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王子が死んだ。
国王の第一子であり王太子でもあった彼ジルベルトは、誰より優しく繊細な人だった。
争いは好まず、むしろ花や芸術を愛し、何よりも国民を愛していた。
私はジルベルト王子にお仕えする侍女の一人だった。侍女は皆貴族であるとはいえ私は末端の出身、王太子付きになれたことは奇跡に近い。だからジルベルト王子にお会いする機会は少なく、要は裏方の雑用を主に仕事としていた。
まあ、他の侍女たちは皆ジルベルト王子に目を留めてもらいたいようなので、ライバルは一人でも少ないほうがいいと思われたのだろう。もっとも、下級貴族の私には王子様とーーーーなんて御伽話みたいなものだから全く文句はなかったが。
優しいジルベルト王子はそれでも隅々まで気を配ることを忘れない。自分付きの侍女をすべて把握していて、折に触れこっそり甘い菓子を差し入れてくださったりしていた。
「ほら、エマにも」
夕方の雲のような深い金色の髪がさらりと額を流れ、ダークなチョコレート色の瞳が優しく、けれど反論を許さず私にささやきかけ、私はいつも丁重にお礼を言って受け取る。それは小さな焼き菓子であったりキャンディーであったり様々だった。他の侍女仲間もひどく喜んで差し入れを楽しみにしていたようだ。
ジルベルト王子は花が大層お好きだった。
王城の中庭には王子専用の花壇があって、専門の庭師に負けず劣らず美しく整えられていた。
私は下っ端侍女だから水くみにもよく行っていた。その折にジルベルト王子の花壇の脇を通るのだ。ふと足を止めてつい見入ってしまうほど見事だった。
花壇を彩るのは薔薇や牡丹などの豪華な花ではなく、むしろ小さく可憐な花が多い。特に春先に咲くネモフィラは大好きで、その青くたおやかな花が風に揺れるのは見ていて癒される。
王子は王太子という立場上日を追って公務が増え、花壇の手入れに割ける時間が減っていった。なので、誰にでもできる朝の水やりは侍女がーーーーというか私が水くみのときにやることになった。
憧れのジルベルト王子と顔を合わせるわけでもなく、目立たない地味な力仕事を他の侍女たちがやりたがらなかったせいもある。
けれど私も花は大好きだし喜んで引き受けた。ジルベルト王子が大切にしている花壇だと思えばますますやる気も起きるというもの。庭師に聞いて時折雑草を引いたりもしてみた。
そうして過ごしていたある日、私はいつも通り花壇の水やりに早朝から出ていた。
が、その日はいつもと違った。
「おはよう、エマ」
チョコレート色の瞳が私を認めて穏やかに細められる。
「今朝は時間があったから水やりに来たんだ」
ジルベルト王子が水やりに使っていたジョウロを軽く持ち上げて見せた。途端になんだか落ち着かない気持ちがして私はつっかえつっかえ朝の挨拶を返す。
「いつも花壇の世話を頑張ってくれてありがとう。本来の侍女の仕事じゃないのに」
いいえ、と私は首を横に振る。視線の先では王子の黒いブーツが少し土に汚れているのが見えた。
「知ってるよ。エマが花壇の世話も水くみも毎日一人でやっていることも、どんなに仕事を押し付けられても文句一つ言わずに頑張っているかも。ごめんね、必ず何とかするから」
「そ。そんな、勿体無いお言葉。私は仕事が好きなので大丈夫です」
「そんな奥ゆかしいエマにご褒美。ほら、手を出して」
え、と思う間もなく手を取られ、小さな包みを握らされた。
「いつも君はよく頑張ってるから。他の皆には内緒だよ」
呆然とする私の耳元で囁いてジルベルト王子は行ってしまった。
私はただほてる頬を持て余し、包みを手に立ち尽くすしかなかった。
後で自室に帰り包みを開けると、中に入っていたのは小さな櫛だった。別に宝石がついているわけでも金で出来ているわけでもない、木彫りの櫛。花の模様がレリーフになっていて、繊細なデザインに見入ってしまう。
そこに彫られていたのは、ネモフィラの花。
私の大好きな花だった。
お礼を言うのを忘れてしまったと気がついて真っ青になったのは夜のこと。またジルベルト王子にお会い出来たらきちんとお礼を伝えなければ。そう心に決めて眠りについた。
けれどその決意を実行することはできなかった。
そしてこれからもできない。
ジルベルト王子はその二日後に亡くなったのだ。
人づてに聞いた話では、山に珍しい植物を探しに行って崖で足を踏み外し転落してしまったそうだ。崖下は流れの速い大きな川があり、捜索隊も必死に探したが、探すことも困難でとてもではないけれど生存は難しい。遺体も見つからないままそう結論づけられてしまった。
ほどなくして王子の葬儀が大々的に行われた。
国中に半旗が掲げられ、教会という教会が彼を悼む鐘を鳴らす。王城の門の脇に設けられたテントには国民から花が捧げられた。
そんな中、私達ジルベルト王子付きの侍女宛に「ジルベルトの部屋を片付けろ」と王直々のお達しが来た。曰く王妃様はお部屋を見るのも耐えられないほどに憔悴なさっているとか。
そうしてジルベルト王子の身の回りのものを箱詰めする作業が始まった。
「エマ、あなたは寝室を片付けて。私達は執務室と居間を担当するわ」
先輩侍女たちがそう言って私をジルベルト王子の寝室に押し込めた。正直居間や執務室よりも寝室のほうが王子の私物は多いように思うのだが、彼女たちは細々したものがたくさんあって面倒な寝室の片付けはやりたくないようだった。あれだけジルベルト王子のそばによりたがっていたのに、王子が亡くなってしまえば薄情なものだ。寝室の扉を隔てた向こうの居間からは、先輩侍女たちの「第二王子と第三王子、どちらがかっこいいか」なんていうちょっと耳をふさぎたくなる話し声が聞こえてくる。
耳をそらすためにも淡々と片付けに没頭する。
たくさんの服や靴、本、小物類。どれもきちんと整理されていて、私は黙々と箱詰めをする。
やがて私はベッド脇の小机の整理を始めた。
が、すぐに手を止めた。
小机の引き出しから出てきたのは、小刀だ。
戦ったり護身用にするものではなく、彫刻に使うようなものだ。そして一枚の図案がきれいに畳まれて一緒にしまってあった。
ネモフィラだ。
そしてその図案は見覚えがありすぎた。
そう、王子にいただいた櫛のレリーフ。その図案だったのだ。つまり、あのレリーフを彫ったのは……
「ーーーーあっ」
ぱたり。
小さな音を立てて引き出しの中に水滴が落ちる。
汚してしまう、止めなければと思うのに水滴は次々と落ちてくる。慌てて引き出しから顔を背けたが、目に入るのはジルベルト王子の部屋。ここで寛ぎ、休み、一日のうち一番リラックスしていたであろう、つまり素の王子がいた場所でーーーー
頬を伝う温もりは止めどなく、私は声を噛み殺してその場にうずくまる。
ジルベルト王子は死んだ。
もう帰ってこないのだ。
伝えたかった言葉も、伝えるわけにいかなかった言葉も、王子にはもう届かない。
あのチョコレート色の瞳が穏やかに細められる様子を見ることはもうできないのだ。
ここに来て私はどれだけ深くあの方をお慕いしていたのかを思い知らされた。まるで雨の夜に戸外へ放り出された子猫のように一人ぽっちで寒い。
隣の部屋で片付けをしている侍女たちに聞こえないよう私は声を噛み殺した。
それから程なくして私は侍女の仕事を辞した。
ジルベルト王子付きだった侍女たちは引き続き王城勤務をする者、宿下がりをする者にわかれ、私は後者を選んだのだ。
ほんの少ししかない思い出なのに、ジルベルト王子を思い出させるここはあまりにも辛かった。
宿下がりした私はこれからどうなるのだろう。
実家に戻り、近くの丘の上から広がる青々としたトウモロコシ畑を眺めながらふとそう思った。不安なのではない。ただわからないという漠然とした気持ちしか沸かなかった。
末端とは言え貴族だから、家のための結婚をするのだろうか。とは言え両親はあまりそのあたりにこだわりのない人たち、むしろ私が好いた相手であれば、相手が平民だとしても祝福してくれそうだ。
けれど私はそんな結婚はできそうにない。
そっと髪からネモフィラの櫛を抜いた。
たとえ政略結婚することになったとしても、これだけは肌身離さず持って嫁ごう。今は亡き王太子様からご褒美に下賜されたと言えば夫となる人も無碍にはできない、いやむしろひとつの自慢にすらしてくれるかもしれない。
私の心はこの櫛と共に、生涯この胸にしまっておくのだ。
だからこの滲む景色も私だけのもの。
誰にも教えない、私だけの宝石。
ぺたりと草の上に腰を下ろし、周りに誰もいないことを確認して、私はこの宝石をしまった箱の蓋をほんの少しだけ開く。中に渦巻いている激情はわずかな隙間からも漏れ出し、言葉となって私の唇を切り裂いていく。
「ジル……ベルト、さま」
胸に櫛をぎゅっと抱く。
「ジルベルト様、ジルベルト様ーーーー!」
実らない心とは知っていたけれどこんな形で失うものだとは思ってもいなかった。あの笑顔を、あの優しさを。
どうか誰も聞かないで。私のあさましい心を。ほんの今だけ、今だけだから。
私の声はただただ青い空とトウモロコシ畑の境目に吸い込まれ消えていった。誰に聞かれることもなく。
そう思っていたのに。
かさりと草を踏みしめる音がして私は飛び上がった。誰かこのあたりにいたのか。私の声を聞いてしまったのか。
振り向いて確かめるべきだと思ったけれど、ひょっとしたらこんな女に関わり合いたくなくて無視してくれるかも知れない。そんなわずかな期待に賭けて私は身を小さくした。
「泣いてるの?」
なのにそんな私の気持ちを無視するように声がした。構わないで欲しい、放っておいて欲しい。そう思っていたはずなのに、私の胸は大きく弾んでしまった。その声があまりに心地よく、あまりに似すぎていたからだ。
そう、ジルベルト王子に。
私の体は私の意思に反して勝手に振り向いてしまう。期待していたわけではない。けれど確かめずにはいられなかった。
そしてそこにいたのは一人の若者だった。
着ている服は平民の服だがどこか仕立てがいい。茶色のズボンに生成りのシャツ、それに黒いチュニック。
さらりと額を流れる髪はきれいな黒、まるで黒曜石のような色だ。
けれど背丈も体つきも、そして顔も、いっそ潔いほどに一緒で。
何より私を見つめて穏やかに細められるダークなチョコレート色は、間違えようがない。
「じ――――ジルベルト、さま」
「やっぱりエマの目は騙せないか」
そうくしゃりと破顔して私の横に腰を下ろす。私はただただ呆然として動くことも視線をそらすこともできないでいた。
「驚かせてごめん。俺はちゃんと生きてるよ。いろいろあってね、父上とも相談したうえで死んだことにして王家を離れたんだ」
ジルベルト王子は話してくれた。自分は為政者の器ではないこと、むしろ弟の第二王子に王位を継いで欲しいこと。
けれど国の法律で第一王子が王太子にならなければならなくて。
「それにお堅い上級貴族の暮らしももういやだった。俺はほら、花や植物が好きだろう? だからむしろ平民にしてくれって父上に願い出たんだけどさすがに渋い顔をされて」
「当たり前です!」
「――――それで小さな男爵家の四男坊っていうことにしてもらった。髪は染めてるよ。万が一にも生きていることがばれないようにね。
今は平民みたいな生活をしているんだ。畑を耕したり新しい作物の研究をしたりしてる」
それでね、とジルベルト王子は私をまっすぐに見つめた。
「エマ、侍女はやめちゃったの?」
「は、はい」
「どうして?」
「――――」
答えられず顔を伏せた。それに苦笑する気配がした。
「その櫛、大事に持っていてくれるんだね」
「は、はい」
そう答えてからはっと気がついた。
「あ、あのときは櫛をありがとうございました。私、きちんとお礼を申し上げてなくて。すごく嬉しかったんです」
勢い込んで話すにつれてジルベルト王子の顔がほんのり赤くなるのがわかった。
「その、ごめん。本当はもっと高価なものだって贈れたのに」
「だって、これはひょっとして手作りなのではないですか?」
「えっ」
「引き出しから小刀と図案が」
「あ……みちゃったんだ、あれ」
「申し訳ありません、寝室の整理の担当になりました」
少しの間沈黙が流れる。さらりと乾いた風がジルベルト王子の髪を揺らし、赤くなった耳が露出した。
「――――エマ」
「はい」
「俺が平民ではなく貴族になることを納得したのは、大切にしている、いや、これからもずっと大切にしていきたい花のそばにいたかったからだ」
急に真顔でジルベルト王子が言い出した。なんのことだろうと首をひねる。花がお好きなのはよく知っているし、それならばその花を今のお住まいに植えてご自分で育てればいいのに。
そう思ったけれど、とりあえず聞いてみた。
「お聞きしていいですか? 何の花なのですか」
「――――ネモフィラ」
ネモフィラ。その言葉を聞いた途端なぜだか心の奥に焦りが生まれた。胸元にまだ抱え込んでいた櫛が急に存在感をもつ。私のために王子が彫った櫛。そのデザイン。
なんの確証があるわけでもないのにこの続きを聞きたいような聞きたくないような、そんなせめぎ合いが私を揺らす。けれどそんな私の動揺をかいくぐるようにジルベルト王子の大きな手が私の髪をそっと頬から払った。
「ずっとネモフィラみたいな青だと思ってた」
私の青い瞳をまっすぐ見据える、チョコレート色。
「エマ、君が咲いているそばに俺を置いてほしい。俺は君のそばで風から、雨から君を守るから」
「ど、して」
「それはね、もちろん――――」
耳に届く言葉はどれも夢みたいで、私はただただ顔をぐしゃぐしゃに濡らしてジルベルト王子の言葉に頷くしかなかったのだった。
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