温かい手

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 居酒屋の親父はただ苦笑いを浮かべながら、座敷の客のエイヒレを炙っていた。炭火で焼き始めたばかりのエイヒレはすぐさま香ばしい香りでカウンター席の俺の鼻孔をくすぐる。嗅覚が刺激されると、急に指先の感覚が気になりだす。回り始めた酒のおかげでどことなく鈍重だ。ついで店内の喧騒が耳にやかましくなり、目に飛び込む他の客の動きが気になり始める。おそらく人間の五感というのはどこかで繋がっているのだろう。一つの感覚が刺激されると、その他の感覚が鋭敏になっていく。どことなく口寂しくなった俺は手にしたレモンサワーを口に含み、性懲りもなく管巻きを続けた。 「温かい手ってのはね、ただ新陳代謝が良いだけだよ、新陳代謝が。 あ、俺もエイヒレお願い。」  話の流れ出した注文を聞き漏らさず、居酒屋の親父は座敷の客のエイヒレを横に寄せて網の空いた部分に新しいエイヒレを乗せる。調理の様子を眺められるのはカウンター席の醍醐味だ。エイヒレの縁側からチリチリと火が点き、色を濃くしながら反ってゆく。ただそれだけの事なのに、いつの間にか俺はその様子に目を奪われていた。スルメもそうだが七輪で焼く乾物は、見る人の心を奪っていく。なんとも不思議なものだ。 「えーっとどこまで言ったっけか……。あ、そうそう、新陳代謝! 手が温かいのは新陳代謝がいいだけなの! なのにさ、その迷信のおかげで青春時代は真っ暗だったさ。」  俺は自分の不幸度合いを示すようにグラスを手にしたままうなだれる。居酒屋の親父も同情するように眉をひそめた。
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