食後の一杯

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食後の一杯

食後の一杯 男は即断即決の人生を生きていた。 決断の早さを美徳とし、何事においてもためらうことなく判断を下すのであった。朝令暮改も日常茶飯事で、社長である彼に付き従う人々は一瞬たりとも気を抜いたりなどできるはずもなかった。全てが論理的な思考に基づくのであればまだいくらか納得のしようもありそうなものだが、彼はどちらかといえば感情に従って事を起こしてしまうので尚のこと厄介だった。しかし、大半の予想に反し、大抵の場合うまく事が運んでしまうので誰にもどうすることもできなかった。その性格は家に帰っても変わることはなく、彼の家族も半ば諦めの念を抱きながら受け入れているのだった。 ある休日の朝、つい先週に風水を取り入れて大掛かりな模様替えを敢行したばかりの部屋を眺めながら男はつぶやいた。 「やっぱり機能性に欠けるよなぁ」 そう言うや否や男は電話を手に取った。 あそこでいいか。何度か使ってやっているところだ。丁度今思い描くようなアイテムを揃いで持っていたはずだ。 「もしもし。あぁ私だが。実は部屋の模様替えを考えていてね。そちらに面白いシリーズがあっただろう。...そうそう。そのシンプルなデザインのやつだよ。明日にでも持ってきて取り替えてくれないか。...分かっているだろう。早い方がいいんだ!...そうだ、設置と引取りの業者の手配も頼もうか。全て終わったら請求書を送ってくれ」 相手の返事を待たずに電話を切ると、男は満足そうに息を吐いた。唯一欠かすことなく楽しんでいる、食後の、妻の淹れた砂糖たっぷりのコーヒーを片手に彼は思案に耽る。 「明日は家族で買い物にでも出かけようか」 翌朝、いつも通り食後の一杯を楽しんでいると、インターフォンが鳴らされた。いい時間じゃないか。ドアを開けるとスーツの男が姿勢を正して待っていた。作業着姿のスタッフを数名引き連れている。 「お世話になっております。この度は弊社にご下命を賜り、心より光栄に存じます」 スーツの男の額には汗が浮かび、体を小さく震わせているのだがそんなことは彼の目には止まらない。 「やあやあよく来てくれた。早速だが始めてくれ。家にあるものは分かっているね?」 「勿論でございます。何度もご利用いただいておりますので。お手を煩わせるわけにはまいりません。今回も全て、中身の移し替えまでやってしまいますね」 以前男の気を損ねた時に鬼のような抗議の電話を受けて以来、彼の対応には細心の注意が払われていることを男は知る由もなかった。 金払いはしっかりしているのであしらうわけにもいかず、今回のような関係が続いてしまっている。 「気がきくね。流石だよ。じゃあ、私たちはしばらく外出するから、終わったら連絡してくれ」 「承知いたしました。ご家族様とのお時間をぜひお楽しみくださいませ」 完了の連絡を受けて男が家族とともに自宅へ戻ると、やはりスーツの男が玄関前で姿勢良く待機していた。 「おかえりなさいませ。ご自宅の模様替えは無事に完了いたしました。ご確認いただいてもよろしいでしょうか。」 「それには及ばないよ。君たちの仕事を信用しているからね。今日はご苦労だった。サインするから、契約書を出してくれ」 夕食で軽く飲んできたのだろう。上機嫌な男はにこやかにサインをすませると、再度スーツの男を労って帰路につかせた。 すっかり様変わりした自宅を眺め、彼は大きく頷いた。うん、なかなかに上出来じゃないか。白とダークブラウンで統一された内装に、要所要所に置かれた観葉植物の鮮やかな緑がアクセントとなって洗練された空間を演出している。一通り見て回った後、彼は最後に妻を連れてキッチンへとやって来た。 「どうだい。すっきりしただろう。前までは少しごちゃごちゃしていたからね」 嬉しそうに彼は続ける。 「機能性と統一感をテーマにしてみたんだ。見てごらん。食器棚から調味料を入れておくキャニスターまで、きちんと調和がとれているだろう。何?どれも同じ形だから料理のときに困りそう?心配しなくても大丈夫だよ。キャニスターにはちゃんと中身が書いてあるからね」 その他にも妻から二、三質問を受けたが彼は笑顔で答え、終始上機嫌なままその日は眠りについた。 翌朝、いつものように食後の一杯を口にした彼は強烈な違和感を覚える。 コーヒーの味が明らかにおかしいのだ。しょっぱいような苦いような、なんとも言えない不快な味が口に広がった。彼は妻に大声で尋ねる。 「おい、コーヒーの味がおかしいぞ。何か変なものを入れたんじゃないのか」 妻が即座に返答する。 「ごめんなさいあなた。いつも通り砂糖をたっぷり入れただけよ。キャニスターには確かに"S"と書いてあったんだけど...」 以来、男の即決はパタリと止んだという。
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