† 1 †(一話完結)

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† 1 †(一話完結)

 俺は飯田京一(いいだきょういち)。とある大学の理学部化学科の2回生だ。  成績は中の中。試験勉強は一夜漬け。顔は自分で評価できるほどではない。大学入学と同時に茶髪に染めた。友達も少ない。カノジョは人生で1人もできたことがない。サークルにはよく行く。どこにでもいるフツーの理系大学生ってところだろう。  俺が昨年の4月に入った「Circus Scientia(サーカス・サイエンティア)」は、科学サークルだった。  が、それは表向きの顔にすぎず、実態はマッドサイエンスに関する研究を行なう危ない集団だった。略称も「マッド(けん)」だしな。危険な薬を開発したり、蘇生術を研究したり、聞くだけで肝を冷やすようなサークルだと思うが、実際に見たら肝が凍結する。もちろん、本当の意味で肝を凍結させたりなんかする。  外部からの評価を見ずに、安易に決めてしまったのが俺にも問題があったのは事実だが、ネット掲示板には「全国ここはヤバいよサークルワースト100」とかいう不名誉なランキングの80位あたりにあっさりノミネートされていた。逆に、ここよりもヤバいサークルが全国にまだ80個もあるのが不思議なくらいだ。  過去問をもらうためにこのサークルをあえて選んだが、危険な実験の被験者にされるのがこの約1年と4ヶ月の俺の恒例行事だった。とは言っても、なんやかんや楽しいし、毎回参加してしまうのだが。  もう、そろそろで5時か。 今日は5時からいつも通り理学4棟416実験室で実験を行ないます。くれぐれも遅れないように。  まったく、これが近頃のJDのチャットメッセージか? 記号も絵文字もなくて、簡素すぎるだろ。  今朝方に、なぜが個人チャットで送信されてきたメッセージを読み返した。グループチャットで言えば良いだろうに。まあ、あの先輩の考えることだ。俺にはよく分からない。  俺は辿り着いた理学部4号棟の1階にある416実験室の扉を開いた。 「失礼します。あれ、今日は市ヶ谷先輩だけですか」 「そうよ。まったく、誰も来ないなんて、マッドサイエンティストの風上にも置けないわね。にしても、相変わらず飯田君は、ちゃんと来るのね」 「まあ、このサークルが俺の唯一の居場所みたいなものですから」  ヘアゴムを口に咥えた市ヶ谷(いちがや)真衣科(まいか)先輩は、漆のように黒くて長い髪を結って、ポニーテールを拵えていた。  彼女は理学部化学科3回生。俺の1つ上の学科の先輩でこのサークルの長を務めている。美人で首席だが風変わりということで有名だと聞く。 「それより飯田君、聞いてちょうだい!」  彼女は俺に寄ってきて、大きな瞳を輝かせながら、こう続けた。 「レイプドラッグを開発したわ」 「なんてものを開発してるんですか」 「飲んでから5分で効果が出始めて、そこから5時間、持続するの。さらに、効果が切れたときにそこで起こった5時間分の記憶は抹消されるのよ」 「モノホンの違法薬物じゃねえか」 「はい飯田君、それじゃあ試しに飲んでみてくれないかしら」 「なんでですか。先輩が飲んでくださいよ」 「嫌よ。だって、私が飲んじゃったら、正常に効き目が働いているのか考察する人がいなくなっちゃうじゃない」 「だって先輩が開発した怪しい発明品、今までにいくつもラトられましたけど、頭痛、下痢、しまいには手足の痙攣が止まらなくなるものもありましたよね。同期の江戸川(えどがわ)なんてこの前、マッド研特製カレーで食虫毒で救急搬送されてましたよ」 「それはラトったことと関係なかったじゃない。あれはジャガイモ係をしていた後輩君たちが、芽をちゃんと処理せずに入れちゃったの悪いのよ」  ちなみに「ラトる」というのはマッド研のスラングで、実験用マウスのように扱う、という意味だ。スラングが成立してしまうほど、俺ら後輩は数々の実験に被験者として参加させられていた。 「今回こそ大丈夫よ。だから、今回もあなたには実験用マウスになってもらうわ」  どんな根拠からそんなことを言ってるんだ。  彼女は濾紙に乗った赤と白のカプセル剤を、ピンセットでそっと持ち上げた。俺は両手でそれを拒んだ。 「いーやーでーすーよー」 「いーいーかーらー」  俺と市ヶ谷先輩は互いにカプセル剤を押し付けあった。絶対飲みたくない。  と、先輩の手が滑ったのか、薬物は空中に放物線の軌道を描き、あろうことか彼女の口の中に到達してしまった。 「「ああっ」」  ゴクリ、と彼女は白くて眩い喉を鳴らした。薬がみるみるうちに食道を経由して胃の中に到達するようだった。 「どうしてくれるのよ、飲んじゃったじゃない」 「自業自得ですよ」 「まあでも、こうなっちゃった以上は仕方ないわ」 「立ち直り、早いですね」 「マッドサイエンティストたるもの、基本理念として失敗の1つや2つでくよくよしていられないの」  果たして、マッドサイエンティストの基本理念というものがあるかどうかは別としよう。 「時間はきっかしに作ったから、そろそろ効能が発動される頃ね。飯田君、ちゃんとレポートの用意、しておいてね」 「分かりましたよ」  俺はラップトップを開いて、彼女の様子を観察した。 「ねえ、そういえば飯田君って、カノジョとかいるの?」 「いたところでどうなるんですか」 「そう答えるってことは、いないのね。どうせキスだって」  あ、5分経った。5時5分になった時計を見ながら思った。 「したことないんでしょ」 「うっ」 「ほーら、図星」  得意げな表情を浮かべてから、彼女は誘惑するように俺に言い寄ってきた。 「それじゃあ今から私と、キスの練習でもする?」 「何を血迷ったことを言ってるんですか」 「どうせ忘れちゃうんだから、この際、練習でもしておいたら良いわ」 「別に俺、先輩に対して恋愛感情を抱いているとかないですよ」  そりゃあ見た目だけで言えばこの人、めっちゃ美人だし、恋愛感情を抱きたくなることは何度かあった。でもやっぱり、それだけの美人だったらモテるんだろうし、きっとカレシの1人や2人やいてもおかしくない。バールでお酒とか飲んでたら、きっとナンパされまくって、そのまま朝までパーティーピーポーとかしてそうだ。この人のことだからきっとそんな、ラディカルでエクストリームな恋愛でもしていることだろう。恋愛感情を抱きたくっても、きっと釣り合わないだろうから、俺は考えないようにしているのだ。  そう考えていると、シクシク、という嗚咽が聞こえてきた。 「どうして泣いてるんですか」 「だって、私は飯田君のこと、好きだったのに」 「えっ」 「確かに、始めはただの冴えないフツーの後輩にしか見えなかったわよ。でも、任意招集のときも、いつも参加してくれるし、なんやかんや言って実験に参加してくれるし」 「そんな、ご冗談を」 「冗談でこんなこと言えるわけないじゃない。そりゃあそれなりに顔が良いからちやほやされるけど、私ってこんな性格だから声をかけられた人からドン引かれておじゃんになりまくるのよ」 「そうだったんですか?」 「飯田君に『市ヶ谷先輩のことが好きです』って言わせるためにこの薬だって開発したのに。今日だって、わざわざ個チャまで使って念入りに『今日のサークルは教室が使えないからないよ』って、飯田君以外のメンバーに送って、準備万端だったのに」 「そんなこと、バラしちゃって良いんですか」 「良いのよ、別に。どうせ私たちの記憶はなくなちゃうんだから」 「先輩の記憶はなくなるかもしれませんが、俺は薬を飲んでいないんですから、記憶は無くなりませんよ」 「んなっ」  彼女は驚いて狐に抓まれたような表情になってから、どよーん、という雰囲気を醸し出した。 「死にたい」 「死ななくても良いじゃないですか」  何を思い上がってしまったのか、俺は市ヶ谷先輩の唇に自分の唇を重ねていた。 「ぷはっ」  唇を離してもなお、生暖かさと柔らかさを綯い交じらせた形容しがたい感触が残った。 「もうダメ、恥ずかしくて死にそう」 「恥ずかしくて死ぬ、なんていう病気は聞いたことがありませんよ」 「うー、意地悪」  今度は彼女からキスをしてきた。俺に華奢な躯体を抱き寄せて密着させてきた。シャンプーの甘い匂いが鼻を刺激した。 「市ヶ谷先輩」 「真衣科って呼んで。私も、京一って呼んでも良い?」 「はい。真衣科さん、俺」 「ねえ京一、これ以上のこと、しな──」  と言ったところで、まるで十円玉が切れた公衆電話の受話器のように、ぷっつりと途絶えてしまった。彼女は床に倒れこんでしまった。  何、何? このどうしようもない悶々とした雰囲気は?  さすがに、寝込みを襲うのは、ましてやレイプドラッグで昏睡しているところを夜這うのはまずいだろ。確かに彼女は、劇薬を作り出してあろうことか自分で服用したんだから、和姦は成立するかもしれないけどさ、俺の道徳心が傷つけられる。何しろ、彼女とこれからの関係を築きたいと考える俺は、こんな形で彼女を汚したくない。  どうやら彼女はすっかり寝てしまったようだ。鼻を摘んでも、「んんー!」としか唸るばかりで、起きる兆しがない。  参ったな。どう後処理をすれば良いんだ。  俺は彼女の寝顔を見ながら、背負って椅子に座らせた。考えあぐねた結果、仕方なくレポートを打った。伸びろ、如意棒(にょいぼう)……、じゃなくて、鎮まれ、我が息子。  知らない間に自分も眠ってしまったようだ。時計を見ると時刻はすでに10時となっていた。そろそろ警備が巡回に来る頃だろうと思っていたところ、ちょうど来た。 「おーいそこの2人。もうそろそろ10時半だから、早く帰りなさいよ」 「すみません、今から出る準備します」  開きっぱなしのラップトップの充電が切れていた。保存してあったかな。ちゃんとレポートしておかないと、後でこっぴどく叱られるだろうしなあ。そんなたわいもないことを考えながら、俺がリュックに畳んだ機器をしまおうとしたときに、どうやら市ヶ谷先輩は目を覚ましたようだ。 「したことないんでしょ」  何を?  と一瞬思ったが、俺は全てを把握した。なるほど、時間を見ると、ちょうど5時間が経っていた。  どうやら、さっきまでのところに戻ったらしい。この前にあった言葉は「どうせキスなんて」だろう。  だから、俺は彼女に言ってやった。 「市ヶ谷先輩、俺も一応、キスくらいはしたことありますよ」  というと、デシベルの大きな声が耳に到達した。 「ウーソー!」 「そんなことより、レポート、ちゃんと保存できてないかもしれないんですけど。もし保存できてなかったら、すみません」 「なんの話よ? まだ実験は継続してるところでしょ!」  この人の頭の中ではまだ5時間経ってないことになってるのかよ。本当に記憶がなくなってやがる。 「それよりも京一、カノジョもいたことない癖に、キスしたことあるって、どういうことよ!」 「はて、なんのことでしょうか」 「何を!」  彼女は驚き呆れてから、口をへの字に曲げた。  はて、京一? まあ、気のせいか。 【終:彼女はマッドサイエンス系】
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