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(しょう)」  名前を呼ばれて、いつまにか俯いていた顔を上げる。 「今日、四時半からだよな。三者面談」 「ああ、うん。でも無理して来なくていいから。体調悪いって言うなら向こうだってー」 「いや、行くよ」  俺の言葉を遮った声があまりにも確固とした意思を持っていたので、少しばかり驚く。今度は兄貴が目を伏せている様子を俺が見つめる形になる。だが、声をかける前に視線は上がり、 「進路のことも、先生と相談しなきゃだしな」  と薄く笑みを浮かべて、先程より少し軽めに言葉を付け足した。そういえば、と美紀姉が思い出したようにつぶやく。 「まだ二年生になったばかりだから早いかなと思ってたけど、翔は進路のこと、どう考えてるの?」  そう言って、美紀姉は箸を置く。目の前のお椀はすでに空になっていた。 「まあ、まだ具体的にどこにとかは決めてないけど、就職しようとは思ってるよ」  俺は魚の腹から身をほぐしつつ答える。 「そっか……私達は翔の決めた道なら応援するけど、ちょっと勿体ない気がするな。あんた意外と頭良いんだし」  意外と、ね、と冗談めかして美紀姉の言葉を繰り返しつつ、テレビを見やる。CMの効果で一瞬画面が真っ暗になり、そこに自分の姿が映った。着崩した制服、髪は少し明るい茶髪。不良然としていて、お世辞にも良い格好とは言えない。意外だよな、と心の中でつぶやく。けれど、これには俺なりのちゃんとした理由があるからやめるわけにはいかないのだ。 「でも、まあ、特にやりたいこともないし、少しでも早く家に金入れたいしな」  少し不満そうにしている美紀姉を一瞥して、魚の身を摘まむ。全ての音が消えた一瞬の空白、しょう、と聞き逃してしまいそうなほど小さな声で名前を呼ばれる。 「家のことは気にしないで、好きなように生きていいんだぞ」  兄貴が困ったように、哀しそうに微笑んで言った。 「俺は充分幸せだよ」  その言葉が適切だったかわからないけれど、俺は兄貴に元気になってほしかった。けれど、瞳はみるみると薄い膜に覆われて、揺らいだ。 「ごめんな」  いや、そこはありがとうだろ。心ではそう思うのに言葉にはならない。何を言っても傷つける気がした。そのうち兄貴は涙を堰き止めるように口の端を上げて、学校遅れちゃうな、食べよう、と言いつつ作り笑いをしてみせた。味噌汁に入れたご飯を掻き込む音に交ざって、ずずっと鼻を啜る音が聞こえる。後ろで流れるモーツァルトの旋律が哀しげな一音を奏でた気がした。  兄貴の目尻が辛そうにじわりと赤く染まっている。こんな顔に、させたかったわけじゃない。覚悟を決めて、兄貴、と俺は呼び掛けた。目線が合ったのを確認してから、言葉を紡ぐ。 「好きにしていいんなら、好きにするよ。俺は家族を支えたいと思ってるし、大事だ。美紀姉も、兄貴も、大事だ。だから俺は好きなように、二人を支えるから」  それだけ、と小さく付け加えてから、自分の言ってしまった言葉に恥ずかしさを覚えて味噌汁を飲み干す。すると、お椀の向こうから 「ありがとう」  と優しい声が聞こえた。兄貴を見ると、嬉しそうに笑っていた。隣の美紀姉も明るくほほえむ。二人に見守られて安心しつつも照れ臭くて、意味もなくご飯を掻き込んだ。箸の音とモーツァルトのリズムが偶然にも同調して、少しだけ笑った。
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