書置きと写真

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書置きと写真

「絶対に身元調査はやらないとうかがいました」 「そうです」 「絶対に?」 「ええ。ご依頼と関係が?」 「確認したかったんです。なぜ身元調査を行わないんですか」 「最近はインターネットを使えば大抵のことはわかってしまいますからね」  私は冗談めかして答えた。  その日は朝からずっと事務所のソファーに寝転がって、録画したアメリカのドラマを見ていた。民間弁護士である主人公の女性が軍事法廷に呼び出され苦戦するというストーリーに、身も心も捕えられてしまい、ひたすら画面に見入っていた。どれほど薄汚れた世界にも、甘い愉悦があるものだ。検察側が被告人に不利な証拠を提出したところで、無情にも、ノックの音が響いた。正直なところ私はドラマの続きが見たかった。もともと熱心に働くのが生きがいというタイプではない。もしも許されるのなら、朝から晩まで海外ドラマを見ていたい。事務所の家賃が頭をよぎらなければ居留守を使っていただろう。依頼内容を明かさないうちから質問攻めにする客の相手をするくらいなら、そのほうが正解だった気もする。  古ぼけたソファーに座る二人を見つめた。あまり似てない親子だった。  父親の庄野浩太郎は六十代手前、猪首で分厚い身体をしている。きょろきょろと周囲を見回していたかと思うと、高価な腕時計に目をやってため息をつく、という一連の動作を、ルーティーンのように繰り返していた。娘の莉緒は二十代後半、春らしい紺のパンツスーツに、真っ白いシャツが清潔な印象を与える。背筋を伸ばして座ったままほとんど動かず、一度も父を見ようともしなかった。まるで一人で座っているかのように振る舞っている。浩太郎は莉緒の態度に目くじらを立てるでも、意気消沈するでもなく、これが通常運転であるとでもいうように平然としている。父と娘は互いに言葉を交わさずに、無言のサインプレーを行っているようだった。片方がサインを出せば、もう片方が別のサインを出す。どちらも無関心なのに協調している。  父と娘が二人で興信所を訪ねるケースはあまり多くはない。大抵はどちらかが一人で来るものだ。二人で来る場合は、浮気調査か失踪調査の二択に限定される。どちらであっても熱をこめて話すのは父親だ。娘主導で話が進むのは、これまで経験がない。 「つまりあれか」浩太郎が口を開いた。「素人でもできるような調査はやれないと言うんだな」 「そういうわけではありません。何をお探しですか」 「灰皿だ、灰皿」 「事務所は禁煙です」 「つまらない男だな、煙草も吸わんとは」舌打ちをした。「こんな探偵に何を期待するんだ、莉緒。おれの知り合いなら」 「お父さまは黙っていてください。そういう約束でしたでしょう」 「しかしな、そいつは有能だ。大手弁護士お墨付きの調査員でな」 「お父さま」  ぴしり、と鞭をうつような低い声だった。 「それ、わたしたちを探しだした人ですよね。わたしはね、探偵さん」こちらに目を移して続けた。「一年ほど前に京都へ駆け落ちしたことがあるんです」 「おい、莉緒、おい」浩太郎は金魚のように口をぱくぱくさせた。「待て。何を言い出すんだ」  莉緒は、事務所に入ってから初めて父親に目を向けた。薄く笑みを浮かべ、もう一度私に向き直った。 「三ヶ月くらいは詩郎さんと一緒に楽しく暮らしていたんですが、調査員を雇って住所をつきとめたようです。父は母と二人でアパートに乗り込んできました。そのとき母が体調を崩し、結局連れ戻されてしまいました。ですからその調査員は、わたしにとって憎い敵のようなものです」 「莉緒」 「おそらく調査員は父の言いなりでしょうから」ちらっと父親に目を向けた。「写真のことだってきちんと調べないはずです」 「あんなものは偶然に決まっとる」  浩太郎が腕を組んでふんぞり返ると、莉緒はため息をついた。 「お父さまがそんなことを言えば、調査員は偶然で片付けてしまう。そんな相手に頼みたくないんです」 「それで、一体、私に何を頼みたいんですか」 「詩郎さんを探してください。二週間前、あの人は蔵に閉じ籠って消えてしまったんです」 「消えた?」 「そうです。しかもこんな書き置きを残して」  上品なあずき色をした帆布バッグから一枚の紙を取り出して、応接セットのローテーブルにのせた。ごくごく薄い緑の便箋だった。二つ折りにされた紙片を開くと、そこにはこう書かれていた。 『おれは三年前に戻る。莉緒、君ならアルバムを見ればわかるはずだ。』  そのふざけた文章を最初から最後まできっちり二度読み返し、私は顔をあげた。莉緒はまっすぐこちらを見ている。浩太郎は腕組みをしたままで、目があいそうになるとそっぽを向いた。なるほどと思った。娘が主導権を握っている理由がわかった。  手紙に目を落とす。三年前に戻るという文章は、素直に解釈すれば、過去へ向かうという意味だ。タイムトラベルしますと言われて、はいそうですかと信じる人間はいない。  もっとも、もしかすると他に意味があるのかもしれない。莉緒と詩郎の二人にしか通じない合言葉のようなものだという可能性はある。ただそうなると、父親にそれを説明しないのはなぜかという疑問が生じる。こうした疑問は連鎖するものだ。その多くは容易には解決しない。となると軍事法廷は遠のく。  さっさとお引き取り願うこともできた。そうしなかったのは、それが単なる自己充足的予言であるからではなく、莉緒の目のせいだった。こちらを真っすぐに見据えてくる目には強い意志と、いささか妙な取り合わせではあったがすがりつくような切実さが混ざっていて、その独特な不安さは、どうにも無視しがたいものがあった。  だから依頼を受けるかどうかについては、簡単な事実確認で決めるという原則に従った。  沢口詩郎は莉緒より二つ年上の二十八歳、実家で英語塾を経営している。家族にはしばらく旅行に行ってくると告げてあったため、失踪届は出てないという。 「蔵から消えたとおっしゃいましたね」わたしは両手を膝にのせていった。「まずはどういう状況だったかを聞かせていただけますか」  莉緒はうなずくと、屋敷の裏手にある蔵について説明した。庄野家は江戸時代から続く古い屋敷を維持していたが、戦争によって焼け落ちてしまった。唯一、残っていたのが白塗りの蔵だったという。二階建てのそれは入り口が一つしかなく、窓は二階にある明り取りだけで、泥棒除けのために鉄格子がはまっている。 「二週間前、詩郎さんは蔵にこもって少し考え事をしたいと言い出したんです」  莉緒は言った。 「わたしはなんだか嫌な予感がしました。詩郎さんはとても思いつめた目をしていて、それが怖かったんです。何度も引き止めたんですがどうしてもと聞かなくて。それでしぶしぶ蔵の鍵を開けて、中に通しました。一時間したら入れてくださいねと念を押したんですが、詩郎さんは答えずに、わたしは追い出されてしまいました。それで仕方なく加藤のところに行ったんです」 「加藤というのは」 「長年、父の運転手をしている男です。うちの離れに住んでいます。そこからだと蔵の正面が見張れるんです」 「昔は見張り番として使用人が住んでいたんだ」浩太郎がぼそりと言った。「裏庭越しに蔵が見える」 「加藤はわたしと詩郎さんが蔵へと向かっているのを見ていたようです。話し声もいくらか届いていたようで、わたしの顔を見ると無言でうなずいて通してくれました。一人でいいと言ったのですが、加藤も蔵の入り口を見張ってくれました。一時間が過ぎても、詩郎さんは出てきません。それで加藤と蔵に行ったのですが」  蔵の中には、どれほど探しても詩郎の姿はなかったという。 「二人で見張っていたとおっしゃいましたね。それは一時間ずっとだったのですか。それとも、どちらかが席を外したことはありませんでしたか」 「三十分ほどして、わたしは化粧直しに少しだけ席を外しました」莉緒が緊張したように小声で言った。「とても動揺していて、涙ですっかり化粧が崩れているのに気づいたのです」 「席を外していたのはどれくらいですか」 「十五分くらいでしょうか。長くても二十分だと思います」 「その間、加藤さんは席を外してないのですね」 「はい。私が戻っても、振り向かず、一心に蔵の入り口を見張っていました」 「なるほど」  莉緒の話が事実だとすると、詩郎は密室状態にあった蔵から消失したことになる。なるほど、ともう一度、私は心の内でつぶやいた。 「三年前に戻るというのはどういう意味です」 「言葉通りの意味だと思います。これを見てください」  莉緒は古い一冊のアルバムを取り出した。  テーブルに置くとページを開いてこちらに寄せる。一ページに写真が二枚貼られている。保存状態が悪かったのか、黒いページの端が皺になっていて、変色している。それが写真まで続いていた。二年前の台風で窓が割れ、一晩中雨にうたれたのだという。ネガは保存してあるが、アルバム自体にも思い出があり、捨てるに捨てられなかったと莉緒は説明した。 「このアルバムがどうしたんです」 「三年前のゴールデンウィークに、富士山に登りました。これはそのときの写真です」  山道を歩いている写真が並んでいた。遠くに連なった山が霧でかすんでいる。新緑の季節のようだ。日差しを浴びた葉が黄緑色に輝いている。三枚は風景写真で、残りの一枚は頂上での記念写真だった。風景がメインの写真に莉緒はいない。道の先に一人二人、重そうなザックを背負ったカラフルなウェアを来た登山者が写っている。集合写真は六人が写っていて、前列の真ん中にいるのが莉緒だった。 「集合写真の後列右端に詩郎さんが写ってます」  写真をしげしげと観察した。赤いザックに青いウェアを着た男だった。よく日焼けしていて、歯が真っ白だ。悪くない笑顔だったが、写真の顔はあまりに小さすぎて失踪人調査には使えそうになかった。 「お二人で行ったんですね」 「いいえ」莉緒は首を振った。「違います。一人で行きました」 「ですが写真に」 「わたしと詩郎さんが出会ったのは二年前なんです。ですからこのときわたしは詩郎さんを知りません」 「すると偶然、集合写真をとるとき一緒になったということですか」 「他の三枚にも写っているんです、詩郎さんが」  言われてみると、確かに青いウェア姿の男性は他の写真にもいた。どれも遠くにいて、後姿だったり、横顔を見せていたりしている。集合写真よりも小さい。 「詩郎さんからの置手紙を見て、三年前のアルバムを開いて。それで初めて気づいたんです」 「以前に見たとき、写真に詩郎さんがいたのは覚えてますか。あるいは青いウェアの男性がいたのは?」 「それが」目を伏せた。「覚えてないんです。青いウェア姿の男性がいたような気もするんですが、それが詩郎さんだったかどうかまでは曖昧で」 「二人でこの写真を見たのはいつでした?」 「つい最近です」目を落としたまま莉緒は答えた。「彼と一緒にわたしの部屋で話し合っているときに、これを見た詩郎さんが興味を持ったんです。ほら、明らかに水に濡れたものだとわかるから。なぜ捨てなかったのかを説明したんです。そうしたら自転車のことを持ち出してきて」 「失礼ですが、自転車とは?」 「詩郎さんはきいきい音のする自転車に乗っているんです。それをとても大事にしていて、わたしは新しい自転車を買えばいいのにと言ってて」少しだけ遠い目をして、やがてため息をついた。「水に濡れたアルバムを捨てられないなら自転車を買い替えないのもわかるだろう、そういって詩郎さんは笑いました。僕たちは古いものを大事にするところが似ているんだって」 「詩郎さんは富士登山について話さなかったんですね」 「まったく話題にのぼりませんでした。他にもあるんです。次のページを見てください」  次のページには海が写っていた。海水浴場近くの駐車場のようだ。今度は言われなくても詩郎を発見できた。撮影者のいる場所からはかなり離れた場所に立っている。逆光で、ほとんどシルエットだったが特徴的な高い鼻梁から詩郎だろうと見当がついた。莉緒に確認するとそうだとうなずく。  ゲームのルールを把握すれば見つけるのは容易だった。海の家の入口付近。自動販売機の横。沖にでて立ち泳ぎしている姿。どれも豆粒ほどの小さなものだ。  その後の写真も同じだった。花火大会。河原でのバーベキュー。香港の屋台。野球観戦。そのどこにも詩郎の姿が写っている。一年間の写真に、たったの一枚も途切れることなく。 「確認したいことがあります」 「なんなりとおっしゃってください」 「では浩太郎さんにお聞きします。台風でアルバムが濡れたというのはご存知でしたか」 「ああ。それがどうした」 「なるほど」  写真の日付は確かに三年前のものだ。雨に濡れたページと写真を眺めた。  日付はいくらでも変更できるだろう。デジタルで処理すれば過去の写真に詩郎を紛れ込ませるのも簡単なはずだ。ただ、雨に濡れてしまったアルバムの写真を取り出して、改竄した写真と入れ替えるのは難しい。  偶然であるはずがない。一年に渡って連続する偶然など、あり得ないのだから。  だとすると、これは何だ。 「聞いてますか。もしもし、探偵さん。古橋さん」 「はい」  私は顔をあげ、ずっと名前を呼ばれていたことに気がついた。呼んでいたのは莉緒だ。 「お願いです。詩郎さんの行方を探してください」  私はうなずいていた。
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