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「お母さん、なんだって?」
「……お父さんが、泣いてるって」
「え。……泣いてるの? 本当に?」
「うん……たぶん、寂しいんじゃないかって。さっきも、本気で反対してたわけじゃないから、また近いうちに帰っておいでって……言われた」
「……そっか」
杏介くんはほっとしたように表情を緩めて、それからしかめっ面をしている私の頭にぽんと優しく手を置いた。
ちょうど夕陽が沈んでいっているのか、辺りはだんだんと暗くなっていく。シートベルトを外した杏介くんが、まだ難しい顔をしたままの私に問いかけてきた。
「恭子さん、降りないの? 夕陽、もう沈んじゃうよ」
「……うん。いい。ここにいる」
せっかく展望台まで来たけれど、今は夕陽を楽しんでいられるような気分ではなかった。
私が首を横に振ると、杏介くんは何も言わずにシートにもたれかかる。夕陽は完全に沈んだのか、さっきまでオレンジ色に染まっていた景色はもう暗闇に包まれてよく見えなくなってしまった。
「……私、お父さんの気持ち、全然考えてなかった」
暗くなった車内で、私はぽつりと呟いた。杏介くんが顔をこちらに向けて、私の言葉の続きを待っている。
「頭固いとか、考え方が古いとか、細かいとこにケチつけて腹立つとか……もっとひどいことも言った気がする」
「……恭子さん」
「はあー……やんなっちゃうなぁ。いい年こいて、子どもみたいにケンカしちゃってさ。結婚の挨拶くらい、和やかにできればよかったのにね」
そう言って笑ってはみたけれど、自分でも分かるくらい不恰好な笑顔になってしまった。
父に申し訳ないという思いと、父の気持ちを慮ろうともしなかった自分への自己嫌悪が、重石のように心にずしんとのしかかる。今にも涙が零れ落ちそうになるけれど、泣いてしまったらそれこそ子どものようだ。
ぐっと下唇を噛んで俯いていると、ふと隣から伸びてきた大きな手が頬に添えられた。
「恭子さん。そんなに噛んだら、切れちゃうよ」
「……いいもん、別に」
「よくないよ。ほら、こっち向いて」
顔を上げると、そこには暗闇でも分かるほど綺麗な杏介くんの顔があった。今日はスーツ姿だからメイクはしていないのに、相変わらず透き通るような白い肌をしている。
彼は今にも泣き出しそうな私の顔を見てふっと笑ったかと思うと、ゆっくりと顔を近づけてかすかに触れるだけのキスを落とした。
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