善人の笑顔

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「ピンクのパジャマなんて、男のくせに。似合ってると思ってるのかねえ。」 エカテリーナは、匠の、今さっき起きてきた格好を見て呟いた。 匠というのは、子供の自転車に轢かれて、もうダメだと思っていたあたしを、病院に連れて行ってくれた、このマンションの住人だ。 まだ、40過ぎてるのに独身だ。 結婚する気あるのだろうか。 あたしを病院に連れて行ってくれたのは、そこんところは感謝しているけれどさ、勝手に拉致されて、オマケに首輪までされちゃって、勝手にあんたの飼い犬にさせられちゃったのは、不本意なんだよね。 うん、極めて不本意だ。 首輪って、気持ち悪いんだよ。 あなた、自分の首に付けてごらんよ。 半日もしないうちに、首んところが、もう「イーッ。」って感じになるんだからね。 それにさ、あたしに勝手に名前を付けちゃってさ、エカテリーナだってさ。 雑種のあたしにエカテリーナは、ないでしょう。 しかも、最近は、エカテリーナって、長くて言いにくいからって、「エテ」なんて呼ぶけどさ、誰が「えてこう」やねん、猿ちゃうで、犬やで。 それに、普通、略すんやったら、エカやろ、エカ。 なんぼなんでも、エテはないやろ。 あのさ、野良犬はね、名前が無いのが、ステータスなんだよ。 それを名前付けられたってのも、不本意だよ。 あ、匠が、あたしを見てるよ。 ニコッと笑ってさ、気持ち悪いよ。 あの、「愛してるよ。」みたいなさ、善人面した顔が嫌いなんだよね。 ちょ、ちょ、ちょっと何するのよ。 あたしの身体、撫でまわしてさ。 あ、そこ、そこは気持ちいいわ、痒かったんだよね。 背中だから、自分では掻けないし。 「エテちゃん、大ちゅきー。」 と、匠がエカテリーナを抱きしめる。 だから、止めてって。 あなた、頭おかしいわよ。 犬にチューして、どうするのよ。 あのね、言っとくけどね、あたしは、あなたに服従している訳じゃないからね。 仕方なしに、ここにいるの。 だって、あたし犬だもん。 自分で、ドア開けて外へ出られないでしょ。 だから、仕方なしにいるんだよ。 それを、善人の振りしてさ、いいよ、本当の善人ならね、でも、あなたは違うわ。自分でやってることが、良いことだと疑わない、その似非善人面が嫌いなのよ。 良いことやってますって、顔に出してるところが、嫌なのよ。 いいですか。 犬はね、野良犬はね、外で野垂れ死ぬのを覚悟して生きてんのよ。 それが、野良犬の矜持ってもんだ。 まあ、確かに、今は快適だよ。 エアコンも効いてるしさ、焼けたアスファルトの上を歩かなくてもいい。 ひょっとしたら、ウトウトしちゃたりするけど、この家の他に行くと来ないからね。 快適な空間があったら、そりゃ、ウトウトするでしょ。 野垂れ死にの覚悟を持ったあたしが、ウトウト気持ち良く昼寝しちゃっても、あたしのせいじゃないからね。 匠は、ヨーグルトとトースト、それにトマトをテーブルに乗せる。 いつものメニューだ。 そして、サイフォンをセットした。 このサイフォンも匠のこだわりだ。 コーヒーは、豆の缶を開けた時の香が好きだな。 カップに入れたコーヒーより良い匂いがするよね。 まあ、犬のあたしはコーヒー飲んだことないけどね。 しかし、あのこだわりのサイフォンに火を点ける時の匠の満足そうな顔を見ると、何か腹が立つんだよね。 いかにも生活を楽しんでますよって顔してるよ。 似非善人がさ。 あの顔が嫌なんだよね。 コーヒーが入るまでの時間に、匠はエカテリーナの前に皿を持ってくる。 「ああ、まただ。また、ドッグフードだ。」 と、エカテリーナはため息をついた。 匠は、優しそうな笑顔で、エカテリーナの皿に、ドッグフードを、健康を考えて少なめに乗せる。 「エテ。朝ごはんで来たよ。こっちおいで。」と皿の前にしゃがんだ。 もう、朝ごはんぐらい自由に食べさせてくんないかな。 エカテリーナは、仕方なく、匠のしゃがんでいる目に歩いて行く。 「はい。待て。」 いやいや、呼んでおいて、待てはないでしょ。 それに、何なのよ。この待てって言う指示は。 だから、あたしは、あなたのシモベじゃないっていうの。 どうして、人間て、ごはんを前にして「待て。」っていうのかな。 何か意味あるの? ただ、あなたがご飯を食べられるのは、人間のお陰なのよってことを言いたい訳なの。 「はい。よし!」 匠は、こぼれんばかりの笑顔で指示を出した。 あー、嫌だ。 あの上から目線の笑顔。 さあ、お食べ。僕は君を大切にしているよっていう偽善者の笑顔だ。 それにさ、このドッグフードって、悲しいんだよね。 お皿に、乗せるとき「カラ、カラ、カラーン。」って、響くんだよね。 あの音を聞くと泣けてくるよ。 エサを与えられているって感じるんだよね。 こんな思いをするぐらいなら、野良犬で道路に落ちた食べかけのコロッケ食べてる方が、よっぽど気持ちいいよ。 まあ、砂を噛んだときは、イラっとするけどね。 「ハム、ハム、ハム、、、、。まあ、そのドッグフードは、味付けはイイんだよね。乾いているから、喉が渇くけど。なんていうかな、肉の味がして、クセになるんだな。ウー、ワン。」 「何だよ、そんなに美味しいのか。」と、匠が笑った。 いや、美味しくって、「ワン。」って言っちゃったんじゃない。 ドッグフードっていう屈辱的な食べ物を、意外と味わって食べてしまっている自分に対する嫌悪感で叫んじゃっただけだ。 君には分からないだろうな、だって、今も満足そうにヨーグルトを舐めてるもんね。 僕、体にいいことやってますなんて、思ってるんだろうな。 きっと、情報雑誌にでも書いたあったんだろう。 自分で、新しい発見をしようなんて、思ったこともないんだろう。 ある意味、可哀想だよね、匠は。 考えたら泣けてくるよ。 「クーン。」 「どうした、まだ食べたいのか?」 だから、そんな単純な生き物じゃないって。 あたしは、あなたの事を思ったら、ちょっと同情しちゃって泣けてきただけだよ。 その日の午後、匠に友人と思われる2人がやってきた。 1人は、同級生の男だ。 もう1人は、誰だか知らないが、サラサラロングヘア―の女性。 それにしても、こんな可愛い女の子、匠の友達にいたっけ。 まあ、彼女ではないよね。 すると、可愛い子が言った。 「あ、可愛い。この子よね、匠が拾ってきた犬。」 「ああ、そうだよ。雨の中、道端で倒れてたんだよ。病院連れて行って治ったら、またもとの場所に戻そうって思ってたんだけど、何故か可愛くなってね。」 あー、嫌だ、嫌だ。 またもや、似非善人のトークが始まったよ。 「これって、何犬?」 「さあ、雑種でしょ。」 あのねえ、彼女。 犬は、犬なんだよ。 何も、人間が決めた何かの犬になる必要なんて、これっぽちもないの。 犬は、ただ、犬として生まれて来て、犬として、ただ淡々と日々を送ればいいだけの話だ。 そりゃ、あたしだってさ、トイプードルとかに生まれたかったなんて、思ったこともあるよ。 なにせ、トイプードルなんて、だれだって、好きだもんね。 もう、トイプードルっていうだけで、愛される。 愛されるために生まれてくるって、そんな素敵なことがある? あるんだよね。 でも、あたしには、関係ない。 ただ生きるために生まれてくる。 それが野良犬だ。 そうやって生きていくしか仕方がないんだ。 「でも、雑種でも可愛いでしょ。僕、好きなんだな、雑種が。」 あー、もう嫌だ。 あの、トイプードルよりも雑種が好きだ宣言。 今、匠が見せた似非善人は、今日最悪の笑顔だったよ。 すると、友人の男が言った。 「犬って食べる国もあるんだって。」 おい、馬鹿! 何を言ってるんだ。 「ウーッ、ワン。」 「きゃー、止めてよ、そんな話。」と可愛い子が笑いながら言った。 匠も、「バカ野郎。俺の犬だぞ。でも、美味しいのかな。食べてみるか。」と笑って言った。 「えーっ、あたし絶対に無理。」可愛い女の子が笑い続けている。 「しかし、人生で1度ぐらい食べてみても損は無いか。」と友人の男性。 「よし、3人で、初めての経験をするか。」匠も、話に乗る。 「だから、絶対に嫌。もう、この話は、おしまい。」笑ってはいるが、エカテリーナを見て可哀想にという表情も含みながら話を止めた。 最低だ。 最低の人間だ。 あのねえ、人間の、いや犬の生死を笑い話にするんじゃない。 あんたたちにとっちゃ冗談かもしれないけれど、あたしにとっちゃ生きる死ぬの問題だよ。 あれ、さっき食べたドッグフードの肉は、何の肉だったのかな。 そんなことを、漠然とエカテリーナは考えてしまった。 口の中に残っている旨味を、素直に味わえなくなりそうに感じた。 ああ、もう嫌だ。 絶対に、この部屋から、そして匠から逃げ出してやる。 こんど、匠がドアを開けたら、一気に走り出てやる。 いや、それじゃダメだ。 犬は、エレベーターのボタンを押せないじゃないか。 となると、散歩の時間しかない。 散歩の時に、あたしが電信柱にオシッコをする。 似非善人の匠は、きっと、そのオシッコを処理するためにペットボトルの水を用意したりするだろう。 あたしに注意散漫になる一瞬だ。 その時に、思いっきり走ってやる。 そして、匠の持つチェーンを振り切って、逃げ切ってやる。 それでやっと、あたしも野良犬に戻れるんだ。 自由が戻ってくるんだ。 そう考えたエカテリーナは、何度も想像で、そのシーンをシュミレーションした。 「うん、これで完璧だ。ワン。」 嬉しくなって、ワンって言っちゃった。 そして、いよいよ、その散歩の時間がやって来た。 エカテリーナは、計画通りに電信柱にオシッコを掛けようとした。 すると、匠は、エカテリーナを見ずに、電信柱の横に置いてある段ボール箱を見ている。 覗くと、生まれたばかりの子犬が1匹だけ入れられている。 捨て犬なのか。 酷いことをする人間もいるもんだな。 こんな可愛い子犬を、よくも捨てられたもんだな。 ふと見ると、匠は段ボール箱を覗き込んで話しかけている。 「どーしたの。可愛いね。捨てられたのかな。」 いや、人間の言葉で話しかけても、この子犬理解できないだろう。 しかも、またもや、作ったような優しい笑顔だ。 いやだ、誰にも見られていないのに、善人を演じているよ。 ちょっと待って、その子を家に連れて帰るの? 匠は、子犬を抱き上げて、散歩を中止して家に連れて帰った。 お陰で、逃げそびれちゃったよ。 脱出計画台無しだ。 でも、この子、可愛いね。 やっぱり、子犬は、誰が見ても可愛いものだよね。 エカテリーナは、優しい目で子犬を見守っていた。 すると、子犬が小さな声でエカテリーナに言った。 犬同士だから、犬の言葉が解るのだ。 「その似非善人のような目は、嫌だなあ。」 エカテリーナは、それまで気にしたこともなかった自分の表情が、他の犬には、そういう風に見えるんだと言う事がショックだった。 あたしは、似非善人なんかじゃないと叫びたかった。 ふと見ると、匠が、子犬のためにミルクを用意している。 そして、子犬を見て、優しい笑顔をみせた。 エカテリーナは、ドキリとした。 ひょっとしたら、今までの匠の笑顔は、こころからの善人の笑顔だったのかもしれないと思った。 あたしも、匠に愛されていたのかもしれない。 エカテリーナは、優しい目で匠を見てみた。 、、、いや、でもダメだ。 生理的に受け入れられない。 匠の笑顔は、やっぱり嫌いだ。 たとえ、本当の善人であってもね。
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