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それから、少し歩いていると後ろから「陽」と名前を呼ばれた。呼ばれてから振り返るまでに、その声は実夏の声だとわかった。
振り返ると、自転車に乗った実夏が僕のすぐ後ろまで来ていた。僕についてこなかったのは自転車を取りに行っていたかららしい。
実夏は僕の横に並ぶと自転車を降りた。横に並んで思ったことがあったけど、僕はそれを言わないことにした。
「なんか不貞腐れてる?」
さっきの話の続きらしい。
「不貞腐れてなんかない」
「負けたのって初めてじゃないでしょ?」
「そりゃそうだけど」
「なんでそんなテンション低いの? 世界が破滅したわけじゃないでしょ」
どういう例えなんだろう。世界が破滅したらテンションが低くなるどころではない。何を突っ込めばいいのかわからず黙っていると、実夏が僕の顔を覗き込んだ。
「なんか怒ってる?」
「別に」
「じゃあ何なの、その態度」
「別に」
「ていうか智也は?」
少し大げさに実夏は辺りを見渡す。どう見ても智也がいないことはわかっているはずなのに。
ただ、実夏が気にするのもわかる気はする。
僕と智也はいつも一緒にサッカーのクラブに通っていた。実夏から見れば、智也がいないことは不自然に見えたのだろう。
「今日は一緒じゃない」
そう言うと「へー」と実夏は驚いたようだった。そんな意外なことなんだろうか。「珍しく喧嘩でもした?」
「してない」
「ふーん、いつも一緒なのに」
「もう一緒には帰らないよ」
「え?」
しまった、と僕は思った。
余計なことを言ってしまった。実夏が気にならないはずない言い方をしてしまった。
たぶん実夏は智也が転校するなんて話知らないはずなのに。
実夏は「んー」と唸りながら何か考えているようだった。
「もう一緒に帰らないって……やっぱ喧嘩したの?」
「違う」
「じゃあなんで一緒じゃなくて、なんで怒ってんの? 教えてよ。話、聞いてあげるよ?」
「うるさい!」
自分でも苦し紛れであることはわかった。何の説明にもなっていない。こんな言い方をしたら実夏はきっと怒ると思った。
けれど、実夏は怒った顔を見せることはなかった。実夏は大げさに大きなため息をついた。そして冷めた目で僕を見てこう言った。
「何ひとりで怒ってんのよ。負けたなら負けたでいいじゃん。……意味わかんないし」
実夏は僕を睨み付けた。
「ヤダヤダ。勝手にすれば? 本っ当にガキなんだから」
実夏はそう言い捨てると、再び自転車に乗った。そして、そのままペダルを漕ぎ始めた。
僕は実夏に何か言わなきゃと思ったが、実夏は風に長い髪をなびかせて、あっという間に遠くなっていった。そのまま緩い坂の向こうに消えて行ってしまった。
「悪いのは実夏だ」と思うところもあったけど、一番悪いのは、どう考えても自分だってことはわかっていた。
それから十分ぐらい歩いて、マンションに着いた。
夕方のオレンジ色の光がエントランスに差し込んでいた。もう今日が終わろうとしている。今朝、こんな風な夕方が来るなんて思いもしなかった。
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