1人が本棚に入れています
本棚に追加
グレイス
――わたくしがグレイス・アビントンと出逢ったのは、セント・テレーズ女学院に入学した時分のことでごさいます。ちょうどそれは、学院前のポプラ並木の葉が色づきはじめる、まだ早い秋の日でございました。
あの学院のことはご存知かしら、魔女様? 元々女子修道院だった敷地を先のカロライン伯爵夫人が買い取られまして、私立の寄宿学校を始められたのが始まりでございます。
学院の生徒の中には名高い御家柄の子女も多く、小さくとも、美しい花園のような女学校でございました。生徒はすべて付属の寄宿舎に入るのが習わしでして、わたくしとグレイスは同室の友でした。彼女の方が僅かばかり年嵩で、わたくしはいつも、彼女の後ろを付いて回っていたものです。……
初めて彼女の顔を見た時の、あの胸の高鳴りは忘れえぬものでございます。寄宿舎の自室となります扉――ちょうどこのおうちの玄関扉のような、深いチョコレート色でございました――をノックして、中から聞こえてきたお許しにノブを回したのち、わたくしの目に飛び込んできた、その姿の麗しさといったら!
グレイスは、部屋奥の椅子に腰掛けておりました。そしてあの眼差しを――およそすべての人間が、彼女の足元へその身を投げ出さずにはいられないような眼差しを、立ち尽くすわたくしにゆっくりと向けて、古いゲーテの詩集をぱたんと閉じて、「待っていたわ」と微笑んでくれました。
「初めまして、ミス・リリー・ジェームズ。私はグレイス・アビントンよ。ようこそ、セント・テレーズ学院へ。
……さあ、どうぞ中へお入りになって」
扉口で動けなくなってしまったわたくしを宥めるように、彼女はくすりと可笑しそうに笑って部屋に迎え入れてくれました。まだ幼かったわたくしはというと、すっかり言葉を奪われてしまって……ただ小さな声で挨拶をするくらいしかできませんでした。それがまた恥ずかしくって、どこに視線を向ければ良いのか、ほとほと困ってしまったのです。
というのも、それまでの人生のなかで、こんなに神聖な容姿の少女を見かけたことはありませんでしたから。真夜中の森のように暗い色の髪のほつれ毛や、白百合のようなうなじや、どこか少年めいてもいる匂い立つような唇の赤さにすっかり心を奪われてしまって……。
グレイスは、わたくしが上手く口を利けないでいるのを、親許を離れた不安からだと感じたようでした。
「可哀そうに……でも気を落としてはいけないわ。ここでは先生も生徒も皆優しいの。すぐにお友達だってできるし、楽しいことばかりなのよ」
手に持っていた詩集を机において、彼女はわたくしの手を労るように撫でてくれました。グレイスの手は首筋と同じように白く、華奢でした。
少しだけ高い位置から注がれる彼女の眼差しに息が止まりそうで、わたくしは思わず言ってしまったんです。
「ちがうの……あなた、あんまりにもきれいだから」
言ってから、わたくしは随分と後悔をした覚えがありますが、グレイスの方はあまり表情を変えていませんでした。そんなに驚かなかったのでしょうか、彼女は緩く口元を綻ばせて一言、「ありがとう」と言っただけでした。
「ねえ、リリーと呼んでも良くって? その代わりにあなたもグレイスと呼んでちょうだい」
「――ええ、グレイス」
この一言を言うためだけに、どれだけ時間がかかったことか分かりません。彼女は急かすでもなく、じっとわたくしの言葉を待っておりました。ようやくものを言うと、ずっとわたくしの手の甲に重ねてあった彼女の手のひらが離れて、もう一度握り返されました。
その時のグレイスは、春の深い泉のような両目を嬉しそうに細めておりました。
――これが、わたくしとグレイスの、一番初めの思い出です。
******
わたくしたちは、それが必然であるかのように、すぐに仲良くなりました。食事の時も、礼拝の時間も、わたくしたちは隣同士でおりました。
グレイスの隣で過ごしてみて分かったことですけれど、彼女は淑女然とした容姿や立ち居振る舞いに反して、随分と自由奔放な性格をしておりましてね。
……決して先生方や他の生徒方には、そうは見せませんでしたけれど。
彼女はよくわたくしを誘って、夜中に寄宿舎を抜け出すことがありました。
決まって恐ろしく星の冴え渡った、少し空気のひんやりとした夜のことです。そんな夜には、わたくしとグレイスは、今ではほとんど使われていない小さな礼拝堂で、おしゃべりをしたり、お菓子を食べたり、お互いに詩を暗唱したりして過ごしました。まったくこういった隠れ家を見つけることに関して、彼女は天才と言ってもよかったでしょう。
「ねえ。いま、この世界には私とリリー、あなたしかいないのよ」
グレイスが嬉しそうに、よくこんなことを言っていたのを覚えています。
「建物が静まり返って、人間はみんな眠りの中。ここへ来る途中の、並木道のポプラだって寝息をたてているわ。
私達が何をしているのか、誰も知らないのよ。ミセス・カロラインだって、みんなと同じように、私達もお利口さんでいるに違いないと油断しているのだから」
「こんなことをして、怒られやしないかしら」
弱虫なわたくしは、そんなことを彼女に聞いた覚えがあります。
「そりゃあ怒られるわよ。私達ふたりのうち、どちらかが密告したならね。あなた、私を告発なさるおつもり?」
「ああ、グレイス! 誓ってそんなことは!」
「冗談よ、リリー。そんな悲しそうな表情はお止めになって。――さあ、キャンディをあげましょう。おばあさまが送ってくださったのよ。とっても甘いの、あなたも食べてちょうだい」
そう言って彼女は、どこからか丸いキャンディを一つ取り出してみせ、わたくしの手の平にそっと握らせてくれたものです。銀色の包み紙はつるつるとしていて、開くとその時々で色の異なるキャンディが顔を覗かせては、カンテラの穏やかな灯りに照らされて、それはまるで宝石の粒のようでした。
キャンディをつまんでうっとりとカンテラの前に翳すわたくしを、グレイスは「そんなにしたら、溶けてしまうわよ」と可笑しそうに笑っておりました。
口に入れると、なにやらとても甘いような、少し酸っぱいような、不思議な味がいたしました。苺の味なのか、葡萄の味なのか、皆目見当のつかない風味です。リリーに聞いても、何故か教えてはくれませんでした。けれどそんなことはどうだってよかったのです。彼女がわたくしの傍に居る、ただそれだけが、あの時のわたくしの関心事でした。
ふたりの間に置かれたカンテラの、オレンジ色の光を受けたグレイスの横顔に、わたくしは何度胸をときめかせたことか分かりません。時折グレイスは、あの硝子細工のように繊細な手で、私の髪を梳いてさえくれました。
何も言葉を交わさなくとも良かった。あの夜のひと時が、わたくしにとって、何よりもいっとう幸福な時間でございました。
最初のコメントを投稿しよう!