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僕は玄関のドアを閉め、エレベーターの前に立った。エレベーターは十階から降りてくるところだった。ちょうど来るのかなと思い、「下り」ボタンを押してみたが、エレベーターは八階に止まった。
誰かが八階から乗ってくるのかもしれない。
そう思った僕はエレベーター脇の階段から下へ降りることにした。
今の僕は誰かと一緒に乗るエレベーターに乗りたい気分ではなかった。自分でどんな顔をしているのかもわからないのに、知っているかもしれないマンションの住民に会いたくはなかった。
一歩踏み出してから、僕は階段を降りるスピードを上げた。雨の日のトレーニングのように全速力で階段を降りる。マンションの中に僕が階段を降りる音が響いているかもしれない。でも、そんなことは気にしていられない。
一階の廊下が視界に入り、階段が残り三段となったところで僕は跳んだ。一階の廊下に僕が着地する音が響き、足の裏にはジンジンとした痛みが伝わった。
このジンジンとする痛みは、現実だった。全速力で降りてきたので息が乱れ、呼吸が苦しい。心臓がドクドクと唸り、あっという間に額が汗ばんできた。
今、僕がここで立っていることは現実なんだ。悪い夢ではないんだ。
僕は少し息を落ち着けてからエントランスへと歩いた。誰もいない静かな廊下を歩いた。エントランスに差し掛かった時、ポケットに入れていた携帯電話が鳴った。
「誰だよ」と思い携帯電話を取り出し、ディスプレイに表示されている名前をみた。
表示されていた名前は、『松代実夏』。実夏からの着信だった。
いまは出たくないところだったが、さっき気まずい雰囲気にしたのは僕のせいでもある。ここで電話に出ないでいると、もっと気まずくなってしまうかもしれない。僕は、電話に出た。
「はい……」
電話の向こうの実夏はすぐには喋らなかった。どうしたんだろうと思い、「実夏?」と名前を呼ぼうとした時、実夏は話し始めた。
『……今どこにいるの?』
「え? いまはマンションのエントランス。郵便受けボックスの近く」
できるだけ息を落ち着かせて僕は答えた。
『ちょっと聞きたいことあるんだけど?』
「なに?」
『智也のこと』
実夏が智也の名前を出したとき、僕はなぜか実夏もまた智也の転校を知ったような気がした。
「……転校のこと?」
さっき実夏に話さなかった言葉を僕は切り出した。少し沈黙があった後に、電話の向こうの実夏が口を開いた。
『やっぱ陽も知ってるんだね』
「さっき知ったばかりだけどな」
『それでさっき機嫌悪かったんだね』
「あ……、うん」
『ごめんね、気づけなくて』
まさか実夏が謝ってくるとは思わなかった。なんだか実夏の声も暗いような気がして、僕は動揺した。
「いや……、あ、その実夏が気づけるわけはないんだから、そのさ」
『ちょっと話したいからさ、エントランスで待ってて。すぐ行くから』
「あ……」
僕が返事を返す前に、実夏は電話を切った。
電話を切ってから、本当にすぐに実夏はやってきた。さっき会ったときと同じ服装だった。
「あのさ」
「なに?」
「……ちょっとさ、そこの公園で話そ?」
僕はただ頷いた。
僕たちが幼い頃から何度も遊んだ公園、そこで実夏と話せば僕も何か落ち着くのかもしれない。
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