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エレベーターの前に僕は一人で立った。
違う棟に住む智也とは、いつもここで別れる。今日は一人だ。何も落としてきていないのに、何か足りない気がするのは「またな」という言葉を発していないせいかもしれない。
エレベーターに乗る前に横目で智也の住む棟への廊下を見たが、誰も歩いてはいなかった。僕はエレベーターに乗り四階に向かった。
四階に着き、夕日の差し込む通路を歩いて自分の家に着いた。
玄関のドアを開けると、「おかえりー」という母さんの声が聞こえた。まだ「ただいま」とも言っていないが、僕が帰ったとわかったらしい。
僕は靴を脱ぎ、靴下も脱いだ。なんとも言えない開放感と共に、一気に疲れが僕に襲ってきた。
僕は洗濯カゴにTシャツと靴下を投げ入れて手を洗った。その時、右ひじに擦りむいた跡があることに気づいた。前半にファウルされたときのかな。
上半身が裸のまま、リビングに入った。エアコンが効いていて涼しかった。
僕が冷蔵庫から飲み物を出そうとしていると、母さんが僕を見ていることに気がついた。
「なに?」
「負けちゃったの?」
と母さんは言った。手に持っていた麦茶のペットボトルを落としそうになった。
僕はまだ何も言っていないのに何故それがわかったのかわからず驚いた。
「なんでわかったの?」
僕が尋ねると、母さんは微笑んだ。
「勝っていたら、帰ってくるなり喋るでしょ。『今日はどこのチーム相手に何対何で勝った』とか、『点を何点取った』とか」
なんだか実夏にも同じことを言われたような気がする。
僕はそんなに単純なんだろうか。
「……負けたよ。ニ対三」
「そう……。惜しかったわね」
母さんは包丁を手に取り、人参を切り始めた。深くは追求してこない。負けたときはいつもそうだった。
僕は麦茶を入れたコップをテーブルに置いた。
僕は椅子にかけてあったTシャツを着た。いつもの柔軟剤の匂いと太陽の匂いが混ざった匂いがした。これで少し落ち着ける気がした。
「……本当は後半ギリギリで、智也が同点ゴールを決めたんだけどさ」
僕は椅子に腰掛けた。
「同点ゴール? じゃあ延長で負けたの?」
「審判にオフサイドって言われちゃってさ」
「オフサイド? 智也くんが裏に飛び出すのが早かったとか?」
母さんは僕のサッカーを観ているうちにルールを覚えたらしく、僕の話の内容に出てくるサッカー用語を理解してくれる。
「絶対にそんなはずないって、だって……オレと智也はずっと一緒にやってきたんだから。絶対にオフサイドなんかじゃなかった! あの線審は絶対ちゃんと見えてなかったんだ!」
つい僕は声を荒げてしまった。
「もし、オフサイドじゃなかったとしても、一度下された判定が覆るなんてないって私に教えたのは陽でしょ」
「そうだけどさ……。で、審判に文句言ったら、退場になって……」
次の言葉が見つからず黙っていると、母さんは「そっか」と一言だけ言った。
「全然、納得できない。これで大会終わるなんて納得できない。智也とまたサッカーしたい。なのにもうできないんだ。……あいつ転校するって」
「それは……、残念だったわね」
僕は、その母さんの言葉に違和感を覚えた。
母さんは智也が転校することについて全く驚いている様子はなかった。
まるでーー
「智也が転校すること知ってたの?」
母さんは包丁の手を止めた。鍋の中で何かが煮える音だけが響く。
そして、母さんは顔を上げ、僕を見た。
「知ってたわよ」
と答えた。
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