闇と音

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闇と音

 莉緒が裏口から出て行く姿を電柱の陰から眺め、一分待った。人影のない道路を横切り、公園の脇を通って坂を上った。街灯はほとんどなく、月明かりだけが頼りだ。コンクリート舗装の狭い道を挟むように松林が続いている。枯れた松葉が積もった道をひたすらに歩くと途中で右手の松林が途切れ、視界が開けた。コンクリート階段の両脇は墓場だ。左手には暗い影に潜むようにして巨大な伽藍が息を殺している。  どこかで鳥の鳴く声がした。  私は石段を上って境内に足を踏み入れ、今度は三分待ってから道路に戻った。周囲を見回す。人の姿はやはりない。寺院を過ぎてからは坂が急になり、くねくねと蛇のように曲がった。何度か曲がり角を過ぎると、朱色の鳥居が見えてきた。  莉緒は石段の前に立っていた。私に気づくと片手をあげた。彼女に近づいた。莉緒は私の背後に目を向けている。 「大丈夫です」私は隣に立つと言った。「尾行はついていません」  莉緒は吐息をついた。 「二人で逃げようと決めたときから、父がまた探偵を雇うかもしれないと怯えていました。もう二度と、連れ戻されたりしたくなかった。だからあなたにもきちんと相談できなくて」申し訳なさそうに目を伏せた。「事前に接触してしまうと、必ずつきとめられてしまうと思ったので」 「最近はどこも監視カメラだらけですからね」 「私たちにはどうしても事情を察して助けてくれる人が必要でした。あなたのような人が」  莉緒はまだ道の先に広がる暗がりを見つめている。私は彼女の横顔を眺めた。 「力になれてよかった。蔵からの脱出を考えたのは莉緒さんですか」 「どうしてそう思ったんです?」 「マネキンが使われたからですよ。間違っていたら教えてください。あなたはあらかじめ剣道の防具を外して別の場所に置き、カツラをつけ、詩郎さんの服を着せた。そして裏口を使って運び加藤の家の玄関からは見えなくなる死角に置いた。生垣の角を曲がってすぐの場所ですね。あなたがたはわざと加藤の目につくように口論しながら歩いた。もし加藤が家の中にいたら、彼が出てくるまで大声で喧嘩すればいい。しかし加藤は餌やりのために玄関にいたので二人の姿を見せつけ、角を曲がった。加藤が居間に向かうタイムラグを利用し詩郎さんはマネキンと入れ替わって退場する。あなたは急いで居間の窓に背を向ける形にし、マネキンを前に、自分は後ろになるような位置を取って、蔵に向かった。あなたがあの日、ロングスカートをはいていたのはマネキンの下半身を隠すためです」  マネキンの下半身は一本の棒で固定されている。だから加藤は詩郎の足が透けているように思ったのだ。 「蔵に入ったあなたは急いでマネキンの服を脱がせ、カツラなどと一緒に長押や段ボールに押し込んだ。それから防具をつけて外に出たんです。訂正箇所は?」 「どうやって真相に気づいたんです」 「剣道の防具には埃がつもってなくて、黒く光っていたんです。あなたの賞状は埃まみれだったのに、です。浩太郎さんは腰を悪くしてからマネキンは使っていませんし、加藤さんは素振りしかしない。タイムトラベルしたのなら、防具に触れる必要はありませんからね。化粧直しに立ったのは手を洗うため?」 「はい。埃まみれだったので」 「結果的にはそれがよかった。浩太郎さんが加藤を疑うきっかけを作ったのだから」 「私たちは三年前に戻ったんだという結論を報告してくださればいいなと思っていたんです。加藤犯人説は思いつきもしませんでした」 「実際には不可能ですが、浩太郎さんが迷うくらいの出来ならよかった」 「不可能なんですか」 「人を一人切り刻むのに、二十分は短い。巻き藁のように死体が立っているわけでもないですし、床に置けば刀傷がつきます。ビニールも裂けてしまう。そうなると血痕が残ります」  浩太郎は加藤を疑って探偵を雇うだろうか。あるいは、死ぬほど嫌っているSF的な「子供だまし」を受け入れるのか。 「あなたと詩郎さんは」  わたしは深く息を吸ってから言った。 「結婚差別にあっていたのですね」  莉緒はゆっくりとうなずいた。私に目を向けて言った。 「詩郎さんの身元を調査したんですか」 「いいえ。調査しなくてもわかります」  私は莉緒の目を見つめた。 「最初に引っかかったのは加藤さんの言葉です。加藤さんは浩太郎さんが結婚に反対していたと言いました。それなのに詩郎さんを自分の会社に入れるための準備をし、家族にも立派な屋敷を用意するつもりだったという。これは結婚に反対している父親の態度ではない。もちろん婿養子という条件はありますが、詩郎さんの家族にまで住まいを提供するというのはあまりに変です。結婚に反対しているのに、良い条件をつけるというのは矛盾してます」  私は言葉を切って続けた。 「でもこれが結婚差別だと考えるなら意味が違ってくる。婿養子にするのは苗字を変更させるためであり、家族に住居を用意したのは土地から引き離すためだ。結婚差別にもいろんな形があります。しかし、親族まで土地から引き離そうとする差別はそう多くはない。詩郎さんは被差別部落出身なのですね」  莉緒はうなずいた。 「最近は検索すれば差別に関する情報がネットで見つかる。浩太郎さんの条件が、情報検索を避けるためだと考えれば、筋は通ります」  質問サイトでは、同和地区が実際にどこなのかを問うものが後を絶たない。  インターネット上で公開されている被差別部落の記された古地図・絵図などから、それが現在のどこであるかを特定する方法を指南するウェブサイトもある。  二〇一七年にはグーグルマップにおいて、同和地区にある駅名が「部落」と書き換えられた事件も起きている。 「父は」  震える息をついて、莉緒は続けた。 「……父は、自分は差別しないと言い張りました。でも世間一般は差別するものだと言い、現実的に解決するならこうするしかないだろうと。それが差別だとやんわり訴えても聞く耳を持ってくれませんでした」  加藤と会ったとき、彼は「お嬢さまから何を聞いたか知りませんが」と言った。あれはこのことだったのだ。そして加藤は浩太郎が誤解されかねないと考え、それを隠したのだろう。談話室で浩太郎が「差別と言い立てる差別性」と言ったのは、莉緒に言われた言葉が頭にあったからかもしれない。 「社員にするという条件はなんだったんです」 「父は詩郎さんを役員待遇で迎えると言いました」怒りに目を燃やして莉緒は言った。「その代わり、解放運動からは手を引けと。実際、役員になれば運動に費やす時間は取れなくなるとも言いました」 「加藤さんに相談は?」 「結婚差別だと言ったら笑われました。どこの父親だって結婚に反対しますよと。差別と言ったって、旦那さまは詩郎さまを罵倒したり、罵ったりしてないじゃないですかと、そう言いました。母も同じです。友人に相談しても、それくらいの反対はどこだってあると言われてしまいました。世の中には花嫁の相手を一発殴っちゃうっていうお父さんもいるんだよ、でも莉緒のお父さんはそうじゃないでしょう、と諭されました。誰も」  平坦な、感情のこもらない声で言った。 「誰もこれが差別だと認めてくれなかった」  莉緒は遠くを見つめた。私も同じ方向を見た。住居のあかりがいくつか光っている。まばらな間隔のため、かえって闇を深くしている。 「とにかくあの時期は辛かった。父は結婚に条件をつけるし、それをなんとか回避させたくて、辛抱して話し合いを何度も続けていたら母が胃潰瘍で倒れて。父は、私たちの結婚が原因で胃に穴があいたんだと詩郎さんに言い募りました。詩郎さんが意固地な性格をしているからこんなことになるだと」  呼吸が苦しくなったように、莉緒は小さくため息をついた。 「詩郎さんもあんなこと言わせるなんて君も同じ考えなのかと言い始めて。私は板挟みになって苦しんでるって言ったら、じゃあ僕はどうなんだ、あんな差別的な発言を我慢して聞かなきゃならない僕の気持ちはって。もう本当に精神的にぼろぼろで、少しでも現実から逃れたかった。そのとき、あなたのことを聞いたんです。絶対に身元調査しない探偵がいると」 「私が身元調査をしない理由を知ってたんですね」 「はい」  私が大手の興信所に務めていたころ、結婚の身元調査を頼まれた。相手の男性は同和地区出身だという報告書を提出した。その男性が自殺したのを知ったのは、恋人が事務所に乗りこんできたからだ。  愚かなことに、当時の私は自分の調査が何に使われるのか知っていたのに、どんな結果を招くか考えてなかった。  差別に加担するには特別に残虐であったり、愚かであったりする必要はない。社会の仕組みに従っていればいい。動く歩道に乗るのと同じだ。 「それにしても」私は言った。「計画にぴったりな私をよくぞ見つけたものですね」 「いいえ」莉緒は首をふった。「逆です。最初にあなたのことを知ったんです。絶対に身元調査をしない探偵がいると。そんな人なら味方になってくれるかもしれないとそう思ったんです。最初はもっと夢みたいな感じでした。あなたみたいな人が魔法みたいに父と母を説得して助けてくれないかなって。単純な現実逃避です。とにかく私たちは話し合いにはうんざりしてたから」 「だからといって逃げ出せば、前回のように探偵に所在をつかまれますからね」 「ええ。あの探偵は絶対に私たちの味方にはなりません。だから、別の探偵に、あなたに、調査を依頼する必要がありました。探偵に依頼するのだから失踪というのはすぐに決まったんです。どちらが失踪するかも簡単でした。私が失踪したら父はすぐに子飼いの興信所に電話します。ですから彼が失踪することに決まりました。問題はそこからだったんです。どうしたらあなたに頼むのが合理的だと父に納得させるかというのが躓きの石でした。そこからは息抜きのための空想が楽しくなくなってしまって。完全に手詰まりの状態だったとき、詩郎さんがぽつりと、三年前に戻りたいねと言ったんです」 「少し整理させてください」私は口を挟んだ。「お二人が出会ったのは、二年前ではなく三年前だったんですね」 「はい」 「詩郎さんの写真が小さなものばかりだったのは、浩太郎さんに交際を知られたくなかったから?」 「父に知られたら反対されるのはわかっていました。それでも詩郎さんの写真が欲しかったので、あんな写真になったんです。どんなに小さくても詩郎さんが写っているなら、それだけで嬉しかった」 「よくわかります」私はうなずいた。「三年前に戻る小道具としてアルバムを選んだのは、あなただったんですか?」 「もしかしてこれが使えるかなと言ったのは詩郎さんでした。それを聞いて次々とプランが出来上がるのを感じました」 「これからどこへ」 「大阪に。詩郎さんの知り合いが塾を経営しているんです。そのかたもやはり部落解放に熱心な人なので」 「もう少し時間をかけたほうがいいのでは。あなたがいなくなると、探偵を雇うかもしれません」 「どうでしょう」莉緒は薄く笑った。「あの人は一度失望すると見向きもしないところがあるんです」 「ですが」 「もちろんどこにいるかは知らせます。大阪に住んで、瞑想の教室に通いながら三年前に戻る方法を探していると話せば、父はあきれるだけでしょう」  私は時計を見た。 「そろそろ時間ですね。最後にひとつお聞きしたい」 「何でも聞いてください」 「あなたはどうしてあんなに不安そうだったんです。最初に事務所に来たとき」  莉緒は息を止め、目を見開いた。 「それは本当に不安だったからです。当たり前ですが、私はもうずっと詩郎さんと連絡をとってません。連絡したら記録が残ってしまいますから。二人で最初に決めていました。計画がうまくいったら、私がここで待っていると」 「もしも失敗だったら?」 「そのときはすぐに連絡します。父が探偵を雇ったり、あなたが依頼を受けてくれなかったり、あるいは、あなたが父の味方になってしまえば電話する約束でした。うまく行っていれば、連絡をせず、今日の零時にここで会う。アクシデントがあって、うまく計画が進んではいるけれど、二、三日遅れるようなら、連絡をしないまま続ける。その場合、詩郎さんは毎日、深夜零時にここに来て、私の姿がなければ戻るという計画でした。皮肉ですけど、成功に近づいているときほど、不安要素は多かったんです。でももしかして」  言葉を切って続けた。 「もしかして詩郎さんがこのまま約束の時間に来なかったらと思うと」 「会えない時間に心変わりをして、という意味ですか」 「私の両親と何度も行った話し合いは、確実に詩郎さんには苦痛でしたから。私自身、逃げ出したいと思ったことがあります。負けそうだったのは事実です。だから」  それきり言葉は出なかった。零時までの数分間を無言で過ごした。  莉緒は下り坂を見ていた。道は真っ暗で光は何も見えない。帰りますと告げた。莉緒の返事はない。零時三分になっていた。まだ道の先には暗闇しかない。  もう一度、帰りますと言い、背を向けた。  坂道を下りながら考えた。詩郎は来るだろうか。もし来なかったら莉緒はいつまで待つだろうか。  二人の計画には、差別の壁を乗り越えられない父母からの逃亡という意味合いもあったが、もしかしたら、二人が離れて暮らすことでもう一度考え直す時間を取るという側面もあったのだろうか。深層心理には複雑な感情が秘められていたからこそ、こんなにも賭けの要素が多い計画を立てたのか。  どちらかはそのことに気づいていたのだろうか。  あるいは、どちらも、そのことにうすうす気づいているのに、目をつむっていたのか。  そう思うと、やりきれなかった。下り坂なのに、来るときよりも足が重く感じる。道の先に、光は見えない。  そのとき何かが聞こえた。足を止めて、闇に眼を凝らす。  まだ何も見えない。  それでも、大きくカーブした道の先、見えない向こう側から微かに聞こえた。  きい、きい、という何かの軋むような音が。  私は自転車のライトが見えるまで待っていた。すれ違ったときにも声はかけなかった。特徴的な高い鼻梁をした男は、両手できつくハンドルを握り、力強くペダルをこぎ、坂道をじりじりとのぼっていく。  痩せた背中が大きく息を吸って張り詰め、震える。  私は突っ立ったまま、ほとんど息をするのも忘れて、彼を見ていた。  古びた自転車は一度も止まらずに進み続け、闇の奥に向かい、やがて見えなくなった。
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