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005 虫は巣喰いて
/* SYS522/10/10 08:58 */
短い期間とはいえ愛着は沸くもので、なんとなく離れがたい気持ちを抱えながら日々を過ごした。今までずっと誰かと暮らしてきて、それがいきなり一人になるというのも大きいと思う。
その日は、仕度に追われていた所為か、思っていたより早く到来した。
「荷物はこれだけか?」
車に乗せられた段ボールを見てオルサが問う。その数は僅か三つ。年頃の少女の荷物と思えば少ないが、常に引っ越すバグからすれば妥当な範囲内だ。
「まぁ他のもんは向こうで揃えるしな」
出来るだけ持ち運ぶものは減らし、買えるものはその場で揃える。追われる身である以上、身軽であることはとても重要だ。それはどこにいても変わらない。
「んじゃ行くか」
助手席に乗り込んで、自分が今までいた集合住宅を見上げた。昨日は盛大に騒いだから、まだ皆寝ているだろう。
「なんだヒカル、寂しいのか?」
「んな訳ねーだろ反対側に行くわけでもなし。会おうと思ったらウサギ穴もあるしな」
ウサギ穴とは、遠距離を一歩の距離にする魔法の壁のことだ。三月ウサギが得意とするコードにより 、空間同士が繋げられている。普段は一斉走査により発見されぬよう隠蔽してあり、バグがそこを通るときにのみ付加された圧縮コードが起動し、三月ウサギの干渉であるマンデルブロ図が現れ動作する仕組みになっていた。
個人情報を持たないバグが都市内部に張り巡らされたモノレールや地下鉄道を利用出来るわけがない。彼らの間では、乗用車に並ぶ重要な移動手段だ。
「よしじゃあ行くか」
ハンドルを握ったオルサがアクセルを踏み込もうとして、ふとバックミラーを覗き笑った。
「忘れ物だヒカル」
「んにゃー?」
窓を開けて後方を見やると、目に鮮やかな赤い髪。
「リグ!」
「お、お前な! 何も言わないで行くとか馬鹿だろ!」
「はぁ!?」
いきなりの罵倒にヒカルが呆けているうちに、リグの背後からも声が上がる。
「水くさいって言ってるんだよ」
「カイト」
「ヒカルの事だから大丈夫とは思うけど、あまり無理はすんじゃねーぞ」
「……おう」
結局全員が、見送りに来てくれた。
「次会った時はぜってー負けねぇかんな!」
「馬鹿かお前」
リグの言葉に苦笑で返して、ヒカルは目を伏せる。別れが辛くないと言えば嘘になる。でも、これは自分が決めた事だから。
「ちょっと行ってくるわ」
ヒカルは笑って言った。
「いってらっしゃい」
「頑張れよ」
車が動き出す。
遠くなっていく姿を、ヒカルはずっと眺めていた。
–*–*–*–
/* SYS522/10/10 11:04 */
「おいなんでお前が先にいるんだよ……」
「ヒカルお帰りー」
荷物を持ったヒカルを出迎えたのは、例のごとく特徴的なマフラーをしたチェシャ猫だった。どこから入れたのかソファに座っており、長い脚を組んでいる。引っ越し先は言ってなかった筈だが、どこから漏れたのだろうか?
「お前どっから入ったんだよ」
「うん? 玄関から?」
「いやそうじゃなくて」
「ヒカルが寂しいかと思ってにゃー」
噛み合わない会話にヒカルはため息をついた。はぐらかす必要があるとは到底思えないが、こうなってしまうともう駄目だ。欲しい情報が得られない事をヒカルは知っている。
「まぁいいか……。丁度いいやお前、手伝えよ」
「えー…」
「暇だろ」
手伝えと言ってももう段ボール箱は持ってきてある。開封作業も大した量ではない。二人でやれば、然程時間はかからないだろう。
「そういやさぁ」
ひとつ目の段ボールを開けたヒカルが呟いた。
「お前名前なんてーの?」
「うん?」
「いやほら、チェシャ猫もハイゼンもあだ名みたいなもんだろ?」
「あー」
目覚まし時計を手に持ったままチェシャ猫が固まる。しばらく何事かを考え、そのうちにへらと笑った。
「秘密」
「んにゃっ」
「ミステリアスな方が楽しいでしょ?」
「別にそーいうのはいらねーんだけど」
「まぁまぁ」
と、いきなりチャイムが鳴らされる。ヒカルが応対に出るとそこにはスーツ姿に、帽子を被った人物がいた。風に揺れる赤い髪を耳にかけ鋭い視線を投げる。そして、途端に苦々しげな顔になった。
「……何故お前がここにいる、チェシャ猫」
「あっれー帽子屋どうしたの」
家主である筈のヒカルを押さえ、何故か背後からチェシャ猫が応える。そのあっけらかんとした物言いに、帽子屋の眉間の皺がさらに深くなる。
「お前に教えてやる義理はない。……越してきたのは君か?」
「あっはいそうです」
「話がある。下に来られるか?」
大丈夫ですと答えヒカルが外に出ようとすると、何故かチェシャ猫も出ようとする。その様子を見て、帽子屋は溜め息をついた。
「僕は彼女に用があるのであって、お前は必要ない」
「なんで俺が、キミの言うことを聞かなきゃならないのかな?」
「おいハイゼン!」
挑戦的な視線を向けるチェシャ猫にヒカルが声を上げる。曲がりなりにもヒカルは過激派に所属しており、そのトップである帽子屋は従うべきリーダーだ。いくらチェシャ猫が無所属で無関係とは言え、放っておく訳にはいかない。
「お前取り敢えずその箱開けといて」
「えっ」
「ついてくんなよ」
部屋にチェシャ猫を残し、帽子屋と共に階段を降りる。エレベーターはあるが上りが優先らしい。建物としては決して新しいとは言えないが、そこそこ綺麗な部類には入るだろう。
入り口を出て近くの公園に入る。ベンチに腰掛け、漸く帽子屋は口を開いた。
「君、名前は」
「ヒカルです」
「ヒカル……、ヒカルね。君はチェシャ猫と、あのハイゼンバグと付き合いは長いのか?」
「えーと……、長いと言ってもここ一、二年くらいですかね」
事も無げにヒカルは答えたが、その数字の長さに帽子屋は内心驚いていた。チェシャ猫は日々姿形が変わる。一日の間でさえ何回も、髪の色、顔の造形、体格、性別、ありとあらゆる身体的特徴が変わってしまう。それ故に見分けることが出来ず、チェシャ猫もまた他者に興味を持たない。
それが年単位で続いているとは。
「君は相当気に入られたようだな」
「そうなんですかね?」
「そんな君に、一つ忠告をしてやろう」
忠告、と首を傾げるヒカルに帽子屋は言い放つ。
「チェシャ猫に呪文を使わせるな」
その表情は、今日見た中で一番厳しいものだった。
「えっ?」
「あいつの呪文は、自身の存在自体を食う。使いすぎると、使い物にならなくなるぞ」
「それはどういう」
だがヒカルが全てを言い終わる前に帽子屋は立ち上がる。
「時間だ。引越に関わるあとの処理は、僕がやっておく」
引き留める手を無視して帽子屋はその場を後にする。一人残されたヒカルはただ呆然と座っていた。
精々目を離さないようにするんだな、という言葉が、耳に残って離れなかった。
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