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魔女のアトリエにて
ロンドン郊外にある丘陵地、昼下がりの陽光が冴え渡る小高い丘の上へと、リリー・ジョーンズは足を進めていた。五月に十九歳を迎えたばかりの、このうら若き乙女の傍に付き従う者の姿はひとりも無く。南から吹く温い風が、一面に生い茂る薄紫のヒースの合間を通り抜け、慰めのようにリリーの身体を愛撫した。
数秒目蓋を下ろしたのち、ふたたび開かれた緑の瞳が見据える先には、夏の泉よりも深い青色の切妻屋根の家があった。
――あそこだわ。
縁に金の刺繍の施された薄水色のパラソルの柄を握る手に、僅かに力がこめられる。目的地をみとめたリリーは早まる鼓動を押さえつけるように、一歩、また一歩と地面を踏みしめた。身に着けたドレスの柔らかな裾が花々の房を擦るたび、さわさわと音をたてて揺れる。
ようやくその家の前まで辿り着くと、リリーはパラソルを畳んでまじまじと外観を観察した。蔓薔薇の這った壁は淡い菜の花色の化粧漆喰が施されている。二階の白い窓枠の横から飛び出た真鍮の看板には “Atelier of the Witch《魔女のアトリエ》“ の文字が刻まれていた。
ひとつ、ふたつ深呼吸をして玄関扉の前に立ち、蜥蜴の飾りのついたくすんだ金のノッカーを叩く。するとどうしたことか、扉はリリーを招き入れようという意思を持っているかのごとくにひとりでに開いたのだ。
一瞬、その糸杉のような痩躯を硬直させたリリーだったが、すぐさま頭をゆるゆると振って思い直した。わたくしは魔女の許を訪れに来たのだ、こんな魔法など序の口であるはず、と。頭頂部にゆるく巻き付けた赤毛の、少し崩れてはみ出た細い後れ毛が、歪んだ真珠のような耳の裏をくすぐった。
「ごめんくださいませ」
恐怖心と期待で声を震わせ、足を踏み入れる。低い天井や室内壁には干した果物や草花などが吊るされており、それらが顔にぶつからないよう慎重に潜り抜ける必要があった。狭い廊下を占領している大小様々な木の樽やずだ袋の前を通りつつ、心許なさげにきょろきょろと見回す。
――すると、
「ようこそ、可愛いお客さん」
と、男女の垣根の見当たらぬ不思議な声が、リリーの身体を呼び止めた。声のする方を見遣ると、リリーは寸でのところで悲鳴を上げそうになってしまった。
声の主は、リビングとも応接間ともとれる一室のソファーに悠然と腰掛けていた。黒い三角のとんがり帽子を目深に被り、これまた黒いマントで全身を覆っているその姿は、お伽噺に登場する魔女のイメージと大差ない。
しかし、リリーに向けられているはずのその顔は、異質な真っ白い仮面で覆われていた。目も鼻も口もない、まっさらな仮面がそこにある。
一切の感情の表出を拒絶するかのようなこの者を、人びとは「無貌の魔女」と呼んでいた。
使用人たちの噂はやはり本当だったんだわ……リリーは滲み出た唾液を無意識のうちに飲み込んだ。
「いやはや、驚かせてしまったかな。しかし、ここへやって来たということは、君も噂を聞いているはずだろう。どうか怖がらないで……さあ、こちらへお掛けなさい」
温度の読めない静かな声で、魔女がテーブルを挟んで対面のソファーへと促す。淑女の威厳を貶めないようドレスの布をつまんで一礼し、リリーは背筋を伸ばして腰掛けた。
「君のことは知っているよ、ミス・リリー・ジョーンズ。まさかジョーンズ商会の御令嬢がおひとりでいらっしゃるとは、驚きはしたがね……随分おてんばなお姫様だ」
こちらが名乗るより先に名前を口にした魔女に、リリーの背筋に冷たいものが奔る。ぎこちなく笑みを浮かべ、乙女は気丈に返した。
「それもあなたの魔法かしら? なんでもお見通しですのね……無貌の魔女様とお呼びすれば?」
「そう呼ばれているらしいね。まあ呼び名などなんでもよろしいわけだが」
無貌の魔女は両手を合わせて軽く揉んだのち、なにかを思い出したように立ち上がる。その手には革製の黒い手袋がはめられていた。仮面以外、どこもかしこも黒一色だ。
「ミス・ジョーンズ、ハーブティーはお好きかい?」
「あまり飲んだことがないわ」
「そうかい。しかし、きっと気に入ると思うよ」
彼、もしくは彼女の動線を追うついでに、リリーはそれとなく居間の中を見回した。
秋の初めの陽光が差し込んでくる窓辺には、鉢植えの花がすまし顔で佇んでいるし、玄関口でも見かけた干したハーブ類は、壁一面を埋め尽くさんばかりに引っ提げられている。本棚や、木箱や、何に使うか知れないガラス瓶が至る所を占領しているが、しかし特段散らかったようには見えないのが不思議だ。
居間の様子に一通り目を遣って、リリーは右手の奥の調理台に立つ黒ずくめの魔女に問うた。
「……あなたが人間の感情を溶かし出して、食べてしまうというのは本当ですの?」
「ああ、本当さ」
緊張を孕んだ彼女の声音に、魔女は軽く返事をする。まるで真面目腐ったリリーを笑っているかのようだった。
「人の感情を抽出して、キャンディに変えてしまうのさ。勿論、無理やりじゃあないよ。お互いの合意の上だ」
帰って来た魔女の持つトレイの上には、二人分のティーカップとソーサー、ガラス製のポットの中でタプタプと揺れる青紫色の液体とがあった。シュガーポットを忘れてしまった、と調理台付近へ戻る魔女にリリーは再び尋ねた。
「抽出するとは、どうやって?」
「さて、それは教えられないな。……君は私に感情を食べてほしいのかい?」
「ええ、そのつもりです」
「なるほどね、本当に私のお客様だったというわけだ」
小さな陶器のシュガーポットをテーブルの中央に配置し、魔女がようやく腰を下ろす。両手を軽く揉み合わせるのは、どうやら癖であるらしい。無貌の魔女はリリーの目に見えぬ器官から言葉を発した。
「人間の感情というのは、それを抱いた当時の出来事と密接に関わり合っている。ミス・ジョーンズ、どうか君の物語を語ってくださらないか。
何故、どの感情を食べてほしいのか、その決意に至るまで、いったい君に何が起きたのかということを」
リリーの前に差し出された、露草色の縁取りのされたティーカップ。その汚れひとつない白い内側は、青紫色の熱い液体で満たされている。揺らめく表面から立ち上る蒸気は、爽やかなラベンダーの香りだ。
「特製のハーブティーさ、ゆっくり楽しみながら話してくれ」と魔女が勧めるままに、リリーはカップを手に取った。
「わたくしが、わたくしの中から消してほしいもの、それは恋心よ」
カップの中に視線を落として、リリーがおもむろに唇を震わせる。彼女の固いソプラノには懐疑と不安、恐怖と期待が纏わりついて、本来の質量を押し潰していた。
ともすれば、相手に届くことなくカップに落ち込んでしまいそうなほどか細い声だ。薄い撫子の色をした唇を何度か閉じたり開いたりした後で、ようやく彼女は語り始めた。
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