小夜子

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車を走らせる事二十分、やがて目的地に着いた僕は、件(くだん)の物件の前で車を降りた。 コンクリートの床に初夏の光がまぶしいほど照りかえる。 ジリジリとした日差しに顔を背けながら、僕は目の前にある建物を見上げた。 鉄筋コンクリート製で築数十年といったところだろうか。 一見貸しビルのようにも見えるが、入り口には『黄昏荘』という、経年劣化で今にも落ちてきそうな看板が貼り付けてある。 周囲をビルで囲まれているせいか、部屋の内部に光は行き届いていなさそうだった。 そのせいか、建物の中はいかにもといった暗い印象。 蔦の絡まった石壁には、何やら訳の分からない落書きがのたうつように書かれている。治安も余り期待はできなさそうだ。 これなら家賃三万五千円の前の古巣の方がまだましだった……。 世の中そう上手い話は転がっていないと言ったところだろう。 半ば諦めモードの僕は、これから一年間お世話になる住まいを確認すべく、黄昏荘へと足を踏み入れた、が、 ──カツン 僕のつま先に何かが当たった。 確認すると、それは箒(ほうき)だった。 「えっ?うわぁっ!?」 いつの間に現れたのか、僕の横に腰の曲がった老婆が、塵取りと箒を手に持ち、せっせと地面を掃いていた。 「あっすみません、僕今日からここに、」 と、そこまで言いかけて、僕は箒から逃げるようにして入り口の石段に飛び退いた。 老婆には、まるで僕が見えていないのか、その場で箒を一心不乱に振っている。しかも何やら独り言のようにぶつぶつと呟いていた。 そっと耳を澄ますと、微かに、 「肉……が」 と、しわがれた声が聞き取れた。 今晩の買い物か何かだろうか?とにかく何だか異様過ぎて気持ちが悪い。 ふうっと軽くため息をついた後、僕は建物の中へ入る事にした。 思った通り、中は昼間だというのに異様な暗さだ。 カチカチと音を立てながら点灯する、赤熱電球の僅かな明かりを頼りに、二階へと上がる。 窓がないせいか、陽の光も差してこない。二階へと上がっているのに、まるで地下に潜っているかのようだ。 階段を登り角を曲がると、等間隔に並んだ、塗装の剥がれた鉄製の重たい扉が見えた。 「202……202と……あった」 仲介業者から貰った鍵で、早速部屋のドアを開けようとポケットに手をやると、 「あっ……まじか……」 やってしまった。 鍵がない。 引越し用に借りた車の中だ。 仕方なく部屋を離れ、角を曲がり階段を降(くだ)ろうとした時だった。 「ねえ、学生さん……」 突如した声に、思わず足が止まった。 「えっ?」 短く返事を返す。 「学生さんってば……」 よく見ると女性が一人、暗がりの踊り場に腰掛けて此方を見ていた。 しかも一目でかなりの美人だと分かる。 髪は短く黒髪で、目鼻立ちはすぅっと通っており、切れ長の目には、妖艶な瞳が灯るように潤んでいた。 思わず息を飲むと、女性はソレを見透かしたように、クスリと小さく妖しい笑みを零した。 「学生さん、煙草一本、恵んでくんない……?」 女性は細い声でそう言うと、懇願する様な瞳で見上げてきた。 「え?あ、はい、い、いいですよ……」 急に言われ慌てて胸ポケットを探り煙草の箱を取り出すと、そこから一本手に取る。 そして目の前に差し出された、女性の透き通るような真っ白な手の上に、そっと置いた。 その瞬間、 ──ガシッ 突然だった。差し出した俺の手を、女性が強く掴んできたのだ。 「うわぁっ!!なっ何を??」 「くくく……あははっ」 握られた手を、驚きと恥ずかしさからか慌てて振りほどくと、それを見た女性がさっきよりも大きく笑った。 「えっ?ええ??」 もう何が何だか分からずにいると、女性は余程おかしかったのか、目に浮かんだ涙をそっと人差し指で拭ってみせた。 そしてすっとその場で立ち上がり、僕の口を塞ぐように人差し指を立ててこう言った。 「ま……とりあえずあんたが人間だって事は分かったよ」 「えっ?に、人間って」 「言った通りの言葉だよ、あんたも、ここに住むなら気をつけな」 聞き返そうとする僕の返事を待たずに、女性はそう言った。 「ちょ、ちょっと待ってください!一体さっきから何を……!?ここがいくら事故物件だからって……あっいや、」 言ってから僕はハッとなった。 会ったばかりのアパートの住人に、こんな事言ってよかったのかと。 バツの悪そうな顔をしていると、女性は僕の顔を覗き込むようにして口を開いた。 「ここに来る前、誰かに会ったかい?」 誰か? 「え?ああ、えっと、お婆……さん、玄関の前で掃除していたお婆さんが一人」 すると女性は、口元を小さく歪めて、 「あぁ……あのババア、まだやってるんだ」 と吐き捨てるような口調で言った。 ば、ばばあって……随分口が悪いぞこの人。 と、僕は胸の内でボヤいた。 「ま、まだやってるって、何がですか?掃除を?」 尋ねると、女性は軽くため息を吐いて、首を二~三度横に振ってみせた。 「三年前、このアパートの四階から、ババアの旦那さんが飛び降りたのさ、頭からコンクリートの床にズドンってね。で、その時下に飛び散った旦那の肉片を、片っ端から箒で掃いてたよ、一心不乱にさ」 「えっ……ええぇぇぇっ!?じゃ、じゃあさっきのお婆さんは!?」 「婆さんは亡くなったよ、一年前に」 「はっ、はいぃぃぃっ!?」 もう意味が分からない。さっきからこの女性は何を言ってるんだ? 混乱する僕を他所に、女性は話を続ける。 「爺さんを自殺に見せかけて殺したんだと。それがバレて警察にね。後はそのまま留置所でぽっくりだとさ。家賃も溜まってたってのに」 「あ、あの!さ、ささっ、さっきから何言ってるんですか!?自殺?殺人?だ、大体僕はさっきそのお婆さんを見たんですよ!?あそこの、」 アパートの入り口を指差しそう言いかけた時だった。 僅かに開いた入り口から漏れる外の光、それに重なるようにして、ドアの隙間からこちらをじっと見つめる人影が揺らめいた。 見覚えがあるシルエット……先程、このアパートに入る前に見た、あの老婆の姿だ。 目を凝らしジッと見つめた瞬間、ドアの隙間からこっちを見つめる、老婆の顔が……。 「うわぁぁぁっ!!」 僕は叫び声を上げ、思わず踊り場で尻餅をついてしまった。 慌ててドアに目をやるが、そこにはもう誰もいない。 代わりに、ドアの裏側には、煤(すす)けた箒と、ヒビ割れかけた塵取りがセットになって立て掛けられていた。 今のは……一体……何だ?? 余りの事に呆然としていると、目の前に立っていた女性から突然、口の中に何かを突っ込まれた。 「うぐっ……!」 自分の口元を見る。煙草だ、さっき僕が渡した。 見上げると、女性は違う煙草を口に咥え、此方を見下ろしながらクスリと微笑した。 自分の煙草……持ってるんじゃないか。 心の中でそうボヤいていると、突然、女性の顔が僕の顔に急接近してきた。 えっ?ええっ? 思わず硬直していると、僕が咥えている煙草に、女性は自分の口で咥えた煙草を、そのまま押し付けてきた。 煙草の先端から、灰色の煙がもくもくと立ち昇り始める。 「悪いね、私メンソール苦手なんだ」 そう言って女性は立ち上がり、うまそうに煙を吹き出すと、真直ぐ立ち昇る煙を見つめた後、ゆっくりと階段を登り始めた。 「あ、ああ、あのっ!!」 思わずその後姿に声を投げかけた。 何を言えば、いや何を聞けば? さっきから混乱し続ける頭を抱え、何とか絞り出した僕の言葉は……。 「お、お名前……を」 明らかに間抜けな声だった。 けれど女性は立ち止まり、ゆっくりとこっちに振り返る。 「小夜子……ここの管理人だよ、今日からよろしくね、学生さん」 そう言い残し、小夜子と名乗った女性はまた階段を登り、今度こそ去って行ってしまった。 呆然とした僕はその場に一人取り残されてしまった。 ジジっと、溜まった煙草の灰が零れそうになり、思わずハッとして我に返る。 僕は 何とか立ち上がると、フラフラとしながらアパートの外に出た。 暗がりから出たせいか、外の日差しがやけに眩しい。 正面を見ると、向かいの堀から覗く七夕の笹が、短冊と共に風に揺らいだ。 蒸すような熱気が、一瞬だけ和らいだ気がした。 ふと、胸ポケットにしまった煙草を取り出す。 「切れた……か、コンビニでも行くかな……」 そう呟くと同時に、僕の頭に先程の光景が頭に浮かんだ。 煙草と煙草、シガーキスってやつだっけ……。 思い浮かべると同時に、胸の内で大きな音が鳴った気がした。 「メンソール、やめようかな……」 煙草の箱を手の中で丸めると、僕はコンビニへと足早に向かった。
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