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「翔」
湯呑みを置いて兄貴を見ると、弾かれたように視線を外される。兄貴は自分の湯呑みに視線を落としたまま、口を開いては声は出さずに引き結ぶことを繰り返していた。自分から話し掛けてきたくせに言葉に出すのを躊躇っているようで、しきりに同じ素振りを繰り返す。数分たっぷり時間をつかったあと一言、それは思ったよりも軽い声でつぶやかれた。
「先生のこと、あんまり好きじゃないのか?」
そういうことか。昨日は黙ってくれていたけれど、考えてみれば理由もわからずに不機嫌であるのは兄貴の側からしたら参ってしまうに決まっている。
こちらの返事を待っているのか、兄貴はじっと湯呑みを見つめたまま俯いて微動だにしなかった。モーツァルトの旋律だけが、空気を読まずにのどかに響き渡っている。
正直、今は話題にしたくはないのだが、いずれ話さなければならないことだ。仕方なく重い口を開いて、告げる。
「あいつは、兄ちゃんをいじめてた内の一人だったんだ」
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