1936人が本棚に入れています
本棚に追加
挨拶に行く時はお固いスーツを着ていくのだと、日程が決まった時から杏介くんは張り切って準備をしていた。別にどんな服でもいいのに、と口を挟む私に、杏介くんは呆れ顔で「彼女の両親に初めて会うのに女装していく勇気はさすがに無い」と言われてしまった。
そのついでに、黒髪の方が印象良いよね、なんて言って杏介くんはついこの前美容院に行って染め直してきたばかりだというのに、そんな彼の努力は父には伝わらなかったようだ。パーマなんて予想外のところでケチをつけられて、私の方がムカッとして思わず父に突っかかってしまった。
そして案の定、それをきっかけに私と父の間で小一時間ほど押し問答が続いた。
年下の男なんて頼りにならないだとか、結婚する前に一緒に住むなんてふしだらだとか、いきなり来て結婚だなんて早すぎるだとか、父はとにかく私と杏介くんの同棲を反対してきた。あの時の杏介くんの居た堪れなさそうな顔を思い出すたびに申し訳なくなる。
「しかも杏介くんが公務員だって知った途端に手のひら返して、『そういうことは早く言いなさい!』だって! これだから頭固いオヤジは……!」
「まあ、俺としては助かったけどね。公務員で良かったって初めて思った」
杏介くんはそう言って笑ったけれど、私はまだ父への苛立ちが収まらなかった。
頑固なのは昔から知っていたが、娘がやっと結婚相手を連れてきたというのに「おめでとう」の一言も無いなんて薄情ではないだろうか。そのくせ細かいところでケチをつけるのだから、最初は下手に出ようと思っていた私も黙ってはいられなかったのだ。
「恭子さん。家まであと二時間くらいかかるし、ちょっと休憩する?」
「あ……うん! そうしよっか」
「この辺、どっか車停めれるようなとこあるかな。恭子さん分かる?」
「えーっとね……あ、ちょっと脇道に逸れるけど、夕陽がよく見える展望台ならあるよ! 駐車場もあったと思う」
「いいね、そこ行こっか。ナビお願いしていい?」
「うん、了解!」
杏介くんの提案に乗って、実家に住んでいた頃に何度か行ったことがある展望台を目指すことにした。この辺りはまだ地元と呼べる場所だから、スマホを見ずとも案内ができる。
ハンドルを握る彼に口頭で道案内をして、少し方向を変えて展望台へと向かう一本道までたどり着く。すると、膝の上に置いていた私のスマホが振動した。
「ん? ……あれ、お母さんからだ」
画面をタップしてスマホを耳に当てる。ついさっき家を出たばかりなのに電話がかかってくるなんて、もしかしたら何か忘れ物でもしただろうか。
最初のコメントを投稿しよう!