病院での一幕

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病院での一幕

 駅まで出ると路面電車に乗って病院に向かった。  大きな自動ドアが並ぶ入り口で浩太郎に電話する。六階の談話スペースまで来るよう指定された。談話スペースは病棟の端だった。壁一面が大きなガラスになっている。日差しの入る明るい雰囲気で、中央に大きなテーブルがふたつ、壁際にソファーが三つ置いてある。浩太郎はテーブルのひとつについていた。若い女性看護師がそばに立って、彼の話に相槌をうっている。私が挨拶すると、看護師はほっとしたように微笑んだ。一礼し踵を返してテーブルを離れた。  隣に座りながら何を話していたか質問すると、男女の違いについてだと答えた。医学部の入試において、男性が加点されていたことが明らかになった事件を、テレビ番組で特集していたのだという。 「テレビでは盛んに差別差別と言っておったがな」浩太郎は言った。「そう言い立てる側が差別性を強く帯びることもある。逆説的だがね。そう思わんかね」  にやりと笑った。私は浩太郎の目を見つめた。 「失礼ですがまったく思いませんね」 「おや、君はフェミニストらしいな。だがね、大学側は女性の能力が低いからとか、女性を劣った存在だからという理由で制限を設けていたわけではない。逆だ。女性のほうがコミュニケーション能力が高いから男性に加点していたんだ。女性蔑視してないのだから本当の意味では差別ではない。私はね、あのお嬢さんにそういう話をしておったんだよ。わかるだろう」 「何をわかるだろうとおっしゃっているのか、まったくわかりません」私は言った。「それにお言葉ですが、動機がどんなものであろうと、女性が医師になるための道が狭くなっているので差別ですよ」 「しかし尊敬しているのに差別とは変じゃないか」 「そんな話をするために呼んだのですか」 「せっかちなやつだな。ほら待て。座りたまえ」  椅子の座面を手でたたき、悪気など少しもないというように苦笑を漏らした。 「それでどうなんだ。タイムトリップよりはましな答えが出そうか」 「正式にはタイムスリップというらしいです」腰を下ろしながら答えた。「もしくはタイムトラベル」 「加藤にも困ったもんだ。あの趣味さえなければよいんだが」 「本当にSFが嫌いなんですか」 「日本が沈没するような話はろくなもんじゃない」  全宇宙を滅ぼすような話もある、と言おうと思ったが、やめておいた。ここに来たのは呼ばれたからだけではなく、確かめたいことがあったからだ。私はあらかじめ考えていた質問を口にした。 「加藤さんとはどういう繋がりなんでしょうか」 「なぜそんなことを?」  賞状の話をすると、浩太郎はうなずいた。 「莉緒が二歳のとき、私は破産して無一文になった。伯父にはめられてな。あの家も追い出された。使用人には暇を出したんだが、加藤だけは離れなかった。給料はやれんと言うのに、そんなことは気にしませんと言うんだ。挙句の果てにはあいつの実家にしばらく住まわせてもらった。やつはだから、莉緒を自分の娘のように思っている」腕を組んで、うなるように言った。「あいつは私を助けたというのに、まったく恩に着せようともせん。ふざけたやつだ」 「そうですね」私はうなずいた。「無一文からどうやってあの家を買い戻したんです?」 「方々に手を尽くして、借りられるだけの金を借りた。加藤も一緒に頭を下げてくれた。それで株を買い戻した。詳しく話してもいいが、退屈だろう。君の興味は加藤についてだな。何が知りたい」 「加藤さんがあなたの信頼を裏切るようなことをすると思いますか」 「ない。あれはそういうことができない男だ」 「なるほど」私は頭をかいた。「そういえば、蔵で剣士の恰好をしたマネキンを見ました」 「懐かしいな。莉緒の稽古に使って以来か」 「十年前ですね。浩太郎さんはその後に使うことはなかったんですか」 「腰を悪くしてな。剣はもう握ってない」 「加藤さんは?」 「マネキンは使わんよ。居合の有段者だが人と争うのが苦手でな。今もやるのは素振りだけだ。変わったやつだよ。ところで」  浩太郎は目を細めた。 「君はまだ私の質問に答えてないな」 「タイムトリップよりはましな答え、でしたね」私は言った。「いくつかの仮説なら。明日には事前調査の結果をお話できると思います」 「以前は大手で働いていたそうじゃないか」  今にも歌い出しそうな口調で、私が以前勤めていた興信所の名前を口にした。 「腕利きだったらしいな」 「今も腕利きだとは限りませんよ。過去は未来を保証しません」 「なあ」わずかに声を落としていった。「娘ではなく私に報告してくれないか」 「それは無理です」 「あまり残酷な結果を知らせたくないんだ。詩郎に置いて行かれただなんて、莉緒には耐えられん」 「するとあなたは詩郎さんが自発的に蒸発したと考えている?」 「他にどう解釈できるというんだ」 「三年前に戻ったのかもしれませんよ」 「論外だ」顔をしかめた。「戯言はいいから現実的に解決しろ、探偵。金が欲しいならな」 「お言葉ですが」私は立ち上がった。「今回の依頼人は莉緒さんです。あなたではない。あなただけに報告するのも、あなたから金銭をもらうのも、断ります。お話はそれだけですか」 「私に逆らってただで済むとでも」 「お父さま」  すぐ傍らから雄弁な声がして、見ると莉緒が立っていた。浩太郎が目を見開いた。 「どうしてここにいるんだ」 「母さまのお見舞いに決まっているでしょう。それより余計な横やりを入れないでください」 「そうは言ってもな、莉緒、私はお前のことを考えてだな」 「お言葉ですが」意を決して私は口を挟んだ。「別々に報告するのはお薦めしません。私はお二人に、お二人が望むような報告をして、料金を二重に取るかもしれません」  莉緒を見ると、彼女もこちらを見返した。 「探偵の良心、ですか」 「莉緒さんはどうしたいのです」 「私は、ただ、詩郎さんに会いたいだけです」  なんの不純物も混じってない、きっぱりとした口調だった。私はわざとため息をついた。 「なぜ三年前だったのか考えたことはありますか」 「おい」 「お父さまは黙っていて。どういうことでしょうか」 「つまり、逃げたにしろ、タイムトラベルしたにしろ、なぜ過去なのか。どうして未來ではなかったのか。それは過去なら追ってこられないからです。あなたの財力ならどこまで逃げても見つかってしまう。未來でも同じ。三年ならあなたは必ず待っている。そうでしょう」 「ええ」 「振り切るには過去しかない。彼はそう考えた」 「そうかもしれません」  しばらくして、苦しそうな声で、莉緒は言った。顔から血の気が引いていた。まるでたった今、詩郎の訃報を聞かされたかのように。唇を震わせていたが、やがて言った。 「もしそうだとしても、私は彼を探さずにはいられません。そのために、あなたが力になってくださると信じています」 「なるほど」  私は莉緒が事務所で最初に聞いてきた言葉について思い出していた。あれには、きちんとした意味があったのだ。 「では明日、事前調査の結果をお知らせします」 「よろしくお願いします」 「では」  浩太郎が追いかけてこようとしたが、莉緒に止められた。エレベーターに向かって病棟の廊下を歩いていると、どこからか助けてという声がした。病室から聞こえてくるようだ。そちらに足を向けると、ベッドに寝ている老婆が私を見て、もう一度、助けてと言った。  看護師がベッドに近づき、大丈夫ですよ、ここは病院です、わかりますか、と諭すような口調で話しかける。手を握られると安心したのか、目を閉じるとすぐに寝息を立て始めた。  病棟を離れ、エレベーターに乗っても、どこからか助けてという声が追いかけてくるような気がした。  謎は解けた。  問題は、うまくやれるかどうかだ。  病院を出たところで携帯端末を開いた。加藤からメールが一通、届いていた。  メールには、こう書いてあった。 「失礼。思い出したら知らせて欲しいとのことだったので、こうしてメールを送らせていただいた。  詩郎さんが消えてしまった、あの日のことだ。私は二人を追いかけて居間に向かった。部屋に入ると、二人はちょうど蔵に入る直前だった。詩郎さんが前に、追いすがるようにして莉緒さまが後ろにいた。莉緒さまが腰をつかんでいたが、詩郎さんは止まらなかったと話したな。その後のことだ。  蔵への階段の前に来ると、詩郎さんはわずかな時間だったが足を止めたんだ。そのときだ、私の頭が変になったと思うだろうが思い出したのだから言わねばすっきりしない。忘れていたのは、旦那さまに話したら、きっと怒鳴られるだけではなく、追い出されてしまうかもしれないと思ったからなんだ。こんな重大な話で、あんなこと、口が裂けても言えなかった。つまり、何が言いたいのか、いい加減、単刀直入に言うとだな、私には、あの時、詩郎さんの足が透けて見えたのだ。一瞬だったから気の迷いかもしれない。目の錯覚かもしれん。詩郎さんの足があるべき場所に、蔵の扉があったのは。  君はどう思う。過去への干渉は、写真だけでなく、記憶まで作用するのだろうか?」
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