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「あれ、杏介? 研究室行ったんじゃなかったっけ」
「……なんだ、お前か。行ったは行ったけど、諸事情あって中に入れなかったんだよ」
「なんだそれ。まあ、何でもいいけど」
学食で一人寂しく昼食を取っていた俺に話しかけてきたのは、同じゼミの友人だった。
さっきの女の子たちと違って、こいつは俺の趣味について「もったいない」なんてお節介は言わない。「一緒に歩いてると変な勘違いされるからやめろ」と鬱陶しそうに言うことはたまにあるけれど、それでも呆れずに行動を共にしてくれている数少ない男友達だ。
そいつは俺の返事を聞いて興味無さげに鼻で笑うと、当たり前のように隣の席に腰を下ろした。
「それ、何食べてんの」
「え? ……あー、なんだっけ。新しいやつ。豚塩カルビ丼みたいな名前の」
「ふーん。僕も今度それにしよ」
「お前、いつもうどんだよな」
「だって一番安いから」
そんなどうでもいい会話を交わしていると、すぐ横の通路を通っていった見知らぬ女の子がこちらを振り向いて、くすりと笑った。
地理学科に女装男子がいる、なんて噂はいつの間にやら学部中に知れ渡っているようで、今のように好奇の視線で見られたことは数えきれないほどある。
これが広い街中であれば俺の性別なんて誰も気にしないのだろうが、残念ながらここは狭いキャンパスの中だ。石を投げられたり幼稚ないじめを受けたりすることはさすがに無いが、指をさされて何か言われるのにはもう慣れてしまった。
それなのに、さっき研究室前で聞いてしまった言葉が頭から離れてくれないせいなのか、自分でも驚くほど低い声が口から零れ出た。
「……何がおかしいんだよ」
誰に言うでもないその呟きを聞き取ったのは、もちろん隣にいた友人だけだ。
きょとんとした顔で俺の方を見つめるその視線に気付いて、慌てて取り繕うように言い訳をする。
「あ……今のは、お前に言ったんじゃない。つい出ちゃっただけで、そのー、独り言」
「……それは分かってるけど。初めて見たな、杏介がイライラしてるとこ」
珍しい、なんて言いながらうどんを啜っている友人を、今度は俺の方がきょとんとした間抜けな顔で見つめてしまった。
「……イライラしてる? 俺が?」
「うん。鏡見てみなよ、めちゃくちゃブサイクな顔してるから」
「……可愛くない?」
「お前を可愛いと思ったことはないけど、今は特に可愛さの欠片も無いな」
その言葉は引っかかるが、自分でも眉間に皺が寄っていることに気付いたので口を噤んだ。
いつからこんな可愛くない顔をしてたんだろう、と言おうとしてから、こいつはきっと「前からだろ」なんて憎たらしいことを言うだろうからそれもやめた。
「……アレさえ無ければ、って」
「ん?」
「さっき、ゼミの子たちが話してるの聞いちゃってさ。中野くんは、もったいないって……アレさえ無ければいいのにね、だってよ」
「アレって……女装?」
「まあ、そうだろうな」
ずるずると麺を啜っている友人に倣って、俺もどんぶりを持って勢いよく口にかっこんだ。
普段なら、化粧崩れを気にしてもっとお上品に食べるところだが、今はあいにくそんな気分ではない。そもそも、いつもの俺ならこんなドーンと肉だけが乗っかった丼ものなんて注文しなかっただろうな、と少し冷静になってきた頭で考えた。
「なんだ、それでイラついてたんだ。でも、今さらだろ? そんなこと言われ慣れてるんだと思ってたけど」
「慣れてるけど。失恋直後の繊細な心にはぐさーっと刺さったんだよ」
「失恋って……どうせ今回も顔だけで選んだくせによく言うよ。しかも今年に入って何人目だっけ?」
「うるさい。振られたんだから失恋は失恋だろ」
がつがつとひたすら肉と米を口に放り込んでいく俺を、友人は珍しい動物でも発見したかのように笑いながら見つめている。俺が人前でこんなに感情をさらけ出すことなんてそうそう無いから、面白くて仕方ないのだろう。性格の悪い奴だ。
「そんなに落ち込むくらいだったら、女装なんてやめれば?」
「……まあ、それが一番平和なんだろうけど。でも、ありのままの俺を好きになって欲しいじゃん?」
「気持ち悪いこと言うなよ。しかも贅沢だな」
「ぜいたく……うん、そうだな。欲張りなのは治らないからしょうがないか。次行こう、次」
「開き直るなよ」
一方的に愚痴を吐き出しただけだが、少し気分が落ち着いた。
彼女に振られようが女の子たちに馬鹿にされようが、やっぱり自分の好きなものは変えられないし、変えるつもりもない。俺のすべてを受け入れて、まるごと愛してくれる女神のような人に出会えることを期待するしかないのだろう。
「とりあえず、うちのゼミに女神はいないってことは分かった。なあ、可愛い女の子紹介してくんない?」
「……本当に懲りないな、杏介は」
「もう、杏子って呼んでってばぁ」
「死んでも呼ばない」
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