春の章「片恋消しゴム」 ① るりSide

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◇   ◇   ◇  その子は、とても嫌な男子だった。  下品で乱雑。下ネタが大好きで、クラスの女子に卑猥(ひわい)な言葉を投げかけてはその反応を面白がっているような子だった。  だから女子は、水泳の見学をことごとく嫌がった。  見学をしている女子に対して、生理だ生理だとそいつは(はや)し立て、女子が最悪泣いてしまっても笑っていたからだ。  先生からの厳重注意もてんで効かず、水泳の授業になるたびに、女子の間では数人が暗雲な表情を浮かべていた。  数人の男子は、便乗して面白がって。数人の男子は、我関せずと遠目で見ていた。中曽根も、そんな遠目で見ていた一人だった。  まだ生理が来ていない私には実害はなかったが、でも同じ女子として、その子のその言動は許せなかった。  しかしある日とうとう、私にも第二次成長期がおとずれた。  慣れない下腹部の痛みを我慢しながらプールサイドで見学していた私に、その男子は水着姿のまま近づいてからかってきた。 「わー、戸田も生理か生理ー!」  最悪な一言をみんなの前で言われて、私は真っ赤になった。 「プールに近寄んなよな! 生理が移るから〜!」 「……っ!」  恥ずかしくて、悔しくて、恥ずかしくて。  痛くて、ムカついて、恥ずかしくて。  いつもならこんなやつの口喧嘩に負けるわけがないのに、わけのわからない感情が私に何も言えなくさせていた。  ただ、この子に嫌な言葉を投げかけられていることだけが、どうしようもない敗北感を私に味わわせていた。 (なんで、こんなこと言われなくちゃいけないの? 私だって好きでなったんじゃないのに)  当時の私は、ひたすらに恥ずかしかったんだ。変わっていく自分の体が、恥ずかしくって仕方なかった。  じわり、と涙が浮かんで視線がぼやけた──その直後。 「ぎゃぁ!」  男子の声とともに、バッシャーン! と水飛沫が弾ける音が、辺りに響いたのだ。  泣きそうになって下を向いた時だったから、最初は何が起きたのかわからなかった。けれどすぐに、理解した。あの嫌な男子が、誰かにプールに突き落とされたのだ。  不意をつかれた男子は体勢を整えられず、水面に叩きつけられたのか痛そうな音を立ててプールに沈んだ。  突き落としたのは、中曽根だった。 「そこにつっ立ってると邪魔だろ、バーカ」  中曽根は眉間にしわを寄せて、プールサイドから男子を見下ろしていた。私の方には、見向きもしていない。 「な、何すんだよ中曽根ー!」  男子は突然のことに、あっぷあっぷとプールの端まであわてて寄ろうとする。どうやら、一番深い場所に落とされたようだった。 「わりー、わりー。ほら」  と男子に手を差し伸べる中曽根。……が。 「なんてな」  と言って、すぐに手を離した。 「のわっ!」  男子はふたたび、水飛沫をあげてプールへと消えた。 「て、テメー! 中曽根ぇぇぇ!」 「へへーん。騙される方がバカなんですー」  相手をからかうように中曽根は走って行って、嫌な男子はその後を追いかけた。どうやらもう、からかっていた私のことはすっかり頭から抜けて眼中にないようである。  でも、私はその時に気づいたんだ。  中曽根が男子に追いかけられ、振り返るほんの一瞬。  彼の目は私を心配そうに見て、そして……笑った。  太陽みたいに──にっかりと。 (もしかして、助けてくれた……?)  真意なんて、わからない。  でも、中曽根があの男子をからかってくれたおかげで、私が嫌な言葉を浴びせられることはなくなった。  それだけで、私は嬉しかった。  それだけで、私は恋に落ちた。  本当にささいな、そんな一瞬で。 ◇   ◇   ◇  中曽根とは幼稚園からの幼なじみで、そのことがあるまでは、意識なんてしたことがなかった。  ただ、他の男子よりは話しやすい昔から知っている男の子。それだけだったのに。  優しいことを知ってしまった。  サッカーをしているときのカッコ良さを知ってしまった。  目と目が合ったときの、胸の高鳴りを知ってしまった。  だからもう、後戻りなんてできなかった。  恋に落ちるのが一瞬なら、終わる時も一瞬なのかな。  ペンケースにしまわれている、私の消しゴム。  文字だけでなく、これからの私と中曽根の思い出も消そうとしているのかもしれないと、無性に悲しい気持ちになっていった。
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