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003 Please eat me!
/* SYS522/09/27 12:41 */
「なぁリグ本当に大丈夫なのか」
「心配しすぎだろお前……」
「だって、なぁペアン」
「大丈夫だよ軽い脳震盪だね。咄嗟に呪文で壁を張ったみたいだから、この程度なんじゃないかな」
いやぁ若いっていいねぇと立ち上がる医師、ペアンを見上げつつも、ヒカルは不安げな色を隠さない。リグ自身は既に目覚めており、それをつまらなさそうに眺めていた。
「さて症状はどうかな」
「んー…。まだちょっと頭痛い、かも」
「やっぱまだ駄目じゃねーか!」
「うっせーなヒカル。お前気にしすぎじゃねぇ?」
怪訝そうに眉根を寄せるリグに、ヒカルは仕方ねーだろと拗ねる。
「だってお前、家族って大事なんだぞ?」
「んだよお前……。俺がそう簡単にくたばるかっての。第一ほら、怪我したら呪文でちゃちゃっと治るもんじゃねーの?」
「あぁ、そういう訳にも行かないんだ」
「先生」
「生体に関する呪文は違反として弾かれるんだよ。コウカ、ちょっとそこの瓶取って」
「……」
無言で控えていた少女が褐色の瓶を手渡す。その中身を持っていたコップの中に入れ、見るからに怪しい薬のような物はリグに差し出された。
「はいリグ君」
「なに……これ……」
「何って、薬だよ」
「飲むの……?」
「飲むんです」
手にした薬の名状しがたき色と匂いは、脳内の警鐘を鳴らすに足る物だった。足りすぎて余る程だ。命の危機を感じている時点で医療とは到底言えないものの様な気もするがそういった知識が自分には無い以上感覚のみで否定するのはどう頑張っても利口な事とは思えないということにして無理矢理納得しておこう。南無三。
その後数分間リグの意識は飛ぶ。
「ヒカルもう行こうよー」
「はぁ? リグ置いてける訳ねーだろが」
「あの子ばっかずるい」
「馬鹿かお前」
少年が目覚めるまでは待つというヒカルにチェシャ猫が不満げな声をあげる。しかし彼女は取り合わない。ぼんやりと窓の外を眺め、時折リグに視線を落とす。ペアンの薬を飲んで患者がひっくり返るのは今に始まった事ではないので、特に心配はしていない。
「その子がハイゼンバグ? 初めまして」
先程まで席を立っていたペアンがカップを四つ持って戻ってきた。一つはコウカと呼ばれた少女に渡す。ヒカルが世話になり始めた時から彼女はいるが、相変わらずの無表情。
「チェシャ猫って呼んで良いよ?」
二つはヒカルとチェシャ猫に手渡され、残ったカップは本人の手に収まる。
「”その子”て歳でもねーだろ」
「なにこれ飲めるの?」
「普通のコーヒーだよ。……私には、コウカと同い年くらいに見えるんだけど、君にはどう見えてるの?」
「成人は過ぎてそうな男」
そうか、と彼はひとりごちる。確実に見ている物が異なるという事実。自分には、確かに少女がそこにいるように見えている。端から見ても、自分が少女達に囲まれている様にしか見えない筈だ。ただ一人、ヒカルを除いては。
「その、”更新が見えない”ていう事の影響かな?」
「そうじゃねーの。よく知らないけどさ」
彼女の、更新が見えない障害の話を聞いた時、心底驚いた事をペアンは思い出す。自分がバグになる前からバグはいたし、何人か秘密裏に診た事もある。バグになってしまった今だって何人もの患者を抱えるが、そんな症状を聞いたことはただの一度もなかった。
彼女曰く。世界系が世界に対して掛けていく更新が一定回数を越えると、その更新結果が認識できなくなる、らしい。今見えている景色が最新のものか、あるいは既に認識できなくなっているものかの判別は本人にはつかないようで、だからよく迷子になるんだよな、以前ぼやいていた事がある。
「チェシャ猫……くんのその外見の変化が”更新”と見なされてる訳か」
「多分な」
「まぁ理屈はなんだって、俺はヒカルが見分けてくれるだけで十分だけどにゃー」
ちょっと目を離した隙に青年が増えていた。否、少女が一人消え、代わりに青年が立っていた。話から察するに、察しなくても確実に、彼がチェシャ猫なのはおよそ間違いないだろう。
しかし判っていたところでそれがどうなる。
「結構その……びっくりするものだねこれは」
「驚いてるようには見えねーけどなペアン。コウカに至ってはお前……、起きてんのか?」
「起きてる」
「お、おうそうか」
「おなかすいた」
「あぁ、もうお昼だね。どうする? 君達もた」
「ぜってー無理だ! か……ら……? あ?」
「あ、起きた。おい大丈夫か?」
食べるか、というペアンの言葉をかき消してリグが飛び起きた。その様子からして悪い夢を見ていたであろうことは明らかだ。傍らに座るペアンの姿を認め、さりげなく距離を取る所からも。
「体調はどうかな」
「いやもう全然大丈夫です」
先程とはうって変わったリグの態度に医師は笑う。
「あ、そうさっきの話なんだけどねリグ君」
「さっき……?」
「呪文の規約違反の話。この世界には”世界”と”世界系”があるのは知ってるよね」
「はぁ……」
妙な薬を飲まされたかと思えば、唐突に話し始めるペアンにリグはただ困惑する。変な人だ、と思わずにはいられなかった。バグになって割と経ったと自分では感じているが、まだまだ知らない事が沢山あるようだ。例えば、ペアンと言い、チェシャ猫と言い、ヒカルと言い、バグには変な人が多いらしい事とか。
「世界系によってこの世界は成り立っているけど、本来は世界の中に世界系があると考えるべきだと思うんだ。そして世界系は世界に従う」
「世界樹……、じゃなくてですか?」
「この辺はちょっと難しいかもしれないね。確かに世界系は世界樹によって運用されているけど、それとこれとは話が別だと……って、どうしたのコウカ」
白衣の裾を掴む決して大きくはないその手。僅かに顔を曇らせる彼女は、ただ一言を言い放つ。
「長い」
「あっ……ごめん……」
手に持っていたカップはすでに空になり、空腹を訴えていた彼女には辛いだろう。慌てて支度をはじめたペアンはとにかく、と続ける。
「覚えておいて欲しいのは、無理矢理呪文で傷を治そうとすると後で本当に痛い目を見るってこと。生体に関する呪文に対してはちょっと慎重になっておいた方が良いよ。強化ぐらいは大丈夫だけどね」
「あ、ありがとうございました」
奥の部屋に姿を消すペアンを見送り、俺らも行くかとヒカルが立ち上がる。
「勉強になって良かったなリグ」
「うっせ。……チェシャ猫は?」
「飽きたつって先出てったよ。俺らもいこうぜ。腹減った」
「リグ君お大事にー」
出来れば二度と行きたくないという表情は、初診患者にはよくあることだがペアンは特に気にしていないようだ。また来ると良いよ、と彼は笑った。
–*–*–*–
/* SYS522/09/27 13:51 */
「あの……医者?」
「ん? ペアンか? そういやお前は初めてだったな」
医者の元を出てからの帰り道。陽は高いとはいえ既に沈む気配を見せ、時おり吹く風が心地よさを運んでくる。そんな中、リグは苦い顔を崩さない。
「あれ本当に医者なのか?」
「あいつが医者だって言うから医者なんだろ」
ヒカルのあっけらかんとしたその言葉に、さらに皺を深くする。自分が気を失っている間に何かされたなら話は別だが、しかし碌に治療された覚えもない。あまつさえ説明もなしに妙な薬を飲まされたとあっては、心中は穏やかではないらしい。
「免許とかちゃんと持ってんのかよアイツ」
「さぁな」
「はぁ? そんなんで良いのかよ仮にも医者だぜ? 人の命預かってるってのにそんな」
「リグ」
前を歩いていたヒカルが振り返る。思いの外その表情は厳しい。
「俺達は、なんだ?」
「何って……」
「俺達は、バグだ。だから個人情報を持たない」
個人情報。人間一人を扱う単位である個人には、それぞれユニークなIDが割り当てられ、その個人にまつわる情報が全て管理されている。戸籍であり身分証明でもあるそれは、社会を形成し、生活していく上で欠かせないものだ。
その情報を、バグは呪文を用いて消去する。
「そう……だけどさ」
バグに存在する三派閥。そのいずれかに属するとき、特異なバグによって個人情報が削除される。それは元の生活、なにも知らなかった頃に引き返すことは出来ないということを示している。無論選択の余地はある。だが今バグとして存在しているということは、つまりそういうことなのだ。
「個人情報を持ってなきゃ学校に行かれないし、正規の病院だって無理だ。お前もわかってんだろ?」
「いやでも」
「ペアンて結構貴重なんだぜ? バグになる医者なんて奇特にも程があるからな。安心しろよ。アイツなんだかんだ腕は確かだか」
「ヒッカルー!」
「うおっ! ハイゼン!」
ヒカルの言葉を遮るように頭上から青年が飛び降りてきた。見慣れぬ顔だが、首には特徴的なマフラー。最早言わずと知れた彼は、ヒカルを驚かせた事に満足そうに笑う。
「随分遅かったねー」
「あれからそんなに経ってないだろ……」
「あれそうだっけ。まぁいいや。引っ越し準備はどうするの?」
「あぁ、やるやる」
「……引っ越し?」
ふとリグの足が止まった。
「あ、お前には言ってなかったな。俺引っ越そうと思っててさ」
「引っ越しって、俺らも一緒だろ?」
「いや俺だけ」
「なんでまた」
リグが怪訝な表情を浮かべる。バグが一人でいることの危険性を考えているのだ。補正者は常に複数人で行動する。バグ一人では切り抜けられない事も、決して少ない訳では無い。
「まぁ色々あってさ。結構前から思ってはいたんだよな」
「なんだよ色々って」
「おいそうカッカするなよ。一応病み上がりなんだから気を付けろよな」
「うっせぇ」
何が気に食わないのか、というような顔をヒカルはする。それが余計にリグを苛立たせた。しかし何がそんなに腹立たしいのか、自分でもよくわからない。
「くそっ!」
「あっおいリグ!」
そのまま踵を返し、雑踏に消える。ヒカルが伸ばした手はただ宙を掻いただけだった。
「なんなんだよアイツ……」
「さみしーんじゃない?」
今まで全く興味を持っていなかったチェシャ猫がふと呟く。今度はヒカルが顔をしかめる事になった。
「はぁ? んな訳あるか」
「俺だってさ、ヒカルがいないともう寂しくてしんじゃう」
「真顔で言うなよ気持ち悪いな……」
軽口を叩きながら改めてリグ消えた方向を見やる。
答えは見付かりそうにない。
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