うつつにも 鬼一口

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うつつにも 鬼一口

 深い霧があった。伴の下人は「一休みしませんか」と言って、竹の水筒を差し出した。下人はたいそう疲れた顔をしている。男は朝から一度も休んでいない事に気づいた。  下人は主人がいつものように自分から体を痛めつけているのがあいありと分っていたので、わざとそんな表情をして見せたのだ。 「ああ」と主人は下人が聞き取りにくい小さな声で返事をした。  山道はそれほどきつくはなかった。普段なら商人が行き交う道である。  主人は懐紙に何かを書き付けては、ため息をついていた。 「ついて来るのではなかった」というのが下人の正直な気持ちだった。  主人は衣を脱ぎ、下人の差し出した水筒を受け取って、一口飲んでから汗を拭った。今さらながら山の冷たさに気づき身震いをした。  下人にはこの旅が主人の物見遊山としか見えない。仕事のためならばいざしらず「ついてきてはくれぬか」といわれとる物もとりあえず、旅に出たのだ。  しかし主人の憂鬱な顔を見ればなにもいえない。  主人は都ではまれにみる美男子だった。女どもはたとえ身分の低い物であっても、噂をし、憧れていた。 「誰か来る」と主人はいったが、下人にはその気配すら感じられない。。  主人は道の辺の大きな蓮の葉もこの霧に濡れていることに気づいた。  葉は露をはじき、いくつもの玉(ぎょく)のようにたまって、ころころところげていた。 「白玉か・・・・・・」主人は呟いたが、下人は「また始まったか」と聞かぬふりをした。 主人はうっすら涙をためる。 「この峠を越えれば富士も見えましょう」  下人は励ますように言った。  主人は懐から紙を取りだし、矢立の筆を走らせると「あいたいものだ」とため息をついた。  その姫を初めて見たのは、朱雀門に通じる都大路だった。牛車や荷を担いだ商人、流行の衣を身につけた若者、人いきれ、ざわめきに満ちた、沢山の人々、牛車の臭息、馬の息。排泄物。ゴミのように捨てられた、物乞い。徘徊する、戦で家族を失った浮浪児が行き交う。、  燃えるような朱の杖に、薄らととした単衣に鮮やかな花柄と着物すかされる。深いかさから、白く尖ったあご見えて鮮やかな紅が輝いていた。 この煤けた群れのような民衆のながれのように、ひとつ瑠璃色に輝く珠のようだった。  この姫は付き人を二人したがえ何か話しかけ、扇で口をかくし笑っていた。 「どこの姫であろうか」  下人はすぐに答えた。男よりもはるかに身分が高く、おいそれと声を掛けられることなどできない。  男はその晩、一睡もできず、百何十首あまりの歌を作った。明け方一番に得心がいったものを短冊にしたためた。 「これをたのむ」と下人に渡した。  下人は「かしこまりました」と言って主人のいつものような憂鬱な顔を見た。  姫からの返事がなかったので,また歌を一首,下人に渡した。 「これでは世の男どもと同じではないか」とくやしがり、一晩に何首もの歌を作った。 「私の歌に、この私の歌になぜ返事をくれぬのか」と日に日に悔しさがつのっていった。「あの方にはもう決まったかたがいらっしゃるなどと聞いたことがない」  その晩も何百首もの歌をしたため、得心のいった者を下人に渡した。  下人は当惑したように「いくらなんでもこれ以上は・・・・・・」と思ったが主人の悲しげな気迫に押し切られてしまった。 「かしこまりました」とすぐに屋敷にとどけた。  男は歌に関して世評も高く、都でも指折りである。姫がその世評を知らぬ訳はない。それにそれらのうたは男にとっても満足のいく者であった、はずだ。 「私の歌になぜ返事をくれぬのか。もしやあのお方にはきまった方がいて返事をくれぬのか」  男は探りを入れるよう下人に言いつけた。もとより男よりも身分の高い姫である。心の底では無理からぬ事だとは思っている。  あのお屋敷に行けば門番に今度こそ斬り殺されるだろう。下人に門番はなんどもなんども釘をさされていたのだ。あきれたように門番は「お前の主人に伝えよ、もうこれ以上来るな、今度来たら命はないものと思え」と門番は下人に深い憐憫を持った目で見つめた。そして深いため息をつき。 「おまえも、愚かな主人を持ち大変だな」と下人をなぐだめた。  男はもう一度あの姫に歌を送ることにした。明け方にやっと得心がいくものができたような気がした。日が山の端を明るくしていた。  男はその一首を下人には持たせず、みずから屋敷に赴いた。  男は門番に自分の名とみぶんをつげた。男の表情にただならぬものを感じ、受け取ってしまった。  身分はさほど高くはない官吏だ。 「これをどうしたものか」  捨てるわけにもいかず、ましてや姫様にお渡するわけにもいかない。そこへ守衛の頭が門から出てきた。 「ご苦労である」  髭が長く、体も大きく武骨であり、とても歌をつくるような事も無いだろう。 「これを……」とおそるおそる門番は手紙をさしだした。「これをお姫様におとどけすることができますでしょうか」 「あい、わかった」 門番から、手紙をひったくると懐にねじ入れた。  この守衛は、強くたくましく、この家では一目置かれている、見かけは恐ろしいが、何があってもこの屋敷を守ってくれるだろう。 ちょうど姫は縁で咲き誇る花を見ていた。ちょうど大きな風が吹き花びらは渦を巻くように舞った。そして姫は袖で涙を拭った。姫は守衛の頭に気づいた。 「あら、どうしたのですか」 「姫様にと、門番がこんなものを受け取ってしまいました」  いつものようにぶっきらぼうな男の態度に姫は思わず笑ってしまった。 「名前は聞いたのですが、だれでしょう。なよなよとした男でした」  くしゃくしゃにまるめた手紙には男の名前があった。 「あっ」と姫は声をあげた。  それは後朝のことだった。朝まだき、男は女の手を引いて門をくぐった。 ちょうど朔で月は出ていなかった。犬がどこかで吠えている。 二人は目が慣れてくると都大路を南に下った。白い壁をこれはだれそれの屋敷、これは誰それの屋敷と目印に都から。  都の外に広がる野に出ると一層闇は暗さをました。 「もうすぐ、川があります。そこで休みましょう」  姫は震えていた。 「ここには鬼が出ると言う噂があります、取って食われるといわれています」 「ばかな、幼い童でもないでしょう」 「少し疲れました。足が痛うございます」  やがて川の潺が聞こえた。少し空が白みつつあった。 「あれは」  女はびっくりしたように小さく叫んだ。  川辺から沼に蓮が生えている。その大きな葉一つ一つに、朝露が転がり光っている。 「まるで、すいしょう。しんじゅのよう」  しばらく女はそれに見とれていた。 「早くしないと追っ手がきますよ」 「はい」と女は答え男をみた。私は捨てるべき者は捨て、この男についていこうとおもったのだ。 男は官吏として内裏に使えていたのだが。出世を願う同僚。上役のいじめ、根も葉もない中傷にあきあきしてた。歌の世界で名をなしていることへの、周囲の嫉妬も感じていた。  女に恋してからは、職務に集中することができず、周りから叱責されることも多くなった。 仕事の落ち度もみずらの才がもともと無かったせいなのかもしれない。この官職につけたのも身分が高い叔父のおかげかもしれない。  簡易な文書の取り違えが多くなった。机に向かっている折、参内した儀式の折には。激しい眠気にも襲われた。  いつもなら、できるはずの文書の作成に間に合わなかったとき、上役から激しく罵声をあびせられた。思わず手に握りしめていた筆を折っていた。上役はそれをみて「こわいのう、あやめられるかとおもうたは」とののしられた。  それから、男は雑用の言いつけられる、閑職においやっれてしまった。同僚はそれを見て見ぬふりをしていた。  男にはそれが耐えられなかった。 「美しい歌でございます。心まであらわれるようでようでございます」と女からの返事をうけたのはそんなときだった。  女は川の浅瀬を歩き、男を振り返った。 「ここから先は鬼が出ると伝らえれています」 「ばかな、まだ鬼などと信じているのですか。そんなものなどおりません」 「私はほとけを、阿弥陀を信じています。きっと阿弥陀は私達を守ってくれるでしょう」  白く流れる瀬を渡り、袴はびっしょりと濡れていた。  女はかまうものかというように、葦原を進んでいた。  つこは傾き、星々は光をうしないつつあった。  どこかで女を呼ぶ声が聞こえたような気がした。 「あなたを連れ戻しにきた者でしょう」  苫屋の陰に二人は身をかくした。  やがて、追っての声は遠く去って行った。 「朝がきます」 「もののけが都から立ち去ろうとするときですね」  遠くから女を呼ぶ声がした。 「追っ手がきた」 「かくれましよう」 女は男を促した。  苫屋のかげに二人は隠れた。  やがて追って野声は遠くはなれていった。 きがつくと低く唸る声がする。狗であろうか、狐狸のたぐいに違いが無い。飢えた獣に食い殺されるのだろうか。 狗の目が闇に光っているのがわかった。 目の光は一匹、一匹とふえていく。全部で十匹になったろうか。 突然一匹の狗がとびかかってきた。 その瞬間狗はなにかにはね飛ばされた。次の一匹が襲いかかるとギャンとくさむらに放り飛ばされた。 もう後の三匹の狗が二人に飛び掛かってきたきたとき、男は狗を太刀さばきもあざやかにきりすてた。 「なんでしょうか」  いぬどもはキャンキャンと四散していった。  刀におびえたのか、狗どもにおびえたのか。ひっしと女は男の背にしがみついた。  女は身を震わせていた。震えは女を重く感じさせる。  そのとき突然男の背から引きはがされるように女は宙を舞った。  大きな影だた。影は大きな手で女をつかんでいた。  女は絞りあげる様な声で叫んだ。  影は丈六仏のようにのっそりと歩き出した。  女はすでに気を失ってる。  男は追い、影の脛に切りつけた。脛は硬く刀は跳ね返された。  次に男は踝のあたりをさした。  影は男を蹴り上げた。蓮の池に転落した。  影は青く煌々と光る目でおとこを睨み付けた。  そしてまたのそりのそりと歩きはじめた。  男は沼から這い上がると、先回りをして木によじ登り影を待った。  木のそばに影が来たとき男は刀を上段にふりかざし、影の目を切った。  影は女を蓮の葉脳の上に落とした。  影は都まで響き渡るような叫び声をあげた。そのとき山の端が光、影は、たちまちのうちに消え去っていた。  男と女は街道を西に向かっていた。子の先には関所がある。  通る人々も少しずつ増えてきた。貴人と姫が泥だらけになって歩いているのはだいぶいぶかしい。 「このままでは、きっと見つかる道をはずれましょう」  二人は山道を折れ森に入った。 「本当にあの影は鬼だったのでしょうか」  女はつぶやいた。 「いや、気の迷いだったのかもしれません」 「鬼につかまれ、宙をまったことなどとてもうつつのこととは思えません」 「気の迷いに、もののけはつけいるものです」  森は昼だというに暗く、木漏れ日は一層眩しかった。まだらに光る女を男は見た。頬が光っている。 「待て」と男は止め、女の頬の汚れをぬぐった。女も袖で男の顔の泥を拭いた。  森を抜けると、白い煙が見えた百姓屋で男に金を与え着物かえた。百姓は汚れているとは言え。きらびやかな衣装に目をうばわれたいそう喜んだ。 「しばらくはこの姿で我慢してください」  女はこくりとうなずいた。  また、街道にでた。ふたたび山を登った役人に疑われることもなく関を越えた。ここをこえればと男は思った。  瀬戸の海はおだやかに輝いていた。この風景を歌に詠んでみたいとは思ったが、今この女へ歌をたくしたいと思ったが何もうかんではこない。  峠を越えるまではあんなにも心が躍っていたにもかかわらず。  影に鬼への憎悪も過ぎてしまえばなのものこっていない。  ただあの野で女が蓮の露を「白玉」といった心の内にのこっている。  歌をうたうものとして、女のあのことばにわずかな嫉妬を感じた。  明石の海も蒼くすんでいた沖には白波が静かにながれていた。浜辺に腰ををおろして、二人は海を見つめていた。いつまでもこうしていたかった 「あそこにいるぞ」という声に振り返ると武具をもった者たちににとりかこまれた。 「姫さまですね」 下賤みなりをしている、といって姫の高貴さは隠しおおせるものではない。 「おもどりください」  二人は捕らえられた。 男はそのまま屋敷に閉じ込められた。やがて女は高貴な方の女房となり、もはや会うことさえできなくなった。  男はすべての公職から外されてしまった。  人々は、口々に男の子とをうわさしたが、女のことにはくちをつぐんだ。  男は都にいずらくなった。  父は「しばらくの間、都から去ってくれ」といわれ。男は肯首しかなかった。  都からはなれ、火をふく山を見たときには、そこに飛び込みたいと思った。伴の下人は主人のその姿を悲しく見つめていた。 「霧がはれてまいりました」  男は顔をあげた。  峠まで上がってきた道が、流れる霧の中に浮かびあがってきた。 「日も陰ってまいりました。早く山をくだりませんと」 「夢でもいい」 「旦那様」 「あの方ともう一度……いやあえるはずもない」  下人はまたはじまったかと「参りましょう」とさきにたった。 「宿を見つけなくてはなりませぬから」  川の潺を聞いた。峠の下りもそう遠くないらしい。  大きな河があった。そこには、夕陽に輝くふじがあった。  下人には、早く宿を見つけることが大事であった。ここ何日も野宿が続きみにこたえていたからだ。  貴人の屋敷でもてなされた。  主人は都からきた男をもてなし、歌を作り合った。  そばに、大きな姫がしおらしく控えていた。  男は歌うたいとしてその名がこの地に知れ渡っている。  悪い都の噂など伝わってはいないのか、知っていても知らぬふりをしているのか。  宿にした貴人の屋敷では新しい着物に替えた。今の衣装は着慣れたとはいえ、ひにやけている。直衣といってもずいぶんくたびれている。  男は屋敷の者に湯の馳走された。ほんの一時、心が安らげたようなきがした。  男は湯殿の外で何か動く気配がした。獣だろうか。男はそいつに喰われてもかまわないとさえ思った。  男と下人の旅は続いた。男は折々に溜息をつくように、歌を何首も何首もつくた。そしてできた歌を筆で消しまた溜息をついた。  下人は男の子とはかまわず歩いた。都においてきてしまった、妻や子が愛おしかった。心配だった。主人にはそのことは伝えられず、ましてやうたにすることもできず、言葉さえしらない。軽い世間話をするようにそのことをこの主人に話しても「ああ」と答えるだけである。  また深い山にはいっていった。草が生い茂る道を掻き分け険しい岩の間をよじ登った、下人にとってはそれはたやすいことであったが。男にとってはいきもたえだえでいきもたえだえで下人に手を引かれて峠を目指した。  浜辺に出た。夥しい数の海鳥が空を舞っていた。下人は鳥の名さえ知らなかったが、鳥たちはかんだかい声で鳴いている。波打ち際を歩くと休んでいた鳥が一斉に飛び立つ。  突然、男は奇声を上げてをあげて、鳥たちを追うように走り回ったり、踊って見せるようにした。そして飛び去り沖を旋回鳥たちをいつまでもいつまでも見ていた。  武蔵の野で宿を取った。下人はもうこれ以上歩けないと。脛を摩った。  この家の主人は「都がなつかしゅうございますな」といった。 「都と申しても、本当に幼い頃に離れてしまったきり、遠い夢だったような気がします」  男は都大路を行き交う人々の喧噪や人いきれ、そして牛車の軋みを想い抱いていた。貴人も町の人々も艶やかにきかざり、洛中洛外は華やいでいた。 「その花筏のような流れの中に、身をまかして流れてみたい」  男の憂鬱な顔色をみてとった主人はしきりに酒を勧めた。 「もはや、わたしにとりましてもこの武蔵が終の棲家となりましょう。ここもよいところでございます」と主人はしきりに男を慰めた。 「ほんに、おまえはにぶいおとこでおりやるな」と上役は男を見て言うのが常であった。  男のしたためる文書のちいさな間違いを見つけ、小声で皮肉交じりに、ねちねちと難癖をつける。  宮中といっても狭い世界である。役所は昼過ぎには閉じられる。しかし男には多量の文書が押しつけられる。その文書の書き込みと税の帳合いをたしかめる。  男が歌よみとして有名となっていくことへの嫉妬も充分にあった。そしてあらぬ女との醜聞も噂された。 「おやくめも、ままならぬのに、ごさかんなこと」と皆は揶揄した。  そんな毎日を男は耐えた。  男が都のことを想いうとうととしていると、傍らに娘がいた。  田舎で育った娘であり、都の娘と比べると浅黒い。歌もましてや文字も知らぬようだ。座興で男が披露したうたに、目を輝かして聴きいていた。  男はこの女を田舎にこそふさわしい醜女であるとおもったが、恥らしくする仕草がまことに可愛らしい。男をもてなすためにあつらえたハレ着も真新しく、所作も上品である。差し出された器にそえられた手も白く美しかった。 男はこの女のために歌を一つ作り送った。女は顔をあからめたが、返事などできなかった。 「このような、田舎ではさみしかろう」と男が問うと、 「いいえ」と首をふった。  都は美しい所だと語ると、 「いいえ、とても望めないことです」と小さく答えた。  男はこの土地の酒に少々酔っていた。  翌朝男は従者と、この土地を流れている広い河を見にいた。一面湿の地帯はどこまでも広がっているようだ。山は遠く蒼くすじを引いたようにある。水鳥が群れていた。  男は都の女のことまた思い出した。そしてあの夜のことを、高まる気持ちを思い出した。  そういえばこの土地はあそことよく似ている。    ここには鬼はおらぬのであろうか。  それはあの鬼へのおそれでもないし、にくしみでもない。ましてやなつかしみでもない。  脱力と失意が男にあった。もはや都には帰りたくない。おめおめとこの情けない姿を女の前にさらしたくない。  男はあの沼の中に倒れ込んだときの泥のにおいを思い出した。  屋敷に帰ると下女が「これを」と短冊をさしだした。あの娘からの歌だった。  決してうまくはない、しかしはじめてうたわれた初々しさがある。  男は返歌を娘におくった。  野を駆ける馬があった。騎乗しているのは、体躯が大きく筋骨も逞しい武者だった。野太い声で馬をけしかけ、弓を満月のように引き絞り、高く高く舞い上がった水鳥を撃ち抜いた。  男は首の長い鳥の足を縄で巻いて馬の背につけた。馬の背には、鴨や鷺、鳶などが結いつけられている。 武者は空に群れている鳥たちに弓を引いた。今度は二匹の空飛ぶ鳥を撃ち抜いた。  男が文机で書き物をしていると、勝手口からどやどや騒がしい。 「どうだ、今日はこんなにも獲物がとれだぞ、腹一杯にしてやる」 「まあ、まあいつもすまないことです」  この屋敷の女の声もする。  こんどは女の「きゃ」と叫ぶ声がした。 「よいではないか」  よほど酒癖の悪い男かもしれない。  廊下を駆けてきたあしおとがすると、女が転がり込んできた。 「どうぞ、お助けください」  女は青ざめていた。 「私はあの男がおそろしゅうございます」 「ここにおれ」  おとこはみじかくこたえた。  武者は荒々しく、部屋を開けはなち、端正に座る男を見て、ぐっと息を呑んだ。 「これは」とすわり平伏した。 「いかに」と問うと 「いや、失礼つかまりました」とそのまま立ち去った。  おんなはうつむいていたが、ぽつりぽつりとかたりはじめた。 「あの男は何代も前からこの地で暮す武人です。父がここに任是らレる前らこの地を夜盗守っていました。私が下女と野に菜をつみにいくときなどよく出会うのですが。それをみて下品に笑ったり卑猥なことばではやしたてたりしていました。何度も何度もいいよられたり、抱き付かれたりしました。私はあの男が嫌いです。薄汚れていて下品で、下女たちを追い回してふざけている。文字さえも読めぬ。花さえ愛でることができぬ。もとよりあの野人にそのようなことを期待するのがまちがっているのかもしれませぬが……このごろではずかずかと屋敷に入り込んで、私に大声で猿の群れを斧で追って崖から突き落としてやった。熊や猪を拳で殺したなどと聞くに堪えないおそろしい話をするのです。  女は体をふるわせてていた。  また男は野生に満ちた大男がこの野を自由に跋渉している姿をうらやましく想った。  梟がほうと啼いた。夜もだいぶ更けてきたのに気づいた。  女は男に何かを言おうとした。  燭台の灯が女の顔を照らしていた。深い陰影で、化粧した肌も張りがあるようにみえる。 女の衣もその模様をほんのりと浮き立たせているようにみえる。女が立ち上がるとき、幽玄な舞をみているようであった。 「こんなにも、長い時間私をかくまって頂きありがとうございます」といい、去って行った。  男はその夜何百もの歌をつくった。  この女の姿を、ことばにとどめておきたいという欲望はもどかしかった。  もはや女は遠国の醜女ではなかった。 「もしかして女はもののけかもしれぬ」  白々となる窓辺に男は気づかず歌をつくりつづけた。 ことばの韻律に助けをもとめていた。  主人は朝早く起き仏前で経をあげた。秋口の冷気は身に浸みた。  男を迎え入れもてなすことができたことはこの上ない喜びであった。このように貴人との縁ができることを前から望んでいたのだ。 「これでわたしも都に行くことができる。見果てぬ夢をかなえることができる」  主人は娘を呼んで「あの方をどう思うか」と問うてみた。 「今朝ほど歌を頂きました」 「見せてみなさい」  貴人は歌を送ってきたという。主人の心は躍った。娘の顔も幸せそうに緩み、うっすらと涙ぐんでいた。このような娘の表情を主人は見たことがない。  歌の調べは美しく雅なものだった。 「これが都というものか」と主人は往事の都に思いをはせた。  昼前に百姓たちがやってきた。いつもとは違う主人の表情に百姓はおどろいた。無表情に顔色一つ変えずに話を訊くこの主人がおだやかに笑みさえうかべている。 あの武人は、この領地の警護もえて群盗から守ってくれていることはたしかなことだ。感謝さえしている。そいつが事もあろうに娘にいいより取り入りようとしていることは、許すことができない。なにより身分が違いすぎる。 またこの武人は女中からも人気が良い。山の奥に咲く花を女中たちのために届け、香木や水晶などもいわかげから探し与えていた。そして娘にはどこで手に入れたのか艶やかな反物や小物などを土産に持ってきた。  しかしそれは娘や主人にとっては不愉快なことでしかなかった。 「助けてください」  女が男に助けを求めてきた。 「父もあの男に何もいうことができずにいます、私をくれなければこの家を守らぬと脅してくるのです」  男はあの武人の貌を想った。髭を蓄え、肌も黒く、体躯は熊のようにおおきく、獣の毛皮を身につけている。大きな弓矢や太刀を担ぎ、吠えるように笑う、眼も獣そのものだ。 「あやつはきっと夜盗と結びついてるに違いない」  都の安穏とした暮らししか知らぬ男にとって、地方の緊張した事情など知るよしもなかった。 「今夜もまたあの男がやってまいります。私を攫っていくというのです。父は何もできません。 あのような身分の男のいうがままになるのは耐えがたいものだと想います」  男にはあのような、男の存在は信じがたいものであった。 「あやつは鬼にちがいない」  男は姫と逃げたあの夜のことを想いだしていた。そして姫を守り切れなかった自分を恥じていた。 「この女と逃げたとしても、本当に守り切れるのだろうか」  男は歌の世界にいきてきたし、公家の身分であった。公家の生活を捨ててここまできたのだ。 「私には歌しかのこっていない。そうそれがいったい何になるというのだ、『歌はあめつちもうごかし』とあるがそんな力などあろうはずもない、ようなきもの、と自らを嘲ってみてもしかたがない。またここからあの女からあの男から逃げるというのか」  女は男に助けてもらいたいと懇願している。 「助けてください」  女は男にもう一度いった。  陽は男の部屋を赤く染めていた。 「逃げましょう、都へ」  男は喉から絞り出すようにいった。 「今夜、家を出ましょう」  女はこくりと肯いた。 「いかがなさいました」  主人の様子を見て、下人が訊いた。「こやつをどうするか」と男は思ったが、この先下人がいなければ旅などできるわけがない。 「私は今宵、都に帰ろうと思う」  下人は驚いて男を見た。 「よいな」  その夜は朔で月影はなかった。下人は松明をかざし、男と女をうながした。風は冷たかった。満天の星は輝いていた。北辰をたよりに野をたどった。女は男の衣をぎゅっと握っていた。女のつけた香が男の鼻をくすぐった。  どこかで鳥が啼いている。獣の唸り声がする。下人が火をかざすと、がさがさと獣は逃げていった。また闇は静寂になった。  女は身を震わしていた。逃げてきたこと。あの武人が追ってこないかと震えている。男が 女の額を撫でるとびっしょりと汗ばんでいるのがわかった。 風が吹いた。冷たく心地が良い。心が落ち着いた様な気が男はした  どこかで女の名を呼ぶ声がした気がした。主人だろうかあの武人だろうか、野のむこうがほんのりと明るくなった。なにかいぶすような臭いがかすかにした。  女は衣の裾を一層強く握りしめた。  野は徐々に明るさを増してくる。 「あの武士が火をつけたのかもしれぬ」と女は涙声で男にしがみついた。 「逃げるんだ」と男が叫んだ。  その時、下人は胸を矢で射貫かれ叢にたおれこんだ。  武士の高笑いが聞こえる。  火は鬼と化し、その腕が二人を掴みかかろうととしていた。男は女を抱きかかえ守った。」腕は男の背をかすめた。背が焼け付くのを感じた。  武士の高笑いが聞こえた。 「また同じ事だ。また同じ事をしてしまったのだ。姫と同じつらさをこの女にも背をわせてしまったのだ」 「あの士はおのでございます。私どもの身分には関係なく無礼をはたらいてきました。我こそが力が強いのだと、なぜあのような領主に従わなくてはいけないのか」と女は震えながらいった。  男は背に火が付いているのもかまわず女をかばって逃げた。  朝になった。 「侍は決して私をあきらめないでしょう。どこまでも」  村が焼けている。昨夜の火攻めのせいであろう。  男はこれ以上女に「逃げましょう」とはいえなかった。 「みをようなきもの」 男は心の中でつぶやいた。                                                              了
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