escape

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舞台は18世紀、ヨーロッパのどこか。  僕の名はロバート・ジョンソン。 しがない田舎の学生だ。 僕は生まれてこの方、人形というものに嫌悪感を抱いている。何故か?  姉のソフィアが10年前に人形のように体が硬くなり関節が球体になる奇病を患ったためだ。 田舎から上京して都会のパブで女優を目指して挙げ句の果てに奇病にかかり、出戻りに。満足のいく治療も受けられずに死んでいった。  医者を恨みはしなかった。 彼曰く、こんな症状は人間の体ではまずあり得ないのだと。 そう言って心を尽くしてくれた人だからだ。だが俺はその真実を否定すべく医大を目指し、見事合格。 友人も作らず勉強に明け暮れた。  そんな毎日が続き、軽くノイローゼを起こしていたのだろう。  何を思ったのか寄宿舎近くのおもちゃ屋のショーウィンドウが目に入った。  一瞬、俺は何かの間違いであってくれと神を呪った。 ショーウィンドウに飾られている60センチ大の人形が姉そっくりに見えるなんてどうかしている。 「ははっ、ついに俺も逝かれちまったか。」乾いた笑いと冷や汗が頬を強張らせる。 いや、そんなはず、姉の死体はちゃんと燃やしたはずだ。 葬儀は雨の日だったことをよく覚えている。 姉の友人や親戚はさめざめと泣いていたのに妙にホッとした表情の両親。 俺はまだ幼く、何故、親戚連中が泣いているのか何故、両親がそんな表情をしたのかわかっていなかった。 動揺していると人形が俺に笑いかけ気がした。 すると同時に気配を感じて肩を揺らす。 「坊ちゃん。お気に召しましたかな?」 テノールの穏やかな声が後ろから聞こえる。 振り返るなと本能の警鐘がなる。 ダメだ、ダメだ。 後ろにいるやつは相当やばい。 言いようもない恐怖が足元から這い上がってくる様だ。 「坊ちゃん、君の願いはきっと満たされる。このおもちゃ屋に入ればね。」 甘い囁きが耳元をくすぐり、自然とおもちゃ屋に足を進める。  そう、まるで操り糸が付いた人形のように。 規則正しく手足を動かして中に入っていく。自分と意思とは相反して。 止まれ!止まれと何度、手足に念じても無駄だった。  何だこれは何で俺はおもちゃ屋なんかに…。 「それが坊ちゃんの心の奥底の願いだからですよ。」 ニヤニヤといつのまにか俺の目の前にいる老紳士が笑う。 その笑みは宛ら悪魔のように蠱惑的な怪しさを含んでいる。 「やめろ…俺はこんな事、望んでいない。」 「やめろと言われましても無粋なことはしたくありませんからねぇ。」 ニヤニヤと笑う老紳士を横目に俺の歩みは止まらない。 ショーウィンドウの裏まで来て足を止める。 辞めろ、辞めてくれ。 その人を手に取らないでくれ!  紳士の地鳴りのような笑い声が響く。 だが俺はショーケースに手をかけて開ける。 月明かりに照らされて薄暗い店内の中、反射する銀髪の人形。 嗚呼、間違いない。 俺とそっくりの銀髪。 恐る恐る手に取ると軽く、人間のような体温が生々しく伝わってくる。 「どうぞ、どうぞ、お顔も覗き込んでくださいな。」 言われるがまま、顔を覗き込む。 嘘だ、嘘であってくれ。 その願いも虚しく月明かりが晒した顔は姉と瓜二つ、否姉そのものの顔をしていた。 「どうでしょう?お気に召しましたでしょうか? その人形はこのおもちゃ屋の目玉商品! 銀月の髪、湖面の様なブルーダイヤの瞳! お代は結構、お客様を待っていたのだから!」 歌うように、囁くように彼は人形を説明する。その囁きは俺の耳には届かない。 記憶の忘却の彼方へと思いを馳せていた。
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