第二章 白藤銀次は変身する

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第二章 白藤銀次は変身する

「シュナイダーさん」  自室に戻ったアリスと別れたあと、アリスに言ったとおりに銀次はシュナイダーに声をかけた。 「なにかお手伝いすることはありませんか? お嬢様、今日はおでかけにならないらしいので」  そうなると、運転手の自分の仕事はない。車の整備はこの前やったばっかりだし。 「寝ていたらいかがですか?」  シュナイダーはさらり、と答えた。 「……お嬢様に何か言われました?」  軽く片眉をあげて問うと、初老の執事長はしかめっ面を作って答えた。 「銀次君が露骨に具合悪そうなのに頑にそれを認めようとしないから、どうにかしといて、と言われました。……顔色、悪いですよ」  しかめっ面から心配そうに歪められた顔に苦笑する。 「でもまあ、平気ですよ」 「見る者に心配をかけている状態は、決して平気な状態とは言わないんですよ。お嬢様にまで心配かけて。もしものことがあったら、どうするおつもりなんですか?」  淡々と言われた正論に、返す言葉がない。 「それは、まあ」 「いつでも休めるわけではないんです。休める時は素直に休んでおきなさい」  さらに畳み掛けられ、しぶしぶ頷いた。 「もしも、お嬢様がおでかけになる時は、遠慮なく声をかけてくださいね」  それでも一応主張しておくと、 「はいはい、わかりましたから。さっさと自室に戻る」  軽くあしらわれた。  なんとなく釈然としないものを感じながら、自室に戻る。  体調が悪いことは事実なのだから。  自分にあてがわれた部屋に戻ると、ベッドの上にそのまま倒れ込んだ。  しまった、着替えないとスーツに皺がつく。それが見つかったら、またシュナイダーに怒られる。そうは思ったものの、一度休んでしまうともう、起き上がる気持ちが湧かない。  緊張は一度軽く緩むと、一気に全てが弛緩する。  それと同時に、耐えていた体の痛みが一気に押し寄せて来た。  額を枕に押し付け、瞳を閉じることで痛みに耐える。  内部から鈍く続く痛み。  体内を何者かに喰われるような感覚。  ような、ではない。事実そのとおりなのだ。  最初の頃は腹部だけだった痛みが、最近では胸の辺りにまで来ている。そのことにぞっとする。  あとどれぐらい、残されているんだろうか。  痛みのある胸の辺りを、シャツの上から掴んだ。ぐっと爪を立てて。 「ひっこんでろっ」  吐きすてるように告げる。自分の体内に居る、Xに。  特別に、メタリッカーという名前を与えられている、Xに。  この痛みと付き合うようになったのは、半年ちょっと前からのことだ。  当時、この屋敷にはまだ鈴間屋拓郎がいた。屋敷を統べる主であり、スズマヤコーポレーションの代表取締役社長であり、鈴間屋アリスの父親であり、白藤銀次やシュナイダーの雇用主でもある、鈴間屋拓郎が。  半年前のあの日、銀次は拓郎に呼ばれて、彼の部屋まで行った。  両親を亡くし、天涯孤独の身の上で、今後のことを悩んでいた銀次に、拓郎は救いの手を差し伸ばしてくれた。在学中だった高校に最後まで通わせてくれ、その後はアリス付きの運転手として雇ってくれた。そんな拓郎に銀次は心から感謝していた。  だから、拓郎から呼ばれたとき、何の疑いもなく部屋まで行ってしまった。 「白藤、君にお願いがあるんだがね」  その言葉にも、 「はい。なんでしょうか」  本当になんでもやるつもりでそう尋ねた。  大きくて立派な書斎の机の向こう側で、鈴間屋拓郎は小さく笑っていた。今日もまた、一段と高そうなスーツを着ている。 「ちょっとデータをとりたいんだが……。この薬を飲んでもらえないかね? なに、体に悪いものじゃなくて、まあ、栄養剤の一種なんだが」  そういって渡されたカプセルを、疑うこともなかった。スズマヤコーポレーションは今でこそ手広く色々やっているが、元々は医療品関係の会社で、元は研究者だったという拓郎が人知れず何か薬の研究をしていたことは、鈴間屋で働く全員が知っていた。 「栄養剤、ですか」  それをそっと光にかざしてみる。なんの変哲もない、白いカプセルだった。 「うん。自分では試したんだがね。若い人が飲むとどうなるか気になってね。まあ、無理しなくてもいいんだが」 「あ、いえ、そんな」  拓郎の言葉に慌てた。 「こういうのって初めてなんで」  決して、拓郎を疑っているわけではない、嫌なわけではない、ということを必死にアピールした。 「私でいいなら」  そう告げると、拓郎は優しく微笑んだ。 「まあ、栄養剤なんて目に見える反応がそうそうあるものでもないんだがね。もしも何かあったらいいな、と思って」 「はい」  頷くと、それをもう一度見てから、口に含んだ。渡された水で流し込む。  ごくり。飲み込む。 「……まあ、薬ってすぐ効くものでもないですよね」  飲み込んだあとの沈黙が、少し気まずくて呟くと、 「いや、そうでもないよ」  拓郎が笑った。  その顔を見て、背筋が凍った。 「……旦那、様?」  先ほどまでの優しい笑い方と違う、嫌に黒い笑みだった。 「すぐに効くはずだ」  拓郎はそのまま言葉を告げ、 「っ」  言葉どおり、変化はすぐに来た。  喉元が、焼けるように痛い。  片手で喉を押さえると、残っていた水を流し込んだ。  痛みは引かない。  寧ろ、どんどん体中に広がって行く。  痛くて、熱い。  かしゃん。  硝子のコップが落ちて割れた。  そこに耐え切れなくなって、銀次も倒れ込む。 「だん、なさ……」  声が掠れる。  視界が曇る。 「ふふふふ」  聞こえて来たのは、笑い声だった。 「あはははははは!」  どこかくぐもって聞こえる聴覚に、高笑いが届く。  体が痛い。熱い。  体内に入った異物を排除しようと、何度も咳き込む。 「成功だ!」  声がする。  旦那様の声のような気がする。でも、本当にそうだろうか?  旦那様の声は、こんな不快な声色だったろうか?  視界がぐるぐるまわる。  熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い熱い痛い熱いいたいいたい。  何がどうなっているのかわからない。  自分がどうなっているのかわからない。  ただ一つだけわかっていることは、これはきっと夢なのだ、ということ。ああ、早く目覚めて、車の準備をしないと。そうしないと、シュナイダーさんに怒られる……。  遠のく意識の中で、そんなことを思った。 「白藤、大丈夫なの?」  次に銀次が意識を取り戻したとき、聞こえたのはアリスの声だった。どこか遠くで、ぼんやりと聞こえる。 「お医者様呼んだの?」 「ええ、診て頂いたから大丈夫ですよ」 「……そっか。お見舞いしちゃ駄目?」 「いけません。もしも、お嬢様にうつってしまったら、悲しい思いをするのは白藤ですよ」 「……わかった」  相手をしているのはシュナイダーのようだ。珍しくアリスが心配そうな声色をしていて、それをシュナイダーがいつものように優しく宥めているようだった。  ええっと、一体何があったんだっけ。  ゆっくりと目をあけて、自室の天井を見つめる。  なんだか嫌な夢を見ていた気がする。  夢?  しまった! 寝坊した! アリスお嬢様が起きていらっしゃるっていうことは、とんでもない寝坊だっ!  意識がぱっとそこに傾くと、慌てて銀次は飛び起き、 「っ」  息が詰まるような体の痛みに、起こした上体をそのまま丸めた。  呼吸するのも困難なぐらい、体が痛い。 「銀次くんっ! まだ、起きてはいけませんっ!」  シュナイダーの声がすぐ近くでして、そっと背中に手が当てられる。そのまま再びベッドに寝かされた。 「シュナイダーさん……」  名前を呼ぶ声が、自分でも驚くぐらい掠れていた。  一体、何があったのか。  いつも冷静沈着で自分達使用人をまとめあげている執事長が、いつになく焦ったような顔をしている。 「あれ……、お嬢様、は?」  さっきまで彼と会話していたはずだ。 「優里さんにお任せしました。自室に戻られました。……銀次くん」  シュナイダーの顔が、痛ましげに歪められる。 「何が起きたか、覚えていますか」  何が、起きたか? 「……あれは」  覚えている。  覚えているけれども、あれは夢だと思っていた。思っていたのに。 「夢じゃ……」 「残念ながら現実です」 「旦那様が………」  旦那様に渡された薬を飲んだから、突然体中が痛んで。意識が飛んだ。 「あれは、一体……」  言いながら自分の額をおさえるように右手をあげて、 「これ、はっ」  目覚めてからはじめてみる自分の右手に、悲鳴のような声をあげた。  それは到底、自分の腕だとは思えなかった。銀色の、薄い鉄っぽい何かに覆われたようになっている。でもこれは、何かを外部的に身につけられたものじゃない。重いとか、そういった感覚はない。感覚でわかる。これは、 「……俺の手が、変わっている」  左手を持ち上げる。左手は自分の手のままだった。その手でそっと、右手に触れる。右手に、触られた感触があった。いつものような。  気持ち悪い。なんだこれっ。  反射的に自分の右手をベッドに叩き付けそうになるのを、 「銀次くん」  そっとシュナイダーにおさえられた。シュナイダーの手の熱を感じる。  泣きそうになりながらシュナイダーを見る。いつも冷静で頼りになる、彼を。 「それが旦那様の研究成果です」  シュナイダーが苦虫をかみつぶしたような顔で告げる。 「旦那様の?」 「説明はあとでします。あとでしますから、今はもう少し眠ってください」 「あとでってっ」  そんなこと言われたって!  そう怒鳴ろうとした瞬間、腹部に強烈な痛みを感じた。 「ぐっ」 「銀次くんっ」  体の中を何かが暴れているような気がする、痛み。  体を丸める。少しでも痛みを逃がそうと、左手で腹部をおさえる。  痛い痛い痛い痛い。 「銀次くん」  シュナイダーに左手を掴まれた。 「しゅな……」  彼の手には、注射器が握られている。  ああ、鎮痛剤とかそういったものだろう。  痛みが自分の大部分を占める中、どこか冷静に思った。  ちくり、と針が刺さる。  右腕がなんだかとても熱い。  気分が悪い。  痛い。 「銀次くん」  優しく名前を呼ばれる。  きつく目を閉じる。  はやくはやく。痛み止めが効くのでもいい。痛みのあまり失神してしまうのでもいい。はやくはやく。  この痛みから逃げたい。  きつくきつく、目を閉じた。
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