二.黄泉

1/1
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ

二.黄泉

朱色の鳥居の向こうには、長い長い石畳の道があった。鳥居のすぐ向こうに拝殿があった筈なのに、今は恐ろしいほど遥か遠くに見える。結界を潜り抜けた瞬間、頭の中で何かが破裂したような音がして、気づけばこの道に立っていた。 カランカランと下駄を鳴らして、延々と続く参道を歩く。朝の太陽はいつのまにか中天へと差し掛かり、西へと傾く。やがて周りはとっぷりと暗くなり、道の端に置かれた沢山の提灯だけが、行き先を照らす。 やがて彼は、誰かに呼ばれたような気がして振り返った。 「誰、…っは、?」 たしかに一日中歩いていた筈なのに、すぐ後ろに鳥居があった。まるで、朝から一歩も動いていないかのように。 (何故…?) 何故というのならば___何故自分はこの道を歩いていた?そう、異形を退治するため。そのために、神社が手がかりだと思ったから。何故一日中歩いていて、おかしいと思わなかった?一日中歩いて、疲労もせず、一向に目的地に着かないなんて事を、おかしいと思わなかった? 今まで気づく事の無かった疑問が一気に脳の内に吹き出す。何故、何故。幾ら歩いても、辿り着けなかった、一人の記憶。鮮やかに、それは今の状況に重なって、 「う、わ、ああああああああああ!」 「SANチェック失敗したな?」 「発狂しました。というか、あの時はですね…」 懐かしく、そして苦々しい思い出に、思わず目を瞑る。そして、はぁ、と溜息を吐き出した。 「結局のところ、まだ若くて、経験も何も足りなかったんですよ。…自分なら大丈夫だと、思い込んでいたんです。それなのに、何も気づかなかった。…そこに、あの子達の、記憶が。それで、パニックになったんです。」 「はは、青臭くて良いぞ?今のお前様は好ましいが、可愛げも何もあったものじゃない。」 「これでも、年寄りですので。」 青年は、目の前の彼女に向かって笑う。苦い思い出を語るのも、別に嫌なわけでは無いのだ。ただ、少々大昔の傷口が抉れるだけで。 黒漆の盃に注がれた酒を、彼は一気に飲み干した。 「はっ…はっ、はっ、は、」 気づけば、息切れで道に倒れていた。自分でも何処から持ってきたのか分からない提灯が、共に道に転がっている。まあ、恐らく道端の何処かから取ったのだろうけれど。どれぐらい前か分からないが、パニックになってからの記憶がない。 仰向けに転がったまま、空を見上げる。昨日の夜は満月だった筈だ。なのに、この空には月がない。何処かで見たような、見ていないような星空をじっと眺めていると、真逆の形をしたオリオン座が見えた。一つ気がついて仕舞えば、カシオペア座も、地平線あたりの夏の大三角形も、登りかけの冬の大三角形も見えてくる。まるで、夜空をひっくり返して見上げたように、全ての星が左右逆になっていた。 ああ、ここはやはり、現実ではないのだ。 そんな思いがふと胸に浮かぶ。それは、先ほどの狂ったようなパニックとは違い、静かに、ただ、ただ事実として、ふっと浮かんだ。 『この国で同じ場所にいたいのなら、走り続けなくちゃ。何処か別の場所に行きたいのなら、もっと、もっと早く走らなくては駄目よ』 不思議の国ばかりが有名だが、アリスの冒険した場所のうちには、鏡の国だってあるのだ。『鏡の国のアリス』その一説が頭に浮かぶ。 「さて、と。」 ここは鏡の国ではないが、どうやら___何処をどう走ったのか、拝殿に辿り着いたらしい。パニックの功罪、といったところだろうか。 …少々、出来過ぎている気がしなくもない、が。 「何がパニックの功罪ですか何も上手いこと言えてませんよ俺」 「まあまあ…そう苛立つでない。ほら、酒でも飲め。」 「もう飲んでます…」 さっきまで別に嫌なわけではないとか言っていたのにのう、と楽しそうに笑う彼女を見て、彼は溜息を吐いた。 「嫌なわけではないですよ…心が抉れるだけで。」 「駄目な奴じゃろ、それ。」 「まあこれからはそこまでアレなこともない筈ですしまあうん本当に大丈夫だと思いますだってこれからは一回パニックになった後ですしほら」 「大丈夫か?酒飲むか?」 「飲みます!!」 矢鱈と度数の高い西洋の酒を持ち出してきた彼女にやけくそのように返事をして、それでも彼は、続きを語り始めた。 拝殿は、現実の神社よりもはるかに立派だった。村長の家で借りた郷土資料を見た限り、あの神社がここまで大きかった事は無かった筈だ。ならば、これは過去の記憶ではなく、龍神の作り出した幻の拝殿なのだろう。 二礼二拍手一礼。生憎賽銭は持っていなかったので、黙って頭を下げる。 神が鎮まる事を願い、顔を上げる。 そして再び目を開いた時、そこには蒼い蛇がいた。硬質の鱗を艶やかに輝かせ、その大蛇は宣う。 「我が主は静かに眠る事を望んでいる。___帰れ。眠りを妨げるならば、容赦はしない。」 爬虫類独特の瞳が、彼を見据える。満月のような金の中に、黒い筋が一筋だけ。何処か知性を感じさせるその瞳の奥に、一瞬、底知れぬ何かが見えた気がした。 「お前…いや、貴方は…」 「私は主の眷属。…言っておくが、神使でもあるからな。其方より位は上だぞ。」 威嚇するように僅かに鎌首を擡げ、蛇は告げた。眷属というだけならばほぼ同位なのだが。 何にせよ、無闇に逆らって良いことは無い。 「神使、ということは…貴方の言葉は、この場所の主の言葉なのか?」 「いいや、これはただの忠告だ。主は今は静かに眠っている。そしてそれを守るのが、私の役目。」 さしずめ墓守、か。 心の中でそう呟く。死、といっても、抽象的な、擬似的なものではあるが。甦れば今度は擬似的な黄泉帰りだな…という思考が頭を掠め、だがまあ、起きる事があるからこそ、これは眠りなのだろう。 「…今は、眠っていると。」 「ああ、そのように言っている。何の用だかは知らぬが___」 そこで蛇の目がすうと細められる。随分と人間臭い仕草をする蛇だな、とチラリと思った。人間に化身していた事でもあるのか、昔は人間だったのか。 「ああ、彼方側の社か。主は見事な白の鱗を持っているのだがな。その色は、透明かと見紛うほどに美しい白だ。胸元の唯一つだけが、夜明けの金に輝いている。その美しい鱗が、穢されたのだ。主は眠っているので、知らなんだが。」 おいたわしい、と蛇は嘆く。 「主は眠りながら回復している。何も問題はない。…疾くと帰れ。振り向けば帰れるはずだ。」 そして瞬きをしたその瞬間には、蛇は跡形もなく消えていた。 「蒼い蛇のう…」 「おや、心当たりが?」 「まぁの。出雲に遊びに行った時に、供をしているのをな。」 「貴方出雲に遊びに行ったんですか…阿鼻叫喚だったんでは…?」 「何の、半分は知り合いじゃからな、半分は笑っとった。」 「半分は阿鼻叫喚だったんですね…」 苦笑いで言うと、彼女は楽しそうに笑った。愉悦部は人生…人生か?ともかく、生きるのが楽しそうだ。 「なかなか美人だったぞ?で?これで追い返されたのか?」 「まさか。」 言われた通りに振り向いてみると、そこには暗い道があった。行きのような石敷きの道ではなく、所々に泥の溜まった、いかにも踏み固められて出来た道という風情だ。 行きにはあったはずの提灯の群れは消えて、代わりにぼんやりとした影が見える。近づいて見てみれば、それは墓石だった。 何処かから、チャリンチャリンと音がする。その軽い音は六度だけ鳴って、途切れた。 “行きは良い良い帰りは怖い” 嫌な予感がする。行きたくないが、行かなくてはならない。 “怖いながらも___通りゃんせ 通りゃんせ” 道の先にあるものに惹かれていた。多分、そちらが正しい場所なのだ。自分が在るべき場所。 今更彼方に惹かれるのか、と自嘲のような思いが浮かぶ。小さい頃は必死で此岸にしがみついていたというのに、此方側にいる力を得た今、向こう側に惹かれるのか。 瞼を閉じる。 ___それは死への誘惑だった。三途の河の運賃は六文、前払いで支払い済み。 死んで仕舞えば楽だと、耳元で自分が囁く。元より正しい場所に還るだけの事、何の遠慮がいるのか、と。 死ぬ理由も無いだろう、と耳元で誰かが囁く。正しい場所へ還るにしても、生きたいと願った子供達の、その願いは何処に行くのかと。お前はそういうものだろう、と。 (俺は) 結局、“誰か”が囁いたそれこそが、自分の存在意義なのだった。親の顔すら分からない内に彼岸へと渡った子供達の魂の、欠片。それを撚り合わせて、縫い合わせて、無理矢理にでも繋ぎ合わせて出来たのが、自分なのだから。 祈りは希望だ。明日を迎えたいの願うその気持ちが、祈りとなる。 名前の無い子供は大人になって、自分以外のものにも祈れるようになったから。 今まで出会った全ての人に願いながら、決意を込めて瞼を開く。 そこには、一面の揺らめく水面があった。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!