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「あ、でも、うちの親がそういうのに結構うるさいんだよね。嫁入り前に同棲なんてけしからん! とか言われるかも」
「あー、それはそうだよね」
「特にお父さんがうるさくて……まあ、もう大人なんだし、親の許可なんて無くてもいいけどさ」
「そういうわけにはいかないでしょ。じゃあ、挨拶しに行かなきゃね」
いつにしようか、なんて言いながら杏介くんは手帳を取り出して、スケジュールを確認し始めた。早速行動に移すつもりでいるらしい。
「え、ほ、本当に!? 挨拶って、そこまでしなくても」
「でも、こういうのはちゃんとした方がいいでしょ。恭子さんのお父さんお母さんに嫌われたくないしね」
「うーん……でも、同棲するって言ったら反対されるかも……」
「結婚を前提にって言ってもだめ?」
渋る私に、杏介くんは何でもないことのようにさらっと聞いてきた。
ケッコンをゼンテイに、って。
今、結婚を前提にって言った?
「けっ……こん?」
「うん。だって、いつかはするでしょ?」
「え……そ、そう、なの……?」
さも何でもないことのように杏介くんは言うけれど、私からしてみたら一大事だ。
今まで彼との間で結婚の話が出たことなんて一度もないのに、杏介くんは当然のような顔をしている。そもそも、プロポーズだってされていないのに。
そんな私の困惑が伝わったのか、杏介くんはちょっと拗ねたようにぼそぼそと呟いた。
「……なんだ。したくないの? 俺はしたいと思ってたけど」
俺だけだったんだ、なんて彼が寂しそうに言うから、私は慌てて口を開く。
「し、したいよ! え、でもその、急じゃない? こんなもん?」
「こんなもんっすよ」
「ほ、ほんとに? 私と結婚したいって、ほんとに思ってる?」
「うん。そんなに疑われると傷付くんすけど」
「えー……マジかぁ……」
自分を落ち着かせようと、少し冷めたコーヒーに口をつける。ほんのり苦いそれをごくりと飲み込んでから、数回深呼吸を繰り返した。
私はこんなに慌てふためいているというのに、杏介くんはいつもと変わらない様子でじっとこちらを見据えている。きりっとした切れ長の目は一瞬も逸らされることはなくて、私の真意を窺っているようにも思えた。
そのまま私もじっと彼を見つめていると、ふと杏介くんの瞳が不安げに揺れた。私はそこで初めて、いつもと違う彼の様子に気付く。
「……杏介くん、緊張してるでしょ。変な敬語使ってるもん」
「……そりゃ、緊張もするよ。やだとか言われたら超ヘコむもん、俺」
「ふふっ、珍しいもの見ちゃった。杏介くんでも緊張するんだねぇ」
「からかわないでよ。……それで、どうなんすか?」
どう、と聞かれても、答えはすでに決まりきっている。
でも、いつもとは違う余裕のない彼にちょっと意地悪したくなって、「どうしよっかなぁ」「急に言われてもなぁ」なんて焦らしながら、仄かに頬を赤らめている珍しい彼の姿を堪能した。
「……あんまり意地悪すると、あとでやり返すよ」
「え。そ、それは困る」
「困るんだったら早く答えて。俺と結婚する気、ある?」
不穏な空気を感じて、私は勢いよく頷いた。これ以上焦らして彼の機嫌を損ねたら、本当に後で痛い目を見ることになりそうだ。
それに、ここまで言ってくれた杏介くんに、私だってきちんと返事をしたかった。
「私も、杏介くんと一緒に住みたいし、結婚もしたい。これからもよろしくお願いします!」
「はー……よかった。こちらこそよろしくね、恭子さん」
そう言いながら、杏介くんが私の頬に可愛らしいキスをひとつ落とした。お返しをするように私も彼の頬にちゅっと軽くキスをすると、今度は唇に優しく口づけられる。
「……挨拶、何着てくの?」
「それはー……また後で考える。今は、恭子さんに集中したい」
だんだんと深いものになっていく口づけを受け入れながら、私も彼との甘いひとときに浸りきることにした。
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