マヌさん

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マヌさん

 自分でもそれなりに頑張ったと思えるぐらいにはちゃんと勉強して、志望の高校に入ることができた。  そして直ちにやってみたかったバイトも始めた。 「女子高生が蕎麦屋?」と友達に言われたけど、蕎麦好きの私が、まかないの事を真剣に考えて決めたバイト先なので満足している。  そこそこ古い蕎麦屋だけど敷居はそんなに高くない。従業員やお客さんの年齢は高め。そのせいもあって高校生の私は、かなり可愛がられている。私の働く姿に「健気やな~」と涙ぐむおばあちゃんもいる。たまにお尻を触ってくるジジイがいるが、そんな時は店の大将が怒鳴りつけてくれる。そして何より、まかないが素晴らしい。特にコロッケ蕎麦がたまらない。  実は、私以外にもう一人若いバイトがいる。  皆から『マヌさん』と呼ばれている大学院生の男子は、皆から『イケちゃん』と呼ばれている私も志望している、なかなかに良い大学に通っている。  大将が言うには「こいつは大学で落研に入ってるらしいんだが、まあ全然話を憶えらんないし、上達もしない、一向に面白くもならない。そんなんだから阿保馬鹿亭間抜(あほばかていまぬけ)てな名前を付けられちまって、そっからマヌさんと呼ばれるようになったらしい」そうだ。ちなみに本名は「履歴書には書いてあったが忘れた」そうである。  落語の話も憶えられないのに、よくあの大学に入れたなと思った。若干痩せ気味ではあるが、ルックスはまあまあな男子なのだけれど。  とにかく、従業員もお客さんも、彼を『マヌさん』と呼ぶので、年上なので少し躊躇いもあるが、私もそう呼んだ。  マヌさんは、バイトの業務もイマイチだった。注文間違いは日常茶飯事。皿は割りすぎて、マヌさんがバイトに入ってから2年で全ての皿が新品になったらしい。普通なら、とっくの昔に辞めさせられてもおかしくないのに、なぜ今も居座れているかと言うと、マヌさんがバイトの面接で、「自分は蕎麦好きでいろんな店を食べ歩いたけれど、この店が一番美味しかった」というような志望理由を語ったからだと、パート歴17年の田辺のおばさんから聞いた。  マヌさんも私と同様蕎麦好きだったのだけど、レベルが違った。マヌさんは食べ歩きどころか、そば粉の産地歩きもしてるという。と、いうかマヌさん、大学院で蕎麦の品種改良だかの研究をしているらしい。そんな人に一番美味いと褒められたら、そりゃ大将も気を良くするかと。  マヌさんは、その知識を生かし、大将に助言をしたりもしているらしく、常連客の間では、日に日に蕎麦の味が上がってるという評判だ。そんなこんなで、今日もお皿を2枚割ったけど、マヌさんは働き続けている。  ある日、マヌさんから唐突に「嫌いな食べ物ってなにかある?」と、聞かれたので「和菓子類が苦手かな。饅頭とかですかね」と、答えた翌日、マヌさんは私に饅頭を手渡した。何の嫌がらせかとムッとしていると、マヌさんは私を見てニヤニヤしている。要らないですと、手のひらに乗せた饅頭を突き返すと、首を傾げながら「え?食べないの?」と不思議そうに言われた。 「嫌いなんだから食べないに決まってるじゃないですか!」とプンと頬を膨らませて言うと、「え~落語好きなら乗ってくれると思ったのに」と残念そうに嘆いた。  蕎麦好き以外にもう一つ、私とマヌさんには共通するものがあった。  私は落語が好きなのだ。元々はお父さんが落語が好きで、家でも車でも絶え間なく聞いていたのが私の耳にも自然に入り、物心がついた時には、落語家と話を指定して父親にリクエストしていた。ちなみに私が蕎麦を好きなのも、古典落語の演目『時そば』きっかけであって、コロッケ蕎麦が好きなのは、時そばを演じる、ある落語家のマクラ(演目本編に入る前の導入話)で出てくるからだ。  落語というキーワードでは共通しているけど、マヌさんは落語が好きな訳ではなかった。己の会話能力を上げるきっかけになるんじゃないかと始めたものなので、本人的には嫌いな教科の勉強をしている気分らしい。「嫌いなものは中々頭に入らないでしょ?」と落語が上達しない理由をそう自己分析していた。 「それを言うなら、『まんじゅう・き・ら・い』じゃなくて、『まんじゅう・こ・わ・い』ですよね?」    と指摘すると「あれ?こわいだったっけ?」と突き返された饅頭を見つめながらまた首を傾げている。どうやらマヌさんは、誰もが知っている古典落語『まんじゅうこわい』を私に実践しようとしたのだ。 ―――男達がそれぞれ自分の怖いものを言い合っていると、一人の男が「饅頭が怖い」と告白し、悪戯してやろうと男に饅頭を与えたら、怖い怖いと言いながら饅頭を食べてしまい、他の男達が騙されたことに気付くという話――― 『コワイ』ものと聞かれてたら、ピンときたかもしれないけど、『キライ』なものと聞かれたからさすがに反応は出来なかった。たまたま私の嫌いなものが饅頭だったせいで、マヌさんは洒落が通じたと思ったというオチ。 「でも、キライでも話は成立するよね?だからどっちだったか分からなくなるんだよ」とマヌさんは言うけど、古典落語の有名な話だし、タイトルが『まんじゅうこわい』なのだから、そこは変えちゃダメだよと注意した。なんで難関大学に通ってて、コワイとキライを混同する事態に陥るのか?  きっとあれ。天才とナントカは紙一重の、その紙一重の境界をフラフラとしている人なのだと思う。
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