第二章 白藤銀次は変身する

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 眠っていたらしい。  半年前の夢を見てしまった。  そう思いながら、銀次はベッドから体を起こした。時計を見ると、お昼を少し過ぎたぐらいだった。  少し休んだから、体の調子は元に戻っている。  皺になったスーツをひっぱることでどうにかごまかすと、立ち上がった。いつまでも眠っているわけにはいくまい。  部屋を出ると、メイド服姿の女性が目に入った。くるぶしまで隠す丈の長い黒いスカートに、白いエプロン。綺麗な黒髪をお団子にまとめあげたその姿は、優里だ。 「優里さん」  声をかけると、彼女は振り返る。 「銀次さん。お体はもういいのですか?」  有能なる鈴間屋の使用人達は、程度に差があれど銀次の事情を把握している。 「おかげさまで」 「そうですか」  にこりともしないで彼女が言う。彼女の場合、これが通常営業なので気にしない。彼女が素直に笑うのはアリスの前だけだ。それか皮肉っぽく笑うときか。鈴間屋拓郎の前でも素直に笑ったためしがない。それでよく、採用されたよな、と常々思っている。 「なにか仕事ありますか? というか、お嬢様は?」  抜群のプロポーションを持つ、それでいて年齢不詳の彼女は、アリスに気に入られており、彼女の行動は把握しているはずだ。っていうか本当にいくつなんだろう。見た目は二十代前半に見えるけど、アリスの話では彼女が幼いころからの鈴間屋の屋敷にいるというのに。訊いたら酷い目に遭わされそうだから、訊けないでいるけれども。 「お出かけになりました」  淡々と優里が答える。 「は?」 「お出かけになりましたよ。タクシー、呼んでいました」 「……お嬢様がお出かけの際は、起こしてくれと言いましたよね」  アリスにタクシーを呼ばれて出かけられたとなると、アリス付きの運転手としては立つ瀬がない。少し恨みがましい言い方になる。 「あ、それとも声をかけたけれども、俺、起きませんでしたか?」  だとしたらますます立つ瀬がないが。 「いいえ。シュナイダーさんは一応、お嬢様に銀次さんを起こすかお尋ねになっていましたが、お嬢様がそれはいいと。具合が悪いようだから休ませてあげて欲しいと。そうおっしゃっていました」 「……そうですか」  アリスに気を使わせてしまった。反省しなければならない。 「お迎えに行けばいいじゃないですか。お嬢様、お喜びになりますよ」  行き先ならばシュナイダーさんが知っています、と優里が続ける。 「ああ、そうですね。そうします」  帰りもタクシーを呼ぶよりはいいだろう。そちらの方が、自分の気も紛れる。 「ええ、ええ。元気な銀次さんを見ればお嬢様はさぞかし安心なさることでしょうし、大好きな銀次さんがお迎えにいらっしゃればさぞかしお喜びになるでしょう」  淡々と話していた優里だったが、唐突に言葉に棘が混ざりだした。 「よかったですね、銀次さん。お嬢様に心配して頂いて。あのアリスお嬢様に心配して頂いて。本当に良かったですね。身分不相応ですね。わきまえた方がよろしいんじゃありませんか? お嬢様があなたの事情知らないからってこれ以上心配させるのはよろしくないんじゃありませんか? お嬢様のことを思ってアレにまつわる色々なことを説明なさらないのは、銀次さんにしてはとてつもない英断だと思いますが、結局、お嬢様に心配をかけているようでは、何の意味もなさないんじゃありませんか? お嬢様のご心痛を思うと、優里は涙が出てきます。本当。お嬢様に心配かけて、お嬢様に心配させて。お嬢様はお優しいから。あんなお優しいお嬢様に心配かけて。お嬢様に」 「優里さん」  棘全開で放たれた言葉を遮る。放っておくと、どこまでも続くことだろう。 「俺、そろそろ行かないと。下手したらお嬢様と入れ違いになってしまうかも」 「ああ、そうですね。お嬢様をお待たせしたらよくないものね。お嬢様に怪我などないよう、安全運転でお願いしますね。最悪貴方が死んでもお嬢様は無傷であられるように、気をつけてくださいね。貴方が死ぬときも、お嬢様のお心に傷が残らないように、どっか人目のないところで死んでくださいね」 「はい、わかりました。わかりましたから」  いや、全然わかんないけれども。 「適当に返事して、相変わらず低能ですね」  ぼそりと優里が吐きすてた。  そしてゴミを見るような冷たい目で、それでいて微笑みながら銀次を見ると、そのまますたすたと立ち去った。  有能なる鈴間屋の使用人達は、有能だが些か癖が強いものが多かった。 「本当、優里さんはお嬢様が大好きだなぁ……」  その後ろ姿を見ながら、銀次は小さく呟いた。呟くぐらいしか、自分の心の平穏を保つ術がなかった。  日曜だというのに、唐突に入った仕事の打ち合わせ。それを終えて帰ろうと、アリスは打ち合わせ先のビルからでてきた。今日は銀次を置いて来たから、自力で帰らなければ。タクシーを呼ぶか、別に電車でもいいけれども。でも電車で帰ったことがバレたら、銀次に嫌みでも言われるかもしれない、過保護だから。そんなことを思っていると、 「お嬢様」  声をかけられて、乗っていた電動車椅子を止めた。 「白藤」  道路の脇に停められた見慣れた車に、見慣れた運転手。見慣れた運転手の黒いスーツ。 「なにしているの?」 「お迎えにあがりました。どうぞ」  いつものように、銀次の白い手袋に包まれた手で後部座席があけられる。  言いたいことはいくつかあったが、ここで押し問答するような、みっともない真似はするつもりはない。  車椅子を動かすと、車のそばによる。 「失礼します」  銀次は一言アリスに声をかけると、慣れた調子で彼女の膝の裏に手を差し込み、抱え上げる。そっと後部座席にアリスを座らせると、ドアをしめ、車椅子をトランクにしまう。その一連の動作を眺めながら、アリスは迎えに来てくれて嬉しいという気持ちと、果たして彼は本当に大丈夫なのだろうかという気持ちを心の中でかき混ぜていた。  銀次はそんなアリスの気持ちを知ってか知らずか、すました顔で運転席に乗り込むと車をゆっくり発進させる。  少し進んだところで、 「今朝は失礼致しました」 「もういいの?」 「はい。おかげさまで。ありがとうございました」 「……そう、ならいいけど」  そっと運転する銀次の横顔を見る。確かに顔色は戻っている。それに安心して、座席に深く身を沈める。 「お気遣い、本当に感謝しています」  いつも素直に受け取りなさいつーの。 「いいけど。……ねえ、白藤」 「はい?」 「本当にもう、平気なのね?」 「ええ」  ならば。少し唇を湿らせてから、 「だったら、少しドライブしてから帰りたい」  早口で言った。  銀次は少しだけ黙っていたが、 「かしこまりました」  いつものように慇懃に頷いた。 「ご希望の場所など、ございますか?」 「ううん。特にない。直ぐに帰らないで、車の中で考え事とかしたいから」  後半、言い訳のように付け足す。ドライブなんて言ったから、変な勘ぐりをされたら困るし。いや、勘ぐりではないのだが。 「なるほど。かしこまりました。でしたら、思考のお邪魔にならないように、わたくしは黙っておりますね」  ……こいつ、わかっていてそういう意地悪言いやがって。  運転する銀次を睨みつける。  だからってそれを許すアリスではない。 「人に話すと思考は整理されるの。私の話にはちゃんと反応しなさい」  ぴしゃりと、高飛車に言い放つと、 「かしこまりました」  何事も無いように返事がかえってくる。まあ、どうせ、向こうもわかっていたのだろう。  車の中は、普段後ろに控えていることが多い銀次の顔を見ることが出来る、数少ないチャンスだ。運転する横顔をそっと見つめる。  二人っきりになれるのも、この時だけだ。  だからって、別に何を言うわけではないけれども。  何も言えないけれども。  だけど、 「白藤」 「はい」 「迎えに来てくれてありがとね」  まあ、これぐらいの可愛げのあることは言ってもいいかもしれない。  銀次が一瞬、戸惑ったように瞬きをしたのを、バックミラー越しに捉える。 「……それが、仕事ですから」  そして彼はそう言葉を返して来た。へたれめ。 「それに、優里さんに怒られまして」 「優里に?」 「お嬢様に心配かけたのだから、迎えにぐらいいけと」  へー、優里、さっすが。いい仕事するじゃない。帰ったら褒めとこう。そう心に決める。 「あ、っそ」  口に出来たのは可愛くない言葉だけど。 「お嬢様」 「なに」 「ご心配をおかけしまして、本当に申し訳ありませんでした」 「別に。そんなに心配してないから」  ほら、素直じゃない。  自分に自分で呆れる。 「そうですか」  銀次が淡々と答える。  しまった、怒らせてしまっただろうか。さすがに言い過ぎただろうか。  そう思ってそっと横顔を伺うと、彼は僅かに口角をあげていた。笑っている。おもしろがっている。  それはそれで、ちょっと不満だ。 「……白藤、なんか面白い話して」  なんとなく釈然としなくて、そんな無茶ぶりをしてみる。 「お嬢様、わたくしは芸人ではありません。運転手です」 「知ってる。面白い話して」  銀次が小さく息を吐いた。溜息のように。  その後、彼がしてくれた、キャッチセールスにことごとく引っかかる中学時代の友人の話が普通に面白くて、結局無性に腹がたった。
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