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いくつかの仮説
翌日、曇り空のもと、庄野家に向かう長い坂道を上りながら考えた。中学生のころ、片思いの女の子が写っている写真なら豆粒のように小さくても購入した。それだけで満足だった。しかし莉緒は詩郎に片思いしていたわけではないし、中学生だったわけでもない。
アルバムは一晩じっくり観察した。濡れた写真と台紙はぴったり一致していた。中には台紙とくっついてしまっている写真もあった。偽造した写真と入れ替える方法はない。
アルバムについて、考えられる可能性は四つだ。
その一。詩郎は莉緒のストーカーだった。
しかしつきまとっていたにしては、いつも遠くにいるのは不可解だ。また写真に撮られるのを警戒していたのなら、顔を伏せてもいいはずだ。不自然な点が多すぎる。
その二。莉緒が詩郎のストーカーだった。
だがつきまとっていたのならば、もっと詩郎の顔をはっきり撮影するだろう。遠く離れていても望遠レンズを使えばいいのだから。
三。二人は二年前からではなくもっと以前、三年前からつきあっていたのではないか。
つきあっていたのならば、どうしてあんな豆粒のような写真しか撮影しないのだという疑問がストーカーのようにつきまとう。実際、アルバムが進むと二人の顔は同じ大きさで撮影されるようになった。莉緒が小さくなったわけではない。
四。詩郎は妻帯者だったため、二人で撮影した写真はなかった。
もしそうなら、あの父親は駆け落ちから連れ戻したあと、二人を二度と会わせなかっただろう。
もちろん、一連の写真があるからといって、詩郎が三年前に戻ったとは思わない。そう断じるにはあまりにも証拠が弱すぎる。あの写真にそこまでの不可能を表現する力はない。詩郎が三年前から計画していたとすれば、何の不思議もなくなってしまうからだ。とはいえ、「三年前に戻る」と書きたいがために三年前から計画していたのだとすると、一体全体、詩郎は何を考えていたのか。
とにかく大事なのは、と私は思った、誰かが嘘をついているということだ。人は密室から脱出できるはずもなく、三年前に戻ることもできない。
だから問題は、誰が嘘をついているかだ。
山師として財を築いた庄野家は、町の中心部からは少し離れた場所にある。
市電を下りると大きな橋を渡った。四月の陽気に岸の芝生が光っている。清冽な水の香りのする風の中をしばらく歩いていると、道が細くなり、やがて住宅街に入った。どの家もかなり大きく、門の上には立派な防犯カメラがついている。建築中のマンションがあちこちにあり閑静とは言い難い。法律事務所の角を曲がると、小さな若葉をつけた銀杏の木が苔むした塀越しに見えた。近隣のブロック塀とは違い、自然石を積んだ重々しい塀だ。それに沿って進むと門が見えてきた。庄野家は、お屋敷という言葉が自然に浮かんでくるような、伝統的な木造家屋だった。玄関の扉横には国旗が掲げられている。
チャイムを押し、扉が開くのを待っている間に、五つ目の可能性が脳裏に浮かんだ。
その五。「三年前に戻る」事件は私を騙すために仕組まれた。あまりにも荒唐無稽な事件を私が信じるかどうか、実験している。父と娘は役者であり、アルバムはよくできた小道具だ。
そう考えて苦笑した。私を騙してメリットなどあるはずがない。よくできた小道具だと。あまりに馬鹿げている。
次の瞬間、現実的な答えが浮かんだ。
「お嬢様からうかがってます」
玄関に出てきた加藤はずいぶんといかつい顔をした大男だった。私よりも、かなり高い位置に顔がある。二メートル近い。肩幅が広く、分厚い引き締まった体型で、太い眉とどんぐり眼はどこか仁王像を思わせるような迫力がある。
浩太郎は病院に、莉緒は会社に行っていると言う。
「病院というと、浩太郎さんは通院なさっているんですか」
「いえ、奥様が入院されてまして、そのお見舞いです。ここでの作業が終わったら、病院まで来てほしいとのことでした」
「わかりました。ご病気は深刻なのでしょうか。お聞きしてもよければですが」
「胃潰瘍です。もう二三日すれば退院できるとのことです」
「それはよかった。蔵はこの裏ですか」
「ご案内します」
加藤は玄関で靴を履くと、そのまま建物沿いに裏手へと回る。左手に白い土壁の蔵が、右手にこぢんまりとした日本家屋が見えた。腰より少し上の生垣が家屋をぐるりと囲んでいる。そこが加藤の住まいだ。
まずは蔵に向かった。
分厚い扉を開くと、中はほこりっぽい空気に満ちていた。長押や段ボールなどが所狭しと置かれている。以前は書画や調度品などがあったが、すべて美術館に寄付したのだという。
「美術は市民に解放するのが筋だとおっしゃいまして。それまでは虫干しもやっていたのですが」
「いつごろの話ですか」
「もう、かれこれ二十年ほど昔ですね」
奥に二階へと昇る梯子がかかっていた。すぐそばに異様なものが薄明かりを浴びて光っている。
「あれは」
「旦那様のものです」
近くで見ると、ますますおどろおどろしい雰囲気を感じた。剣道の面と胴、小手をつけた等身大の人形が立っている。手には竹刀を握っていた。身長は私と同じくらい、百七十センチ弱だろう。足はなく、鉄の棒が腰から伸びていて、台座に溶接されている。マネキンの上半身に鉄の棒と車輪付きの台座をつけたものだという。よく見ると竹刀は紐でくくりつけてあるようだ。人形は竹刀を中段に構え、切っ先を前に向けている。
中心を取るための訓練に作ったのだと加藤が説明した。
「旦那さまは剣道をお若いころから続けていらっしゃいました。剣道にはお詳しいですか」
「知っていると言えば知っていますし、知らないと言えば知りませんね。中心を取るというのは?」
「剣道は互いの中心を奪い合うものです」
加藤によると、竹刀の切っ先が自分の中心に向けられると、それを払いたくなるのが剣士だという。しかし、払えば隙ができる。払わずに我慢し、自らの中心をいかに守るか。それが先手を取られないための重要な要素だと説明した。
「旦那さまは、これを相手にずっと立ち合いの稽古をなさっていました。見ているこちらの気力が奪われるような長時間の稽古でした」
「最近もこれを使っているのですか」
「いいえ、十年前に腰を痛めてしまいまして。お嬢さまにも軽く手ほどきをなさっていましたが、本人が剣を持つことはなくなりました」
「莉緒さんの腕はどれくらいです」
「高校生のときには全国大会で三位になりました」
「それはすごい」ぴかぴか光る胴を眺めながら言った。「ここの出入り口はひとつですか」
「二階に窓がございますが、鉄の格子が嵌めてありますので、猫くらいしか出入りできませんね」
私は梯子を上る許可をもらい、二階に登ってみた。確かに窓があるが、腕を出すだけで精いっぱいだった。頭を通すのも無理そうだ。一階に降りて、蔵を出た。
「あれはなんでしょう」
私は蔵の横を指した。門にドアがついている。
「裏口です」加藤が答えた。「私の専用の出入り口みたいなものです」
なるほど便利ですね、と私はつまらないことを言った。
それから加藤の自宅へと案内してもらった。応接間に足を踏み入れると、まず目についたのは刀だった。床の間に、日本刀が飾られている。祖父の代から伝わる真剣だという。大きな窓から生垣と蔵の入り口が見えた。
「ここから見ていたのですね」
詩郎が消えた当日の話を聞くと、加藤はうなずいた。
「最初は玄関の前でお二人を見かけたのです」加藤は言った。「何やら言い争いをしながら母屋のほうから、こちらへと近づいてきたのです」
「そのとき加藤さんは玄関で何をなさっていたんです」
「燕の雛に餌をやっておりました」
「飼っていたんですか」
「軒下に巣ができておったんです。ある朝、玄関に出てみると、散らばった羽根と引き裂かれた身体が落ちていました。おそらく猫にでもやられたのでしょう。鳴いている雛があまりに不憫だったもので、脚立を持ち出して餌やりをしていたのです」
「それはお優しい」
「そういうわけでは。自力で飛べるようになったのは、ついこの間なんです」
「それで」私は頭の中で家屋と蔵の位置関係を描いた。「莉緒さんたちは玄関先で角を曲がって、蔵のほうへと行ったんですね?」
「はい。私はどうしても気になってしまいまして、とはいえ、後ろからついていくのも失礼です。どうしたものかと思い悩み、とどのつまりは、のぞきのようだと思ったのですが」
加藤は恥じるようにうつむいた。私はその白髪交じりの頭から窓へと視線を移した。生垣で蔵までの地面はほとんど見えない。見る角度にもよるが、こうして座っていると緑の垣の上にちょこんと蔵が乗っているかのようだ。
「あなたはのぞきのようだと思いながら、歩きましたか、それとも走りました?」
私が蔵を見ながら言う。走りましたと加藤が答えた。
「ここについたとき、二人はどこにいました」
「お二人はちょうど真っすぐ蔵に向かっているところでした。詩郎さんが先になって、莉緒さまはその後ろにいました。莉緒さまは詩郎さんの腰のあたりに手を当てていまして、引き止めようとしていたのですが、詩郎さんはそのままずんずんと蔵に向かっていきました。詩郎さんは一度も振り返らず蔵へと入っていきました。莉緒さまも一緒に中へと入りましたが、すぐに外に出てきました。そして目があったのです。私がうなずくと、莉緒さまは玄関に向かわれました」
「あなたも玄関に?」
「いいえ。ここで蔵の入り口を見張っておりました。しばらくすると莉緒さまがこちらにいらっしゃって、話を聞きました。詩郎さんがどうして蔵に閉じこもったのか」一呼吸置いて言った。「どうしてだと思います」
「過去に行くと言ったんですか」
「鏡をイメージするんだ。詩郎さんはそう言い続けていたんだそうです。鏡をイメージできれば過去に戻れると」
「何が言いたいのかよく」
「理解できませんよね」
私も信じているわけではないのですがと前置きし、加藤が話したのはこういうことだった。
詩郎が考案したのは合わせ鏡を使った、並行世界についての思考実験だった。鏡といっても現実に存在するものではない。鏡に映る像は、左右が反転せず、前後が逆になる。つまり、身体の正面を鏡に向ければ背中が映る。そういう鏡だ。
それを合わせ鏡にし、その間に自分を入れる。背中は正面になり、正面は背中になる。無限に連なる一列の鏡像によって、世界が一直線に連結される。それを完璧な正確さで思い浮かべる。
「そのとき並行世界への扉が開かれる。無数にある並行世界のうち、どれかは過去に繋がっているだろう。そこから三年前に戻る。そういう話だったようです」
「思考実験が、何の理由もなく、時間と空間を移動する能力に換わるんですね」
「理屈としては面白いと思いました。私はね、運転手にならなければ、SF作家になりたかったんです。まあ、そんなこと旦那様にはとても言えませんが」
「なぜ言えないのです。小説家が嫌いなんですか」
「旦那様が嫌いなのは非科学的なものです。幽霊やお化け、占い、SFなどは絶対に認めません」
「そのリストにSFが並ぶんですか」
「十分に発達した科学は魔法と見分けがつかない」
「クラークですね」
「ご存知でしたか」
「古いSFは好きです。ですが、どうしてそれが占いや幽霊と一緒にされてしまうのです」
「旦那様に言わせれば、どれもみな、安っぽい子供だましというわけです。魔法と見分けがつかない科学は、オカルトにカテゴライズされてしまう」
「残念な話だ」
「まったくです」
二人で同時にうなずいていた。心が通ったような、互いの身体を覆っていた透明なバリアが消えたような気がした。
だから、機を逃さずに質問した。
「誰が写真を偽造したのだと思いますか」
「写真を偽造、ですか」
「ええ」私は言った。「小説や映画ならばともかく、現実に人間が三年前にタイムトリップするとは考えられない」
「タイムトリップは和製英語です。正しくはタイムスリップまたはタイムトラベルですね。いえいえ、言いたいことはわかってます。写真が偽物だというのでしょう」
「誰かが莉緒さんの三年前の写真をデジタルで処理し、過去の写真に詩郎を紛れ込ませたんです。そして莉緒さんの持っていたアルバムと全く同じものを用意して加工した写真を入れた。その後に、水で濡らして本物に似せたのです」
「そうしてアルバムを入れ替えたというわけですか。すると、あなたは旦那様を疑っているのですね」
「どうでしょうね」
私は考えながら答えた。なぜ加藤は浩太郎の名前を出すのか。少し挑発してみることにした。
「ただ、莉緒さんがそうしたと考えるよりは、そちらのほうが自然ではありますね」
「お嬢様から何をお聞きになったのかわかりませんが、あんな言い方は間違っていますよ」叩きつけるような口調だった。「旦那様は詩郎さんをご自分の会社に入社させる準備もなさってましたし、ご家族にも立派な屋敷をご用意するつもりでした。もちろん、婿養子になるというのは難しいでしょうが、だからといって莉緒さまが当然のように姓を変えるというのも」
「浩太郎さんは結婚に反対していたんですか」
「当然です。世間一般の多くの父親のようにね」
「それで私が莉緒さんから何を聞いたと思ったんですかね」
「それは当然」
何かを言おうとして、加藤は直前で思い止まった。
「あなたはなかなか人から情報を引き出すのがお上手だ」
「それが生計の道ですから」
「では情報を提供しましょう。そうすれば旦那様への疑いは晴れますから」
「聞きましょう」
「アルバムが濡れた日のことは、今でもよく覚えています。その日、お嬢様は海外旅行に出ていたのです。ドイツです」
「それが?」
「台風で窓が割れてアルバムなどが濡れたとご報告いたしましたのは、わたしです。お嬢様は詳しい状態を知りたいとおっしゃいました。それでわたしは撮影したのです」
これをご覧くださいと携帯端末の画像を見せてきた。
そこには雨に濡れた、あのアルバムが写っていた。
「できるだけ乾燥させてから撮影しました。ですから、今の状態とほとんど変わりないと思います」
莉緒から借りたアルバムは事務所にあるが、念のため、すべての写真は撮影していた。富士登山の写真を呼び出した。拡大し、加藤のデータと見比べる。
私は息を呑んだ。
水に濡れて皺になっている部分が完全に一致していた。水に濡らしただけでは、こうはならない。ここまで同じ状態にするのは至難の業だ。不可能と言ってもいい。これで仮説は完全に否定されたことになる。呆然としながら加藤の写真を見ていた。どれくらい眺めていただろうか。私はあることに気づいた。
二年前に撮影した写真、そこにもちゃんと詩郎が写っていた。
私の視線を辿り、加藤が言った。
「それは詩郎さまですね」
私は深呼吸した。
「加藤さんの言うように、アルバムは偽造したものではなかった。写真も加工されていなかった。だとすると、二人は三年前に会っているかもしれないわけですね。写真から判断すれば」
「マイケル・J・フォックスが主演したタイムトラベル映画を覚えていますか。車で過去や未来に行く」
「リー・トンプソンが母親役の?」
「そうです」
「あの作品がどうしたんです」
「覚えていませんか。映画では過去を改変すると、主人公の持っていた写真も変化した」
「つまり、昔は別の顔だったかもしれないけれど、詩郎が三年前にタイムトリップしたから、この写真も含めて変わってしまったと?」
「タイムスリップ、もしくはタイムトラベルですよ」
もっとも並行世界の移動だからどちらも不正解だと大森望には言われるかもしれませんね、と加藤は目を細めた。
最後にもう一度、加藤の立ち合いのもと蔵を調べた。壁は強固で出入口は一つしかない。隠し扉や地下道への扉はどこにもなかった。
「満足なさいましたか」
「そうですね」私は手についた埃を払った。「あの日、他に変わったことはありませんでしたか。詩郎さんが密室から消えたほかに、ですが」
「そういえば、あの日は珍しくお嬢さまがスカートをはいてましたね」
「ロングスカートですか」
「よくわかりますね」
「勘ですよ。莉緒さんが全国大会でベスト三になったときの賞状はあるんですか」
「もちろん。見たいですか」
ぜひ、と頼むと加藤は嬉しそうに顔をほころばせ、ああでもない、こうでもないとぶつぶつ言いながら埃をまきあげた。青い鳥が裏庭にいたように、額入りの賞状があったのは彼の足元近くだった。分厚い埃に埋もれていたそれを取り出すと、ガラス面を手で拭って見せてくれた。賞状を確認した。日付は十年前の八月になっていた。
「こんな立派な成績なのに飾ってないんですね」
賞状を返すと、加藤はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「お嬢さまはそれほど剣道が好きではなかったんです」
「それでこの成績?」
「旦那さまを喜ばせたかったんでしょう。蔵に収納するように命じたのはお嬢さまでした」加藤が言った。「あのとき、これで十分よね、とおっしゃいました。あたしは頑張りましたよね、と。あのときの健気な顔が、私は今も忘れられません」
それっきり加藤は黙ってしまった。
「もし何か思い出したことがあれば、知らせてください」
私が言うと、加藤はうなずいたが視線を向けなかった。蔵を出て振り返ると、加藤は黒く光る不気味な剣道人形の横にいた。まだ埃だらけの額縁を持ったまま、どこかが痛むような、それでいて懐かしむような目で、賞状を見ていた。
屋敷を出ると、午後三時になっていた。建物の裏手は小高い丘になっていて、緑に囲まれた赤い鳥居が見える。ブロッコリーのようにこんもりした緑の上に、飛行機雲が長く伸びていた。
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