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第四章
夏休み最終日、僕は宿題を終わらせたことを確認して家を出た。
いつものように中田さんの家に行き、そこで久恵さんの指導の下、歌を歌う。夏休みの期間中、流石に毎日は行けなかったが、可能な限り中田さん親子は僕に付き合ってくれた。時には久恵さんの所属する市民合唱団のテノール担当の野坂さんが来ては僕の歌声を聴いてここが良かった、ここはこうした方がいいという話も聞いた。
この夏休みの間、僕はひたすら練習に練習を重ね、歌がだいぶ上手くなっていた。担当するテノールパートは最終的にソロの部分も含めて完璧だと野坂さんは褒めてくれた。
本当に上手くなった。君は努力家だ。
中田さんも久恵さんもそう言って僕を認めてくれた。でも、心のどこかでは空虚さを抱きしめている僕がいる。素直に喜べなかったが、期待に応えないといけないと思うと作り笑いの笑顔で何とか乗り切るしかなかった。
虚しさを抱えながら、僕は自転車に乗って神社に立ち寄った。
ここならいつもの自分を取り戻せる。本来の姿をさらけ出せる。ため息を何度か吐いて、深呼吸する。さっきまでのモヤモヤ感がどこかに消えることはなく、まだ僕の肺の中をうろついているみたいだった。
この神社にも人が増えたな。
つい一週間前までは閑散としていたこの神社だが、最近は参拝客が増えたような気がした。僕が見ただけでカップルらしき二人組や青年、杖をついた老人がこの神社の境内にいる。しかし妙だ。恋愛成就の神社なのにカップル以外不自然に映って見える。僕がしばらく境内の中を歩き、池の前のベンチに来た時、僕は何気なくベンチの下を覗いた。
まただ、と僕は思った。
未開封の缶コーヒーが立てておかれている。それも、前に見たものと同じメーカーの同じコーヒーだ。なぜこんなものがここにあるのだろうか。落としたならまだわかるが、また立てて置かれている。こんな偶然が二度もあるのだろうか?
何だか気味が悪くなり、僕は視線をベンチの下から池の方に変え、右隣のベンチに座った。
清掃員の格好をしたおじさんが現れ、軍手をつけた右手で缶コーヒーを持っていく。清掃員のおじさんが庭園の方に向かって歩いていき、青年がその様子を目で追っていた。カップルは何やら内緒話をはじめ、老人は携帯電話で誰かと連絡を取っている。
僕は立ち上がり、境内を出た。停めてある自転車の鍵を外し、家路を急ぐ。途中にある涼子の住んでいた家は相変わらず違う名字だった。
やっぱり、幻なんだろうか。
僕は家に帰り、少しばかり眠った。それからいつものように過ごし、いつもの時間に眠りについた。
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