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「兄ちゃん」  自分の発した声で意識が覚醒した。情けないほど弱々しい声に驚いて、思わず茫然とする。ふと気付いて、首だけ起こして左を見やった。  隣の布団では兄貴が眠っていた。かなり熟睡といったところで、口が薄く開いている。その向こうの布団は無人だった。正面、襖の向こうから微かに湯が煮立つ音が聞こえるから、美紀(みき)(ねえ)は朝食の準備中なのだろう。  とりあえず誰にも聞かれていないことに安堵しつつ、なるだけ音を出さないように身を起こした。  視界に押し寄せる日射しが強くなって、目を細める。俺の右側、すぐ傍にあるガラス戸に目を向けると、気持ち良いくらいに澄んだ青空が広がっていた。その上をちらちらと桜の花びらが翔けていく。四月の暮れになってもまだ生き残っている桜がいるのか。花びらの軌道を追いながら心の中でつぶやいた。  その時、じりりり、と喧しい音が部屋の中に鳴り響いた。振り向くと、兄貴の頭上に置かれた目覚まし時計がけたたましく鳴り続けている。当の兄貴はというと、何事もないように安らかに寝息を立てて眠っていた。昨日は遅番だったから帰ってきたのは明け方だろう。この状態は無理もない。ボタンを押して、いまだ働き続けている目覚まし時計を仕事から開放してやる。そしてまた、兄貴の寝顔に視線を戻した。  兄貴は、眠っているだけだと思っていたら具合が悪くて意識を失っていた、ということがよくある。俺は注意深く、眠っている兄貴を観察した。胸の辺りに掛けられた布団が上下する間隔は規則正しい。隈は目立つが、顔色はそんなに悪くはない。大丈夫だろう。もう少し寝かせてやりたい気もするが、今日は早番なので仕方なしとして兄貴を揺り起こす。
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