?」  母はテレビを見ながら、何か本を読んでいた。 「入れるけど、宿題はどうしたの?」 「お風呂に入ってからやろうと思ってる」  僕は素知らぬ顔でバスルームへと向かう。  キチョウ、コウカク……。僕はその言葉を反芻しながら風呂に入った。あの言葉には必ず意味があるはずだ。そう思いながら風呂に入り、身体を洗う時も頭を洗うときも、僕は必至で父の会話の一部を何度も繰り返して覚えようとした。
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