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「中野 杏介」
「……ん?」
聞き間違いだろうか。
彼女がぼそりと口に出した名前は、一般的には男性の名前であった気がする。
私はもう一度彼女の顔をじっと見つめた。
印象的な切れ長の目は、くるんと上向きになった長いまつげで縁取られている。すべすべの綺麗な肌は白く、唇には今年トレンドの濃い目の口紅が塗られている。
それに栗色のさらさらロングヘアに、シンプルな白のTシャツ、そして可愛らしい大花柄のスカート。
──うん。やっぱり聞き間違いだな。
「ごめん、よく聞こえなかった。もう一回言って?」
「……中野、杏介。二十七歳、彼女なし。市内の文化財研究所で働いてる。ちなみに、男」
「おと……」
おとこ?
男って、あの、身勝手でガサツでデリカシーのない元彼と同じ性別の、男?
今まさに私の目の前にいる、このおしゃれで綺麗な人が?
「おと、こ……」
「うん。騙すような真似してごめん。あ、ていうか二十八なら年上か。すんませんっした」
ぺこりと頭を下げられたが、今は正直年齢なんてどうでもよかった。しかも一つしか変わんないし。
「どうしても、あなたと話したくて。卑怯かと思ったんすけど、この格好なら警戒されないかなと思って、声かけました。すんません」
軽い口調ながら、彼女──いや、彼は、申し訳なさそうに頭を垂れた。
ぽかんと口を開けたまま一言も発さなくなった私を見て、彼は少し悲しげに笑う。
「……やっぱり、嫌っすよね。こんな女装男。すんません、約束通りここは奢るんで、今日はもう」
帰りましょう、と彼が言うのと、私がそんな彼の顔を両手で鷲掴んだのはほぼ同時だった。
今度は彼の方が驚いて目を見開いている。カラコンも入れているのか、大きな黒目に私の興奮した姿が映し出されていた。
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